横須賀線爆破事件





【事件概要】

 1968年6月16日午後3時28分ごろ、観光帰りの乗客を乗せた横須賀初の上り電車が大船駅手前で突然爆発し、死者1名、重軽傷者27名をだした。
 まもなく日野市に住む大工・若松善紀(当時25歳)が逮捕された。ある女性と結婚を約束していたが逃げられたので、女性の乗る横須賀線を爆破してやろうというのが犯行の動機だった。


若松善紀


【日曜の午後の電車で】

 1968年6月16日。日曜日の午後3時28分頃、横須賀発東京行き10両編成の上り電車が、北鎌倉駅を出て大船駅100手前の踏切にさしかかった時、6両目の網棚に置かれていた新聞紙の包みが突然爆発した。この車両には鎌倉観光帰りの人など60数名の乗客が乗り合わせていたが、1人が死亡、27人が重軽傷を負った。


 6月5日葛飾局消印で、警視庁捜査一課の刑事部長にこの犯行を予告したものと思われる投書が届いていたことが判明した。


刑事部長殿
 今月の16日に東京駅のどこかに、手製のダイナマイトを仕掛けるので注意されたし。
四十一年に東京の交番のおまわりが、頭を殴られて死亡したのはどうなったかね。
あれは私がやったのです。あの人は、やたら交通を取り締まっていたので生意気だ。
俺は絶対捕まらない。
とにかく今月の中ごろ、東京のどこかに大事件が起きるので楽しみに待っていてくれ。

 投書は17日にも刑事部長宛てに届いた。


 私が差し上げた六月四、五日ごろの手紙を読んだことと思います。
 手紙に書いたとおり、六月十六日にダイナマイトで爆発させるといったのですが、いかがでした。私は実行に移したまでです。
しかし、大船で爆発したのは、私のミスでした。初めは東京駅にするつもりでタイムスイッチを東京着の十六時二十四分の二、三分前に仕掛けていたのですが、どこで狂ったのか、大船で爆発してしまったのです。
 七月七日、上野駅で爆発させるつもりです。

 2通目の投書とともに同封されていたのは、この人物の犯罪歴を記載したメモだった。それには63年と64年に駐車中の乗用車を盗み、川崎市の病院で医師と偽り、入院患者の指輪を2個を盗んだという。
 この病院を調べてみると、確かにこうした事件は記録されていた。さらに犯人の指紋も検出されていたため、前科者と照合してみたところ、67年に自転車窃盗した25歳の男が浮上した。
 7月5日、捜査一課はこの男を逮捕。ところがこの男は投書を送ったことは認めたものの、爆弾事件には無関係だということがわかった。窃盗事件でも執行猶予付の判決を受けて、釈放されている。

 警視庁はこの事件を広域107号に指定。

 11月9日、捜査本部は遺留品の入手経路などから、東京・日野市の若松善紀(当時25歳)を逮捕。若松は素直に自供し、大船署の留置場で心境を記した。


手記
私しは横須賀線電車を爆破したのですが別に世の中にふまんが有ったのではありません。
社会に対して反感もありません。
只、電車のなかで爆発をやって見たかっただけです。
現在の私しの気持ちは本当に申し訳ないと思っております。
どんなつぐないでもするから許してください。
  十一日



【若松善紀】
 
 若松は1943年山形県尾花沢市で生まれた。4人兄弟の末っ子である。若松がまだ乳児の頃、トラック運転手だった父親(35歳)は出征してレイテで戦死している。

 1947年ごろ、若松は東京から「疎開」してきたM子という少女と出会う。格好の遊び相手となり、若松にとって幼少時の良き思い出となった。M子は母と2人暮らしで、父親は窃盗事件を起こし刑務所に入っていた。1950年ごろ、M子は母親の再婚のため山形を離れ、横浜市に移った。

 小学生、中学生時代の若松はおとなしいが友達は多いタイプ。また機械いじりの好きな子供だった。頭は良かったが、吃音が気になるようになり、授業中教師にさされるとしどろもどろになることがあった。

 若松一家はたいへん貧しく、若松は中学卒業後、山形市で大工見習いとなっている。手先が器用で、物覚えが良かった若松だったが、1年と少しで辞めた。高校進学の想いが収まらなかったからである。姉たちは出きる限りの援助をしてでも若松を高校に進ませたいと考えていたが、母親の反対により若松はあきらめることとなった。

 1960年からは東京・保谷市(現・西東京市)で見習い大工の仕事を見つけ働く。
 1963年8月には一人前の大工として採用され、新宿区西落合に部屋を借りた。2級、1級建築士を目指し、このための勉強の他にラジオ講座で数学と英語の勉強もするという真面目な若者だった。さらに子供の頃から常に悩みの種だった吃音の矯正所にも通い始め、自信を取り戻すこともできた。

 1967年2月、若松は幼少時によく遊んだM子と再会した。お互い23歳。M子は従姉の経営する食堂を手伝っていた。年賀状の付き合いはあったが、再会のきっかけは若松の書いた手紙だった。2人はたまに会うようなって親密になり、すぐに同棲生活を送って結婚を約束する仲になっていた。
 ところが4月頃、M子はアパートを出ていった。理由はいくつかある。母親に結婚を猛烈に反対されたことや、父親が刑務所で死んだことを知ったこと、M子は18の時に職場の男性と結婚していること、そして最大の理由と言えるのが、M子は若松と同郷で、同じ工務店に勤める1歳年上の男に若松とのことを相談しているうちに親密になっていたことだった。

 10月、若松は7年以上勤めた工務店を辞め、川崎市の工務店に移っている。住居も日野市の借家に変えた。
 
 事件当日、この日は朝から大雨で、まず仕事は休みになる。
 午後1時45分ごろ、無煙火薬を詰めた三方継手に時限起爆装置をとりつけ、東京発の電車内にこれをセットした。 
 愛は憎しみに変わる。M子が通勤に使っていた横須賀線を爆破してやろう、というのが犯行の動機であった。

 爆発物をしかけた若松が思っていたよりも大惨事になったことや、報道の大きさなどから、若松は自殺を決意した。レンタカーを借りて、海を目指して北上した。ところが北上するうちに尾花沢まで来てしまう。実家にはわずか3時間ほどしか滞在していない。裏山の父親の墓で手を合わせただけだった。その後進路を変えて、伊豆の波勝岬に向かう。そこで海を見ていた彼は、生きることを決意した。再び日常生活に戻り、逮捕の日を待つのである。


【裁判】

 1969年3月20日、横浜地裁、死刑判決。

 同じ頃、若松は教誨師だるプロテスタントの牧師との出会いによってキリスト教に関心を持ち始める。聖書を読み、通信講座で勉強を始めた。短歌も嗜んでいた若松は次のような歌を詠んでいる。

死を望む心なけれど独房に虚しきときは詩編繙く

信仰に生くれば獄の些細なる動きにも神の御技はたらく

水溜に移る死囚の影淡しその影さへも風にさゆらぐ


 1970年8月11日、東京高裁、控訴棄却。

 1971年4月22日、最高裁、上告棄却。死刑確定。

 死刑確定後の若松は短歌とヘブライ語研究に情熱を注いだ。

※ヘブライ語・・・・イスラエル国の公用語。また、各地のユダヤ人社会で使われる。アフロ-アジア諸語の西北セム語派に属す。古代ヘブライ語は旧約聖書の言語。話し言葉としては紀元前三世紀以来使われなくなっていたのを、シオニズム運動の中で人工的に復活させた。

 1975年12月5日、死刑執行。享年32。

 若松は最高裁への上告趣意書の中で次のように書いていた。

その社会に仮りに罪を犯す人間がいたとしたら、彼をその罪にかりたてたものは何か。それを明らかにした上で、その人間を裁き、また原因となったものを真に、あらためていく方向の社会形成をする。そうした思想が生まれない限り、人民の独り独りは永遠に救済されないであろう


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≪参考文献≫

原生林 「隠語で綴る事件簿 犯罪手帳」 高田重夫
現代評論社 「現代の眼 78年8月特大号 全特集・戦後犯罪史−怨恨と欲望の社会病理」
作品社 「犯罪の昭和史 3」 作品社・編
三一書房 「殺人者の意思 列車爆破狂と連続射殺魔」 鎌田忠良
至文堂 「現代のエスプリ70 犯罪の人間学」 福島章・編
社会思想社 「20世紀にっぽん殺人事典」 福田洋 
ジャパンミックス 「猟奇殺人のカタログ50」 CIDOプロ・編
春秋社 「<物語>日本近代殺人史」 山崎哲
青林堂 「爆破 人間原型論序説」 野本三吉
宝島社 「別冊宝島 殺人百貨店 日本人はどういう理由で人を殺すのか?」 
中央公論社 「死刑囚の記録」 加賀乙彦
東京法経学院出版 「犯罪調書 ●17の事件簿」 笠銀作
東京法経学院出版 「明治・大正・昭和・平成 事件犯罪大事典」 事件・犯罪研究会・編
徳間書店 「人間臨終図鑑 上巻」 山田風太郎 
徳間書店 「殺人百科V」 佐木隆三
二見書房 「捜査一課 謎の殺人事件簿」 近藤昭二 
ぶんか社 「警察庁広域重要指定事件完全ファイル」
毎日新聞社 「シリーズ20世紀の記憶 1968年 グラフィティ バリケードの中の青春」 



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