ジラード事件




【事件概要】

 1957年1月30日、群馬県相馬が原の米軍演習場で、空薬莢拾いに来ていた主婦・坂井なかさん(46歳)が米兵に射殺された。当初は流れ弾に当たったものとされたが、米兵・ウィリアム・S・ジラード(当時21歳)が射殺していたことがわかった。


ウィリアム・S・ジラード


【薬莢拾い】

 1957年1月30日、群馬県群馬郡相馬村(現・榛東村)の米軍キャンプ・ウェア演習場(通称・相馬ヶ原演習場)で、空薬莢拾いに来ていたの村内の主婦・坂井なかさん(46歳)が米兵に射殺されるという事件が起こった。

 同演習場は榛名山の南側に広がる原野で、1920年(大正9年)に旧日本陸軍が開設した。その直後から、地元の農家の副収入だった炭俵あみの材料であるカヤが実弾演習で使い物にならなくなり、空薬莢拾いはそれに変わる副業として地元の人の貧しい生活の足しにするために行なわれていた。旧軍時代は規制が厳しかったのに対し、米軍は薬莢の回収について無関心だったため収穫は多く、村人たちは1日に2、3貫の薬莢を拾い、週に1度来る”仕切り屋”に貫7、800円ほどで売っていた。
 激しい演習が行なわれるほど、効率よく弾は拾えるので、村人達は立ち入り禁止区域に入ったり、実弾射撃をくぐるなど危険な行為をするようになった。こうした危険な弾拾いで、前年11月に不発弾を持ち帰って分解しようとした親子2人が暴発により死亡、事件直前の1月中旬にも村の青年が砲弾の破片で亡くなっていた。それでも村人は「運が悪かった」と言って、生活の糧である弾拾いを止めることはできなかった。

※1貫=3.75kg

 坂井さん一家は8人家族で、1920年に旧日本陸軍に土地を強制徴収され、1町5反歩だった耕作地が5反に減った。このため一家は弾拾いの収入に頼るようになった。

当初、坂井さんは流れ弾に当たったものとされたが、目撃者の証言から米兵に射殺されたということがわかった。
 米軍側はしばらくタカをくくっていたが、厳しい日本の世論にようやく同演習場の米軍第1騎兵師団・ウィリアム・S・ジラード三等特技兵(当時21歳)が射殺したことを発表し、合同調査にも応じるようになった。


【射殺】

 事件当日、ジラードの属する部隊約30名は、午前8時ごろから小銃、軽機関銃の実包射撃による陣地攻撃演習を開始し、これは午前11時ごろまであった。ジラードは小銃手として参加していた。演習は昼食後の午後0時ごろに再開され、攻撃側と守備側に分かれてほふく前進、射撃などを繰り返した。途中、薬莢拾いの農民が多かったため、部隊側は空砲射撃に切り替え、午後1時半ごろに攻守交代、今度は守備側となったジラードは休憩していたところ、上官のモーホン少尉から同僚と一緒に警備を命じられ、軽機関銃がある谷間に向かった。
 まもなく同僚であるニクル三等兵が近くにあった空薬莢を拾ってばらまき、ジラードは自分の近くにも投げさせたうえ、遠くで様子をうかがっていた農民に声をかけ、手招きした。これを見た坂井さんら2人が駆けつけ、薬莢を拾おうとすると、ジラードは壕を指さして言った。
「ママサンダイジョウビ タクサン ブラス ステイ」
 壕の中に薬莢がたくさんあるものと理解した坂井さんが中に入ると、ジラードは小銃に取り付けた手りゅう弾発射装置に空薬莢を逆向きに差し込み、空包を装てんして「ゲラル ヘア」と叫びながら走り寄った。
 声におどろいた坂井さんが逃げ出すと、ジラードはこれを追いかけ、後ろから空包を発射、坂井さんの背中に命中させた。1発目ははずし、2発目が命中したという。

 午後4時ごろ、演習場近くの渋川署桃井派出所に米軍から通報が入った。だがこれは事件から数時間が経過していたうえ、「演習場内に女性の変死体がある」というものだった。


【対立】

 検視の結果、米兵が撃ったらしいことが分かったが、これまでにもこういう事故が起きており、警察は手の出しようがない、という観測が強まっていた。
 この時、前橋地検の小縄快郎検事は徹底捜査を主張した。
「演習中といっても必ず米軍に裁判権があるわけではない」

 群馬県警と高崎署が乗り出し、群馬大で遺体の解剖がされると、空薬莢が出て来た。さらに坂井さんと行動していた農民を米軍キャンプに同行させた結果、撃ったのがジラードであることも判明した。

 米軍側は早々にジラードの身柄を確保し、2月5日には第一騎兵師団の師団長エドウィン・カーンズ少将は「調査中だが事故死と断定できる」と言明。7日に籠原キャンプを訪れた県警幹部に対しても、「警告のために空に向けて撃ったところ、誤って命中した」と憲兵隊は説明した。
 カーンズ少将は知事に送った書簡にも次のように書いた。
「事件は、被害者が明らかに自分の安全を無視して立入禁止区域に入ったため起きた。安全規則を無視した場合、重傷、死亡が起こることを県民に徹底させてほしい」

 県警はキャンプ外でジラードを調べたいと要望したが、裁判権は当然こちらにあるとする米軍により拒否された。だが県警は目撃者の「故意に撃った」という証言や、最初こそジラードをかばっていたニクル三等兵が日本側証言に同調したため、2月9日に傷害致死容疑でジラードを前橋地検に書類送検した。

 この事件は国会でも取り上げられ、また忘れられていた同種の事件も報道されたことで、国内の世論も高まった。岸信介外相も衆院内閣委でこう言明している。
「民族として耐え忍ぶことの出来ない事件である」

 岸外相は事件当日、石橋首相の病気により、首相代理に指名され、2月25日に岸内閣を組織した。「日米協調」をキャッチフレーズとし、日米安保条約の改定を目指す岸内閣は、ジラード事件に出鼻をくじかれることになったのである。

 11日、地検、県警、米軍合同による現場検証が行われた。ジラードと同じように空薬莢を発射して十分殺傷能力があることや命中率が高いことも確かめられた。ただこの時、目撃者の「7、8mのところから水平に撃った」という証言と、ジラードやモーホン少尉の「15〜20mの距離から空に向けて撃った」という証言が対立していたが、薬莢の遺体への射入角度などから見て「10m内外からの水平撃ち」という見方が強められていた。

 その翌日、日本側は米側関係者を直接取調べ。ジラード、モーホン少尉、ニクル三等兵らに地検への任意出頭を求めた。13日にも取調べが行われたが、裁判権に関する折衝は続いていた。米軍側が「演習という公務中の行為であり、裁判権はこちらにある」と主張するのに対し、日本側は「演習中の行為がすべて公務とは言えず、日本に裁判権がある」という態度をとった。

 2月16日、「日米合同委員会で決着をつけたい」とする日本政府は、米政府に合同委開催を申し入れ。米側の態度はなかなか固まらず、3月7日になって米側が協議することに合意した。
 だが裁判権の対立は続き、5月16日の分科会で米軍は国防省の方針に従い、「この事件については裁判権を行使しない」と日本側に通告した。


【裁判】

 5月18日、検察庁はジラードを傷害致死罪で起訴。これに対して、米国内では「ジラードを日本側に引き渡すな」という声が高まった。彼の故郷であるイリノイ州でも親族や在郷軍人会を中心に同様のキャンペーンが沸き起こっていた。ジラードの兄も「弟の人身保護を求める訴訟を起こし、6月18日に「身柄の日本への引渡しを禁ずる」という判決が出された。だが事件による日米関係悪化を懸念した米政府が控訴。最高裁で一審判決を破棄し、ようやく日本側に裁判権が認められた。

 この米国の世論が沸騰していた頃、ある新聞は次のように書いた。
「問題を混乱させることにより、親共分子の思うツボにはまり込んでいる。日本の裁判所に裁判させ、メンツが保てる程度の軽い宣告を受けさせたうえで、はたして日本に米軍をいつまでもとどめておく必要があるか、日本とともに再考慮する方が妥当である」

 7月5日、ジラードは埼玉県・熊谷の米軍キャンプで日本人女性ハルと結婚式をあげていた。

 8月26日、前橋地裁で第1回公判が始まる。ジラードは罪状認否において、次のように述べた。
「空薬莢をばらまいて人を呼び寄せるようなことはしていない。米財産を守るため、坂井さんの頭上に向けて威嚇射撃をしたが、当たるとは思わなかった。偶発的な事故だ」

 林主任弁護人は「公務中、上官の命令によって米国財産を守るため行った正当な行為。裁判権は日本にない」と公訴棄却を申し立て、公判は冒頭から白熱した。

 10月30日、ジラードに対して、「公務外で犯意十分」と懲役5年が求刑された。殺人罪ではなく傷害致死罪であった。

 11月5日、第13回公判の最終弁論。林主任弁護人は、事実認定について「ジラードは機関銃を守るため、薬莢拾いを追い払おうとした」とし、発砲行為に関する日本人証言を「信用できない」とした。ニクル三等兵の証言についても、「ジラードが本国で有名になったことに対する嫉妬、自分が犯罪者とされることを恐れる気持から」と言い切り、「論告は全部つくられた物語だ」とした。
 
 11月9日、前橋地裁・河内裁判長はジラードに懲役3年・執行猶予4年という軽い判決を言い渡した。大体においてニクル三等兵や日本側の主張が採用されたが、判決は情状で「危険な立ち入り禁止区域に入って、無秩序に行動した農民にも責任がある」「わざと命中するように撃ったのではない」「被告は深く反省し、再犯の恐れがない」などとした。

 弁護人も、直ちに「判決は大いに疑問だが、ジラードがこれ以上迷惑をかけたくないといっているから控訴しない」と述べ、一審判決が確定した。

 12月6日、ジラードは日本人の花嫁を連れて、横浜港から米軍用船で帰国している。


 事件から37年後の94年11月20日、外務省は戦後の「対米外交文書」の情報公開を行った。そのなかでジラード事件に関して、米側が日本の裁判権を認める代わりに、「ジラード3等兵を殺人罪より軽い傷害致死罪で起訴すること」、「裁判では可能な範囲で判決が最大軽減されるように働きかけること」といった条件を出していたことがわかった。
 また57年6月16日に岸首相がアイゼンハワー大統領との日米会談のために訪米した際、「米の裁判手続きが終わるまでジラード三等兵の公判開始を延期してほしい」という要請もあったという。


リンク


≪参考文献≫

警察文化協会 「戦後事件史 警察時事年間特集号」 
作品社 「犯罪の昭和史 2」 作品社・編
社会思想社 「20世紀にっぽん殺人事典」 福田洋 
新人物往来社 「別冊歴史読本 戦後事件史データファイル」
第一法規出版 「戦後政治裁判史録3」 田中二郎 佐藤功、野村二郎・編
東京法経学院出版 「明治・大正・昭和・平成 事件犯罪大事典」 事件・犯罪研究会・編
日本週報社 「日本週報 7月5日号 ジラード事件悪化の真相」
毎日新聞社 「シリーズ20世紀の記憶 60年安保・三池闘争 石原裕次郎の時代 1957-1960」


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