東京湯島・金属バット殺人事件




【事件概要】

 1996年11月6日、東京都文京区湯島に住む団体職員・A(当時52歳)が「自宅で息子を殺した」と警視庁本富士署に自首してきた。Aは同日午前7時ごろ、自室のベッドで寝ていた長男・M(当時14歳)を金属バットで殴り殺害。Mは日ごろから家庭内暴力を繰り返しており、Aはそのことで思いつめての犯行だった。

A


【A -惑うエリート-】

 1944年9月8日、Aは香川県丸亀市の農家に生まれた。家族構成は祖父母と父母、兄弟は兄と姉がいる。Aが生まれた当時、父親は京大生で、卒業後は農林省に入り東京勤務となる。Aが5歳の時、父が故郷に帰ってきて初めて一緒に暮らすようになった。

 小・中学校と成績優秀で手のかからない子だった。いつもニコニコしていて、辛いことがあっても言わない性格だった。Aは少年時代を過ごした間、家族から暴力を振るわれたことも、振るったこともなかったという。
 一方でAは吃音に悩んでいた。国語の朗読や、児童会の司会では途中から話せなくなるときもあった。中学卒業した後の春休みには大阪の矯正学院にも通っている。こうした吃音の悩みが気にならなくなったのは40代半ばの頃だった。

 県下屈指の進学校丸亀高校に進学。当時の同級生からの印象は「がり勉タイプではなく、明るくて勉強ができたタイプ」だったという。この頃、相変わらず出張が多く家にあまりいない父親に対して「給料安くてもここにいてくれ」と頼んだ。
 この頃、大江健三郎に心酔し、小説家に憧れたAは文科系を希望していたが、「文科系は女の子がいくところ」と理系を勧めたのが母親だった。また父親も卒業した京都大学ではなく、東京の大学に憧れていた。
 ところが東大受験に失敗したため、高校卒業後、東京・御茶ノ水の予備校に通った。この予備校は母親の強く推した予備校だった。

 翌年、東京大学理科一類に入学。大学に入ってから吃音恐怖症に苦しむことは少なくなった。理科系に入ったものの、自分の関心が文科系にあるとわかり「進路をまちがえた」と考えるようになる。入学後わずか半年で、「これまでの努力は無駄だった」と思うようになり、「死にたい」とまで考えるようになった。
 結局、3年時に文学部倫理学科に転部。4年時には東大紛争が起こり、この頃に妻と出会う。(妻は北陸地方で育ち、中学を出ていったん就職するが、上京して東大の図書館の司書をしていた)Aは紛争に参加するにつれ、「社会の見方が変わった」という。大学に入ってからはほとんど故郷にもどることはなかった。祖父が亡くなった時でさえ帰らなかった。

 1970年、かなりの高倍率を突破して社会科学系の出版社「青木書店」に入社。編集者として出版に関わる。このとき電話応対などで再び吃音を気にするようになったが、それでも有能な編集者として仕事をこなしていた。この年の12月に妻と結婚。73年には足立区の公団住宅から、埼玉県川口市のマンションに移った。

 1976年、長女が誕生。

 1978年 埼玉から妻の職場に近い文京区湯島のマンションに引っ越す。

 1981年、国際障害者年に合わせた企画として「障害者問題双書」に関わる。編集者として障害者の問題に携わっているうちに、価値観が変わった。それまでは学歴にこだわっていたが、障害者も人間として同じ価値を持っていると考えるようになった。

 1982年、長男・M誕生。Aが37歳、妻が36歳の時の子どもだった。妊娠時には「高齢者出産なので障害を持った子が生まれやすい」と聞かされたが、夫婦は「それでも育てていこう」と話し合って出産した。

 1992年、48歳の時、23年間勤めた出版社を退社。「子供の時から吃音で悩んでいたのでセラピストになりたい」というのが、その理由だった。家族には「あと10年、違う仕事がしたいんだ」と話し、妻に認めてもらった。Aはまず言語療法士の資格を取りたいと考え、国立リハビリテーションセンターの言語療法士養成コースを受験したが、結果は不合格。
 1993年4月、社会福祉士の受験資格が取得できるという東京清瀬市の1年制の専門学校に入学した。入学後も実習や、ヨーロッパの老人施設訪問ツアーなど積極的に活動した。

 1994年4月、豊島区にある精神科のEクリニックにケースワーカーとして就職する。仕事内容はアルコール依存症の患者30名の治療にあたるもので、ミーティングしたり文化活動、スポーツしたりするものだった。患者と喧嘩になることもあったという。仕事がきつくなり、6月頃からみるみる痩せ、10月頃「死にたい」という激しい気持ちに襲われるようになる。(この時期、Mも母親に自殺をほのめかすことを話している)そうした気持ちが抑えられなくなると、Aは東大のグラウンドの芝生で寝転んだり、自転車で街を走ったりするなどして気分転換していた。

 この年の11月にMの家庭内暴力が始まる。仕事の方も「夏ごろから失速状態だった」と話し、Aの心は追い詰められ始めた。結局、クリニックでの仕事は1年で切りやめ、1995年からは自宅にほど近い林業関係の学会事務局で事務員として働くようになる。この職場は週休2日で、午後5時には帰宅でき、週に何日かアルバイトが来る以外は1人での業務だった。暴力をふるうようになっていた長男ときちんと向き合うために、この仕事を選んだ。


【M ‐優しすぎる子ども‐】

 1982年生まれ。0歳から保育園に入っていたが、よく泣く子だった。保育園の先生も「数年に一人の過敏な子」と言ったという。デパートヘ行った時風船を配っていたが、「風船が飛んでいったら怖いから」と風船をもらおうとしなかった。夏祭りでも金魚すくいをやった時も「死ぬのが嫌だから」と金魚をもらわないで帰る子だった。保育園で雑巾を縫うからタオルを持って来てと言われた時も「僕、縫えるかな、縫えるかな」とずっと心配そうにしていた。
 小学校の入学式の日も、式の間はずっと泣いていた。運動会の練習などでも「風がこわい」「ピストルの音が怖い」といって先生にしがみついて泣いた。入学して2、3ヶ月は「学校に行きたくない」と言っていたが姉や父親が引きずるように連れて行った。そのうちMも学校に慣れ始め、6年間で欠席は0だった。熱を出して、親が「休んでいいよ」と言っても、無理して登校するようになっていた。

 小学校高学年になってからはサッカークラブにも所属し、活発な明るい子どもに成長していた。成績は中ぐらいだったが、両親とも「小学校からそんなに熱心になることはない」と学習塾に行かせるようなことはしなかった。父と子の関係も良好で、Mは他の父親と比較して「うちのお父さんは優しい」と言っていた。

 ところが6年生のとき、ひとつの事件が起こる。給食の時間に自由に席を移動してご飯を食べることになったが、どこにも入れてもらえずに帰宅後、母親に「給食の時間にいじめられている」「(地域の子供達がみんな行く)地元の中学校に行きたくない」と話す。だが当時の同級生の話によると、あれはいじめではなくただのふざけであり、Mはいじめられるような子ではなく、ひょうきんでよく先生に注意されるような仲間の中心的な存在だったという。
 
 地元の公立中学に入学。部活はなかなか決められなかったが6月にようやく卓球部に入部(のちにバスケットボール部に転部)。しかし、本意ではなかったため気が乗らないのか欠席しがちになった。同じ頃、授業中に騒いで教師に注意を受ける。帰宅後、母親に「高いビルから飛び降りたら死ねるかな」と漏らす。母親が「子どもが先に死んだら、親は悲しいんだよ」と諭すと、Mは素直にそれを聞き、学校には後日、反省文を提出した。

 11月頃、家庭内における暴力が始まる。


【Mの家庭内暴力】

 1994年11月2日午前6時半頃、いつものように母親がMを起こしに行った。しばらくして起きてきたMは突然母親の頭を叩いて蹴った。そして薬のビンを顔面に投げつけた。母親の目の周りは痣で真っ黒になった。この時、Aは「暴力はやめろ」とMに言った。

 その後も3日に1回くらい、母親に暴力を振るうようになった。Mが朝眠いので怒るのではないかということで、家族みんなが早く寝るようにした。
 前述した通り、Mの暴力が始まった頃、Aは豊島区のEクリニックで働いていた。このクリニックの院長は青少年の精神病についての専門家で、家庭内暴力の相談・治療も行っていたが、Aがこの院長に自分の家庭の中の暴力について相談することはなかった。Aは自分で本を読み、「親が援助してあげることが最良。親が荒れている子どもの心を受けとめてあげることが必要」と考え始める。

 翌1995年1月、父親にも暴力の矛先が向けられる。 
 プロレス好きなMはAにチケットを取るように頼むが、二つ並んだ席が取れなくて怒る。取っ組み合いになり、長女が止めにくる。30分ほどしたところで興奮した状態から落ちつき始め、父子は遠くまでサイクリングに行った。
 暴力を浴びるなかでAは以前通っていた専門学校で学んだことを思い出す。「受容」という関係があり、受け入れてあげることが大事だと感じる。暴力をふるわれても決して殴り返さず、ただただ耐え忍ぶようになった。

 2月、母親と長女は北陸地方の実家に帰る。祖母の見舞いのためである。母親の兄とカラオケにいくことになり、そこで母親がMに電話をかける。この時、母の兄が「お母さんを大事にしてくれよな」と電話で話す。母親が東京に戻ってくると、「なぜカラオケなんかに行くんだ」とMは母親を殴り蹴った。

 2月12日、MはXJAPANのメンバーhide(故人)に心酔しており、「hideのかぶっていた赤い帽子を一緒に買いに行きたい」とAに言い出す。しかし外に出てしばらくすると「もういいよ、帰ろうよ」と言い、家に戻った。その後、父に「土下座しろ」といって土下座をさせ、蹴るなど暴行を加えた。暴力をふるっているあいだ、Mは泣いていた。

 2月24日、夫妻は東京・九段の精神神経科診療所「北の丸クリニック」に相談に行く。この時の医者はAのとった暴力に耐え、息子を受け入れるという行動で良いと話した。

 3月、夫妻とMは後楽園のプロレスの試合の座席の下見をしてから、東京ドームにプロ野球のオープン戦を見に行く。Mがファンだった日本ハムファイターズの試合だった。ところが、プロレスの座席が予想以上に悪かったためか、Mはずっと不機嫌で、「帰る。タクシーを呼べ」と言い出した。母親とMが先に帰宅すると、こたつの板を投げたり、母親を殴ったりした。後からAが帰ってくると、「チケットを取りなおせ」と命令し、母親には「ビデオを借りて来い」と怒鳴った。

 4月、中学2年生になったMはそれまで父より小さかった身長が急速に伸び、180cmまで大きくなっていた。この頃は毎日に近いくらい暴力があったという。学校では学級委員をつとめていたが「好きでやってるんじゃない」と話す。

 6月、XJAPANの影響から、Mは父と二人ギター教室にギターを習いに行くようになった。この教室へは中学3年の10月まで通い、ギターの腕はどんどん上達していった。自宅での練習でわからないところがあると、父親に「すぐに先生に電話してやり方を聞け」と命じた。ギターの次にドラムセットも購入したが、こちらは教室で習わず、押入れで眠らせたままだった。

 6月12日、Mが寝てる間に好きなTV番組が終わっていた。Mは母親に「どうするんだ、土下座しろ」と土下座をさせ、頭を踏みつけた。顔面を床に打ち付けられた母は歯が折れるほどの怪我をした。口から血を出して泣きそうな顔の母親の顔を見て、姉が「なんてことするの」と怒ったが、Mは「おまえには関係ない」と答えた。姉に対する暴力はなかったが、興奮した時は姉に対しても乱暴な言葉を吐きかけた。姉は日常的に起こる暴力の音を聞きたくないので、よくウォークマンを聴いていた。

 7月10日、母親が暴力に耐えかね家出をする。姉がさがしに行くと、母親は東大の門の近くで震えており、「恐いので帰りたくない」と話したため、姉はそのまま「見つからなかった」と帰宅。母親は病院に3日間入院したあと知人宅に身を寄せた。

 それまで母親がやっていたことを父親がやらなければならないようになり、Mの体育着をそれ用の袋に入れていなければならないのを入れてなかったことで、MはAを針金のハンガーを1本にして殴りつけた。十数回も血が出るまで殴った。この頃からMはプラスチックバット、ギター、ブーツなど物を使って父親に暴力をふるうようになる。

 果てしない暴力に打ちのめされつつあったAは「死にたい」と考えるようになった、前年にも自殺念慮はあったがそれは仕事上の悩みであり、今回のそれは息子の暴力に起因するものだった。息子の相談に訪れていたクリニックでも、Aのための抗うつ剤が処方されている。だが、これを服用すると物忘れが多くなり、息子のビデオ録画要求になかなか応えられなくなったため、途中から飲むのをやめた。

 9月、Mは二学期になってはじめの2日だけは学校に行ったものの、不登校になる。二学期の欠席は53日(出席34日)にもなり、たまに学校に行く時は自宅マンションから歩いて1分もかからない中学校の方に向かわず、親友のT君を家まで迎えに行き遠回りをして登校するようになった。担任教師は何度も自宅を訪ねたが、Mの様子は変わらなかった。一方、父親は以前に不登校に関する本を読んでおり、「無理に登校させようとすることはよくない」と学んでいたことから、「長い目で見よう」と思った。

 この頃、Aはクリニックに行き医師から「奴隷のように使われるのも、ひとつの技術ですよ」という話を聞く。この言葉は受診をやめてからも、Aの心にずっととどまるようになった。Mのための睡眠薬と精神安定剤も処方され、味噌汁に混ぜてMに飲ませた。

 9月16日土曜日、Aはサンドイッチを買って来いと言われ買ってきたが、Mはそれを気に入らずAの顔面を蹴る。Aの鼻は折れ曲がってしまった。週明けに整復手術。

 10月、知人宅に身を寄せていた母親が時々帰ってくるようになる。

 11月2日、A、1人で南アルプスを見に甲府まで出かける。これは母親の「Aを休ませたい」という勧めからだった。

 12月、暴力を見るのを耐えかねた長女がアパート暮らしを始める。
 同じ頃、年の瀬のXJAPANのライブに行くための洋服を買って来いと命じる。7、8万円もする高価なコートなど、hideの着用していたものを探させて買わせた。母親は保険を解約するなどして、この高価な洋服代にあてていたという。
 またある時、Mは母親と食事に出かけたが、4〜5人分のスパゲッティを注文し、自分が少し食べた後、母親に「残りを食べろ」と命じた。母親は食べなければまた殴られるだろうと、水を飲みながらなんとか食べたが、帰宅後、「食べ方が汚い」と言ってやはり殴られた。

 1995年冬頃、Mは急激に痩せ始める。Mはモデル出身のある有名人に憧れており、ものを食べなくなったり吐いたりしていた。1週間ヨーグルトだけで過ごして倒れたこともあった。また、抜け毛を気にしたり、唾を飲みこめなくなるなど、見る見る不健康な姿になっていった。

 1996年1月、Aが帰宅すると、Mが裸同然の姿で意識朦朧としていた。Mはクリニックでもらってきた8錠の錠剤を1度に飲んでいた。横になりながら「俺なんて生きていても仕方ない」とMはつぶやいた。

 3年生にあがる直前の3月、AとMは自宅近くでキャッチボールをしていた。この時、Aは「高校に行くのか」と尋ねている。この言葉でMは不機嫌になり、帰宅後、父親を殴った。Aは殴られながら「ギターを習って楽譜が読めるようになったことは決して無駄ではない。音楽に関心があるならがんばれ」と言った。

 中学3年生になったMはたまにだが学校に行くようになる。修学旅行にも参加している。
 一学期のある日、同級生がMを家まで迎えにくると、Aが出てきて「もう息子を迎えに来ないでくれ」と言われた。

 6月24日、Mの部屋にムカデが出る。Mは「殺してくれ」と父親に頼むが、Aはムカデを取り逃がしてしまう。これに怒ったMが殴る蹴るの暴力、父親は太ももを内出血していた。この時Mは母親に「出て行け」と言い、母親は長女のアパートの避難する。父と息子、2人だけの生活が始まる。

 6月27日、Aは「東京シューレ」の親ゼミに初参加(5月の第1回は不参加)。自己紹介を兼ねて、家庭内暴力のことを話した。

 7月、Aはビデオ録画に失敗したことからMにプラスティック製バットで何度も殴られる。しかも、固いグリップの方で殴られた。この一件から、凶器として使用されないように家にあった金属バットを処分する。
 Mは妻の衣類、書籍類、家具など必要のない家の中の物をAに捨てさせた。また、無理難題な買い出しやTV番組の録画を命じ、Aを疲労させる。Aはこの頃、目の周りに痣ができたり、口を切るなど生傷が絶えなかった。食事もあまりとらず痩せていった。(心労か、Mのダイエットに合わせていたのか)

 8月にはいってから、Aは本格的な自殺念慮に悩まされるようになる。「完全自殺マニュアル」(鶴見済・著)を購入。首吊り自殺が一番簡単で、確実に死ねるというので、職場の行き帰りにどこかに首を吊るのに適した木がないか探すようになる。3、4回は実際に首を吊るのを試してみたという。
 さらにこの夏、16年間やめていた煙草を吸い始めるようになった。Mの命令で買い物に行く時、外で一服するのが唯一の息抜きであった。家の中で喫煙するとMが怒った。

 長女が両親に対して、Mを入院させるように勧めたことがある。世田谷の梅ヶ丘精神病院に長女と3人で見学に行く。しかし実際の入院施設を見てみて、Aは入院させるとMがショックを受けてしまうのではないかと思い断念する。

 8月18日から21日まで、家族旅行で関西方面に行く。甲子園で高校野球を観戦した後、母親と長女とは別れ、2人でJR西日本の「金田一少年のミステリーツアー」というツアーに参加した。これは当時「週刊少年マガジン」に連載されていた人気推理漫画の企画で、岡山県倉敷市のいくつかスポットをめぐり、謎を解いていくと言うものであった。この旅行は穏やかに過ごせたが、帰宅後、Aがきびだんごの残りを全部食べたことをきっかけとして暴力。

 8月22日、「シューレ」のグループカウンセリングに夫婦で参加している。この親ゼミに参加するのは3回目で、この時「これはこれ以上出席しても見通しがたたない」と最後の参加となっている。このフリースクールはそれまで夫妻が相談していたKクリニックとは不登校に対して違うスタンスをとっていた。Kクリニックは不登校を青少年の病気として捉え、早く治さないと大人になってから大変なものになると話していたのに対し、「シューレ」では学校に行けないことで自責の念を持っている子供たちを精神的に解放してあげるべきだと考えていた。

 9月、二学期になってMは継続的に学校に行くようになった。午後の5、6時間目だけ行って、放課後友人と遊ぶというような感じだった。
 同じ頃、Aが金属バットを購入。バットは職場に保管していた。バットを持つ時のための軍手や、縄跳びも購入した。縄跳びはバットで中途半端に殴るよりも、首を絞めて完全に殺してあげたいという思いからであった。それまでの激しい自殺願望の変わりに殺意が芽生え始める。だからと言って、すぐに殺したいというものではなく、「具体的な凶器を購入することによって、自分の殺意がどこまで本当か確かめてみたかった」とのちに供述している。

 10月9日、Aは新しいカウンセラーのもとに相談に行く。同じ家庭内暴力を合う父親と知り合い、連絡をとるようになった。

 10月20日、中学の授業参観。体育の授業でAが見たのは楽しそうに笑顔をふりまく息子の姿だった。校長もうれしそうに、Aに声をかけた。
 この後、Aが金属バットを職場から持ちかえるきっかけとなる1件が起こる。Mは友人4人とソフトボールをするということで、「バットどこ?ここにあったのに」とに尋ねてきたのだ。3ヶ月前に捨てた自宅の金属バットがないことをMが知ってしまった、とAは思った。Aは職場に置いてある買ったばかりの金属バットを自宅に持ち帰り、そのバットはAの自分の押入れに隠しておいた。

 10月22日、Mの好きな人気ロックグループの一人が経営する店(渋谷区)で、両親はMの欲しがっていたウインドブレーカーを購入。しかしMはそれを気に入らず、「返して来い」とその服につばを吐きかける。さすがに唾で汚れたそのウインドブレーカーを返品しに行くわけにもいかず、Aの職場に隠しておいた。

 この頃、通信制高校との連携で高卒資格の取れるギターの専門学校の入学面接が12月にあったため、Mは不安になっていた。

 11月3日、学校で文化祭があるのでMが遊びに行く。

 11月4日、M、友人と遊びに行く。一方、Aと妻は渋谷へ買い物に行き、Mのための洋服を「丸井」や「ユナイテッドアローズ」で購入。しかしMはそれを気に入らず、「返して来い」と言う。Mは洋服を買って来いと指示する際、具体的な色やデザインの指定はしていなかった。両親は丸井などでセーターなど3着を買っていた。

 11月5日、文化祭の振り替えで学校は休みだった。Mは女子を含めた友人達と高校見学に行くことになっていた。Aは仕事があったのだが、Mの友人が来るので「11時ごろまでは家にいろ」と言われる。これは友人達と食べるお菓子を買ってこさせるためと、友人が訪れる際、家のドアが開いていた方がよいからである。Aは言う通りにして、午前1時半ごろ出勤した。
 Aはこの日、午後も買い物に行くと職場にお願いして、アルバイトに仕事をまかせ、昼休みに根津駅で妻と待ち合わせして、再び渋谷に買い物に行った。前日、Mに指示された「トランスコンチネンツ」の洋服を買うためである。ここでも2着の洋服を買っている。両親はまた「返して来い」と言われないためにも、この店でかなり長い時間をかけて商品を吟味していた。

 渋谷を歩いている途中、Aが自然と悲しい顔になるのを見て妻が「そういう顔をしないでください」と言うと、Aは「しないつもりでもそういう顔になっちゃう、家に帰ったらしないから、ここではそうさせてくれ」と話した。妻はAの背中をとんとんと叩いた。

 この日の夜、職場から帰ったAはMにゲームの攻略本を買うように言われ、神田まで買いに行った。それから帰ると、すぐにビデオの録画をセットして、借りたレンタルビデオを返しに町谷の店にまで行かなけらばならなかった。10時ごろ、ビデオ屋から帰ると、Mが「今日買ってきた服見せろ」と言うので、トランスコンチネンツの服を見せると、「なめんなよ、何でこんな物買ってきたんだ、すぐ返してこい」と言って殴り始めた。この日は掃除機の柄で殴り、柄が折れてバラバラになっている。Mは「明日も買って来い」と言った。その後、2、30分ほどして「お父さん、チャーハンを作ってくれ」と言ってきた。この時はもうMは冷静になっていた。Mは暴力を振るう時は、親に対して「てめえ」と怒鳴るのに対し、普段は「お父さん」「お母さん」と非常に子供らしい言葉使いをしていた。この辺りのギャップが家族に暴力を耐えさせるひとつの救いだったのかもしれない。だが、限界は迫っていた。


【殺害の日の朝】

 11月6日朝、A、6時に起きる。(前夜は深夜番組録画のため、3時前後に寝た)この日はMに7時に起こすように前夜頼まれていた。6時半頃、AがMの寝室に入ると、息子はすやすやと眠っていた。

「今は静かだが、今日もまた殴られるんだなあ」

「今日も殴られるんだなあ。これからもずっと殴られるんだなあ。こんな緊張した苦しい状態からいつ逃れられるかわからないなあ。ずっと続いていくんだろうなあ」

 Aは息子の穏やかな寝顔をみながらそう思ったという。

 息子を起こす7時までのあいだ、父親は絶望のなか迷いつづける。

 だがAは決断する。
 押入れから金属バットを持ち出してきて、引き出しにあった軍手と縄跳びの縄を取り出した。7時すぎ、Aは金属バットをMの頭部に4、5回振り落とした。その後、Mの首に縄跳びを巻いて絞めた。Mは脳挫傷と窒息による競合により死亡した。


【逮捕後のA】

「私を支えてくれる人はたくさんいるのに・・・(嗚咽)・・・殺されたMをですね、支えるのは、私たちが支えなくてはならなかったのに、それを殺してしまった。」

「Mはいい子だった。・・・・(号泣)・・・見捨ててもいいと思えるくらいなら、彼の傍を離れられたと思いますが、離れられなかった」

「学校での苦しみが親に向かってきたのか、育て方に問題があったのか。ああでもない、こうでもないと考えています」

 その他、Mのビデオ録画要求がよほど負担になっていたのか、留置場で「ビデオを撮ってない!」と目が覚めたこともあったという。


【裁判】

 1997年6月2日、東京地裁での第4回公判。弁護側の証人として、精神科医が証言した。
「長男の暴力により、過酷なストレスが生じて、PTSD(心的外傷後ストレス障害)に陥っていた。このような状態では、親子が同居するのではなく、公的な機関が引き離すべきだった。被告人にしてみれば、強制収容所にいるようなもので、もはや解決不可能の心理状態だった」

 第5回公判。妻が弁護証人として出廷。
「夫はつらい拘置所の中にいるのに太った。つらい拘置所の中にいるのに柔らかな顔になったんです」と証言した。

 1998年4月17日 東京地裁、Aに懲役3年を言い渡す。減刑嘆願の動きがあり、500人が署名していたが、Aは最終陳述で「息子のことを想うと、減刑や執行猶予を求める気にはならない」と述べていた。


リンク


≪参考文献≫

朝日新聞 (96年11月7日付 他)
朝日新聞社 「AERA臨時増刊 子どもがあぶない」
キャプナ出版 「見えなかった死 子ども虐待データブック」 子どもの虐待防止ネットワークあいち・編
教育資料出版会 「闇に向かった家族 父親はなぜ息子を殺したのか」
近代文芸社 「震災以後 ニュースらいだー’95〜’96」 黒田清 
近代文芸社 「少年Aの時代 ニュースらいだー’97〜’98・6」 黒田清 
講談社 「特捜検事の『証拠と真実』」 清水勇男 
春秋社 「『少年』事件ブック」 山崎哲
新潮社 「新潮45 03年2月号」 →「平成『子殺し』事件ファイル」 増田晶文 

青春出版社 「人が人を裁くということ 罪と人間のはざまにある”心”の記録を追って」 佐木隆三
宝島社 「別冊宝島 殺人百貨店 日本人はどういう理由で人を殺すのか?」 
筑摩書房 「少年事件 暴力の深層」 西山明・編
東京法経学院出版 「明治・大正・昭和・平成 事件犯罪大辞典」 事件・犯罪研究会・編
毎日新聞社 「父の殺意 金属バット事件を追って」 前田剛夫
明窓出版 「うちのお父さんは優しい」 鳥越俊太郎・後藤和夫



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