戦後初女性死刑囚・山本宏子事件




【事件概要】

 1949年6月、岡山県菅野村の山本宏子(当時34歳))は、借金の返済に困り、村内に住む女性(69歳)を鎌で殺害、物を盗り火を放って逃げた。戦後初の女性死刑囚。
 

山本宏子


【家族背負って】

 山本宏子は兵庫県飾磨郡菅野村西荒木(現姫路市)に、病床にある夫、4人の子供とともに暮らしていた。
 宏子は結婚前はオルガンや三味線、舞踊などを趣味にする看護婦で、見合い結婚である。4人の他に3人の子は幼児期に死亡している。

 夫の病気は一向に良くならない。宏子は苦しい家計をたった一人で支えるため、米どころの岡山と大阪界隈を重い米を背負って行き来していた。いわゆる「カツギ屋」という商売である。山裾にある農家から一斗、多いときは二斗の米を運ぶというのは楽な仕事ではなかった。

 1949年春、宏子は岡山のとある農家から玄米ニ斗(当時で1万6000円相当)を借りた。それを元手に商売をしようとしたのである。しかしその米も自分達が食べる分にまわりはじめる。
 その農家の人もしばらくは返済を催促しなかったが、次第に「娘の嫁入り資金に金がいる」「増築するから」と言って、返済を迫り始めた。家族6人の生活を維持するだけで精一杯な山本にとって、そんな金額は最初からとても返せるようなものではなかった。家財道具などを少しずつ売ってはいたが、全額返済はどうしても出来そうになかった。

 自宅には返済を求める使いの人がやって来るようになり、病気で寝ている夫に「仮病だ」と言ったりした。山本家は米もわけてもらえなくなり、米びつの米も無くなるという状況。乳の出も悪くなり、末子の夜泣きもひどくなった。宏子は意味もなく子供をせっかんするようになった。さらに診察料を滞納していたため夫を診る医師も寄り付かない。
 山本家がこの先どうなるのか、宏子にはわからなかった。


【老婆】

 1949年6月9日、自宅に帰ってきた宏子は、今日も返金催促があったことを夫から知らされる。

 この日の夜、以前金を借りたことのある村内のAさんの家に借金に行ったのだが、応対をしたのが妻B子さん(69歳)の方だった。
 普段から「鬼婆」と陰口をたたかれているこの妻は気性の荒い人物だった。この時も宏子の申し出に対して、拒絶し罵倒した。

 午前1時半、鎌を手にした宏子は再びAさん方を訪れた。Aさんの方は結核闘病中のため1階で眠っており、B子さんは2階で寝ていた。B子さんは熟睡しており、宏子の気配に気づく様子もない。宏子は室内を物色していたが、B子さんが動いたような気がしたため、宏子は咄嗟に鎌を振り落とす。何度も振り落とすうちにB子さんが死んだのを確認した。

 それから宏子はわずか5分のあいだにタンスの衣類119点(時価15万円)を引っ張り出し、それを大風呂敷に包んで、さらに金庫から1万8000円を奪った。
 さらに犯行の発覚を恐れて、新聞紙を丸めて火をつけ、そばにあったベンジンをぶつけた。炎は天井まで届きそうなほど燃えあがり、宏子は現場から逃走した。

 1階で寝ていたAさんはいったんは救助を拒否したらしいが、無事救出されている。しかしその3日後に病死、生前「あれは自分の犯行だ」というようなことも漏らしたらしい。
 宏子は私生児だったが、このAさんが実父ではないかと思っており、Aさんの方もそれを認めているようなフシがあった。Aさんは宏子をよく目にかけてくれたし、宏子も何かと病気のAさんの世話をしていた。犯行時、そのAさんが下で寝ていることを知りながら、宏子がなぜ火をつけたのかはよくわからない。

 現場近くで宏子らしい人物がいるのを目撃した人がいたことや、宏子が大金を持って例の農家に借金の返済に行ったこと、被害者がお札に番号をふっていたことなどが判明し、事件の2日後に宏子は逮捕された。


【女性死刑囚】

 同年12月26日、神戸地裁姫路支部において求刑通り死刑が言い渡される。

「わたくしが、どんなに悪い女であっても、広い世界であの子供たちにとって、わたくしほど良い母親はありません。子を想う母の心を哀れと思召して、せめて刑務所から子供たちの将来を見守らせてください」
 宏子は助命嘆願書をつけて控訴。

 これに同情した大阪高裁・宮田裁判長は、友人の十川弁護士を国選弁護人に選任した。

 しかし1950年7月、大阪高裁控訴棄却。
 
 1951年7月10日、上告棄却、死刑確定。これにより山本宏子は戦後では第1号の女性死刑囚となった。


 死刑囚となった宏子は俳句に心の安らぎを求めた。子を想って作った作品が多く、それは千首に及んでいる。

食台に 汗の指もて 子の名かく

入学の子 母を忘れて くればよし


 宏子の様子がおかしくなったおは確定から3年半ほど経った時のことである。
「みんな私に電波を出して下さいます」
 意味不明なことをしゃべりだしたのである。それまでは模範囚だったが、支離滅裂な行動も増えた。

 1969年9月2日、宏子の個別恩赦が閣議決定され、12日になって拘置所長から宏子に伝えられた。18日、宏子は八王子医療刑務所に送られている。

 1972年2月24日、宏子は和歌山刑務所へ移され、1977年7月29日に執行停止処分に。これは結核の症状が悪化したためだった。奈良県大和郡山市の国立療養所に収容された山本は、事件から30年近くが経った1978年3月4日、ここで病没する。享年62。
 宏子は死刑執行を免れて、この間戦後の女性死刑囚ではホテル日本閣事件の小林カウが第1号として執行されている。


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≪参考文献≫

笠倉出版社 「日本の女殺人犯101」 日高恒太朗
宝島社 「戦後死刑囚列伝」 村野香
東京法経学院出版 「明治・大正・昭和・平成 事件犯罪大事典」 事件・犯罪研究会・編
日本文芸社 「現代読本 昭和の女性犯罪」
六月社 「私はそこにいた 戦後20年大阪事件史」 畑山博
鹿砦社 「女性死刑囚 十三人の黒い履歴書」 深笛義也


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