矢板・実父殺し事件




【事件概要】

 1968年10月5日、栃木県矢板市で、娘(当時29歳)が実の父親(53歳)を絞殺するという事件が起きた。父親は娘が中学生の時から乱暴し続け、娘は父親の子を出産していた。


A子


【父が布団に】

 栃木県佐久山町にTという男がいた。
 Tは農業のかたわら町役場の吏員として勤め、青年学級の指導員でもあった。妻とのあいだに長女A子をはじめ、二男四女をもうけた大家族だった。
 A子は1939年生まれ。父母が24歳の時の子どもである。

 昭和28年、農業を嫌ったTは、宇都宮に移り味噌・雑貨を扱う商売を始めた。木造平屋の二間に9人が暮らした。商売はうまくいかず、貧しい生活が続いた。

 中学2年の三学期頃、A子(当時14歳)が四畳半で寝ているところ、酒臭い父親が布団にもぐりこんできて体を触られた。他の兄弟が折り重なるように寝ていたので、A子さんは家族を起こすまいとそのあいだ声を出すことはできなかった。そしてそのまま父親に犯されたのである。以後、母親の目を盗んでは、1週間に1度、10日に1度と犯され続けた。

「お父ちゃんが私のところへ来て変なことする・・・」
 中学3年になったA子は泣きながら母親にこのことを打ち明けている。だが母は「どうりで私のところにこなくなった。おかしいとは思っていた」と言うだけで、ショックを受けたようでも、怒っている様子でもなかった。

 娘の目にはそう見えた母親だが、子ども達のいない時に「A子に何すんだ!」とTに怒りをあらわにした。だがTは逆に包丁をつきつけて「ガタガタぬかすと、殺すぞ」と脅し返した。恐れた母親はA子や他の子ども達と逃げ出した。Tはそれまでは心優しい夫であったのだが、A子とのことがあってからは、乱暴な男に変わっていた。

 結局、母親は子どもの半分を連れて知人のいる北海道に家出。残されたA子が母親代わりとなって、弟妹の面倒を見た。Tは母親の目を気にすることもなくなったので、日に何度もA子を求めるようになった。


【救えぬ男】

 A子17歳の時、母親が戻ってきた。母の実家に屋敷に掘立小屋を作り、一家はそこに住むようになった。母は父を監視して、A子の寝ている方に行こうとすると止めに入ったが、そのたびに喧嘩となった。
 それでもTの欲望はつきることなく、酒を飲んでは娘の体を求め続けた。そしてこの頃、A子は父親の子どもを身ごもった。

 身重のA子は、田植えの時に知り合った男性(当時28歳)と駆け落ちした。A子の方から「私と逃げてください」と哀願したのだった。男性は同情して、2人は黒磯まで行ったのだが、父に追いつかれて引き離された。
 この一件があって、Tは妻の留守中に矢板市に間借りして、長女とその妹H子とで暮らし始めた。この矢板市の家は一部屋で、ここでは毎晩夫婦のように父と1つの布団で眠った。Tはこの頃、植木職人をしていた。
 11月24日、A子は長女出産。

 昭和32年、市営団地に引っ越す。A子はここで二女、三女を出産。
 父親は精力はますます旺盛になったのか、毎晩1度では終らず A子が断ると、大声でわめき散らした。A子は近所の人や自分の子どもにそれを聞かせたくないから応じ続けていた。
 
 妹H子は中学卒業後、千葉県の工場に就職し、矢板の家ではTとA子、子ども3人での生活が始まった。事情を知らない人間からすれば、幸せに映っていただろう。


【29歳の初恋】

 1968年、A子は29歳になっていた。
 すでに四女と五女も生んでいたが、生後まもなく死亡した。5度の出産以外にも、5度の中絶をしている。昭和42年8月、大田原市の産婦人科では「このように中絶していると体が持たないから、手術して妊娠しないようにしたほうがいい」と言われた。A子は父親に相談し、父もそれに賛成したので、8月25日に矢板市内で不妊手術を受けた。供述によると、この手術以来、A子は不感症となり、父とのセックスは苦痛以外の何者でもなくなっていた。

 A子は家計を助けるために65年から近所の印刷所に働きに出ていたのだが、ここで年下のSさん(当時22歳)という男性と知り合っている。A子はSさんに好意を持ったが、積極的に仕事を手伝うぐらいで、それを口にしたことはなかった。以前、駆け落ちした男性は嫌いではなかったが、父の元を離れたいという想いの方が強く、恋とは言えなかった。だからSさんが初恋の相手となる。

 8月の終わり頃、仕事を終えて帰宅中のA子に、Sさんが「工場をやめようかな」と言った。その理由については言わなかったが、その翌朝、Sさんが告白した。
「あんたが悪いんだ。あんたが会社に入ってこなければよかった。あんたが好きになってしまった」

 A子は父に束縛されるため遠出がほとんどできなかったので、同僚が「恋人と〜に行ってきた」と話すのがうらやましくて仕方なかった。だからこそSさんと仕事帰りに喫茶店でおしゃべりをしたり、東武デパートで買い物をしたり、花屋敷で映画を見たことは、彼女にとって初めての幸福であったに違いない。
 Sさんは他の従業員からA子さんに子どもがいるのを聞いており、また子どもが出来ないことも知っていたが、結婚を申し込んだ。

 A子は寝床で父親に結婚したい人がいるということを打ち明けた。
「お前が幸せになれるんなら良い。相手はいくつだ」
「22歳」
「そんなに若いんじゃ向うでお前をからかっているんだ。子どもはどうするんだ」
「お母さんに頼む」
「何を言う!俺の立場がなくなる。そんなことができるか。お前の子どもなんだぞ」

 父親は焼酎を一気に飲んで、「今から相手の家に行って話をつけてくる。ぶっ殺してやる!」とわめいた。A子は「勤めをやめて家にいるから、Sさんのところには行かないで」と言ってようやく納得させた。

 翌朝、A子は工場に電話を入れ、「ゆうべお父さんに話したが駄目だった。今から矢板駅に行くから来てくれ」とSさんに伝えた。Sはすぐに駅に行ったが、A子は姿を現さなかった。
 その頃、A子はよそ行きの服を持ち出して、近所の家で着替えていた。しかし、Tに見つけられ、ブラウスを剥がれ、下着まで破られた。悲鳴を聞いた近くの人が父を押さえているあいだに、A子はバス停に向かったが、バスが来ぬ間に父親に連れ戻された。

 9月20日、A子は父から逃れるために東京に出ようと決心した。その前に1度だけSさんと会ってお別れを言いたかったのだが、彼の自宅でも、工場でも電話は取り次いではもらえなかった。
 Sさんは工場長からA子が父親と関係を持っていることを聞かされていた。「深入りしないように」とも言われた。A子も工場を辞めてしまったので、もう忘れようとしていたのだった。
 A子の上京は、父が仕事を休んでまで監視するため不可能になっていた。

 10月5日、この日も父はA子を監視するため仕事を昼までで切り上げ、泥酔していた。
「俺はもう仕事をする張り合いがなくなった。俺を離れてどこにでも行けるんなら行ってみろ。一生つきまとって不幸にしてやる。どこまで行ってもつかまえてやる」

 夜8時すぎ、いつものようにTが娘の体を求める。
「俺は赤ん坊のとき親に捨てられ、苦労に苦労してお前を育てたんだ。それなのに十何年も俺を弄んで・・・・このバイタめ!」
「出ていくんだら出ていけ。どこまでも追って行くからな。3人の子どもは始末してやるぞ!」

 この罵声を聞いた瞬間、A子は父親を押し倒し跨ったうえで、傍にあった股引の紐をつかんで、首にかけ絞めた。Tはなぜか抵抗しなかった。
「殺すんだら殺せ」
「悔しいか」
「悔しかねえ。お前が悔しいからしたんだんべ。お前に殺されるのは本望だ」
「悔しかねえ。悔しかねえ」

 父は絶命した。A子にとっては父の束縛から自由を取り戻した瞬間でもあった。
 A子は近所の親しい雑貨商宅を訪れ、「父親を紐で絞め殺しました」と言って崩れ落ちた。


【悪夢、忘れます】

 ”親殺し”は刑法で死刑か無期の罪と定められていた。 
 だが宇都宮地裁での公判で、無報酬で引き受けた大貫大八弁護人はこう主張している。
「被告人の女性としての人生は、父親の人倫を踏みにじった行為から始まっている。父に犯され、子を生み、人権は完全に踏みにじられた。そうした希望のない日々のなかで恋をし、本来ならば祝福すべき立場の父親に逆に監禁状態にされ、肉体を弄ばれた。この犯行は正当防衛または緊急避難と解すべきである。よってこの事件は尊属殺人罪、尊属傷害致死罪ではなく、単なる傷害致死罪を適用すべきである。犯行時の被告人は心神耗弱状態にあったとされる」

 69年5月29日、宇都宮地裁、尊属殺人罪は違憲として普通殺人罪を適用した。さらにA子の心神耗弱を認定して刑を免除した。

 だが東京高裁は一転して「刑法ニ〇〇条は合憲である」としてこれを原審を破棄、心神耗弱のみを認定して懲役3年6ヶ月の実刑を言い渡した。

 上告後、大貫大八弁護士はガンで入院、息子の正一が弁護を引き継いだ。やはり無報酬で、である。

 73年4月4日、最高裁、「尊属殺人は違憲である」として原審を破棄、懲役2年6ヶ月、執行猶予3年の判決が言い渡された。A子は釈放された。34歳になっていた。この結果を報じる新聞報道には「悪夢、忘れます」という見出しが載った。

 A子はその後、栃木県内の旅館に女中として働いた。3人の娘は施設に預けていたが、週に1度遊べるのを楽しみにしていたという。


【トピックス 尊属殺人】

 自己または配偶者の父母、祖父母、おじ・おばなどを殺すことは「尊属殺人」と呼ばれていた。その逆の場合はない。これは一般の殺人よりも刑を重く、死刑または無期懲役に処せられた。
 これは「親は子を慈しみ育てるのに、その親を殺すとは言語道断である」という精神からのものだが、事件によってはそれが当てはまらない事例があった。この矢板事件がその代表的なひとつで、この事件の公判から尊属殺人の規定が揺らぎ始めた。「法の下の平等を定める憲法十四条に違反する」としたのである。同時期に審議された秋田の姑殺し、奈良の養父殺しも、情状を酌量すべき特異なケースであり、死刑・無期をまぬがれ、執行猶予付の判決を受けている。


 1945年11月、国民主権の原理を宣言する新憲法が公布された。1947年10月には刑法一部改正があり「皇室ニ対スル罪」は全章削除された。実はこの時、尊属に関する規定の存廃も一部で問題となったが、国会の質疑があっただけで、深く議論されることはなかった。
 
 1949年秋、福岡県内である事件が起こった。
 夜の9時ごろ、自宅でAが父親(53歳)と飯台を挟んで座り雑談していたところ、父がいきなり「弟(当時9歳)のオーヴァ生地が紛失しているが、持ち出したのではないか」と尋ねた。Aはすぐに否定したが、父は「知っているくせに知らんとは何事だ。男らしく言え。お前が盗んだに違いない」と決めつけ、近くにあった鍋や鉄ビンを投げつけて来た。これにカッとなったAは、これを投げ返し、父親は頭蓋骨骨折などで、翌朝に自宅で死亡した。

 この事件について、検察官は尊属傷害致死罪にあたるものとして福岡地方裁判所飯塚支部に起訴した。だが同支部は次のような判断から、適用するべきではないとした。

「(刑法二〇五条二項の)規定は之を其の発生史的に観れば子に対して家長乃至保護者又は権力者視された親への反逆として主殺しと並び称せられた親殺し重罰の観念に由来するものを所謂じゅん風美俗の名の下に温存せしめ来ったものであって、既に此の点に於て多分に封建的反民主主義的、反人権的思想にはたいしたものとして窮極的に人間として法律上の平等を主張する右憲法の大精神に抵触する」

 裁判所ではAの人柄、当時の状況、謝罪の気持ちなどを考慮して、執行猶予付判決が言い渡された。しかし、この判決について、検察官は最高裁に対し、憲法問題を理由とする跳躍上告の手続きをとる。この上告には次のような点に重点を置いていた。
「子が親その他尊属を尊重するということは、単にわが国のみならず、東洋一般はもとより広く世界にも通ずる人類普遍の原理である」

 検察官の上告を認容するかどうかの最高裁大法廷の見解は13対2に分かれていた。多数意見は原判決破棄だった。そのなかで反対意見の真野裁判官は、大法廷の合議において多数派の道徳論に対して、次のように喝破していた。
「ソレ親子の道徳だ。ヤレ夫婦の道徳だ、ソレ兄弟の道徳だ、ヤレ近親の道徳だ、ソレ師弟の道徳だ、ヤレ近隣の道徳だ、ソレ何の道徳だと言って、不平等な規定が道徳の名の下に無暗に雨後の筍のように作り得られるものとしたら、民主憲法の力強く宣言した法の下における平等の原則は、果して何処に行ってしまうのであろうか、甚だ寒心に堪えない」

 この事件に関しては結局原判決は破棄され、福岡地裁へ差し戻すという判決が出された。

 結局この刑法二〇〇条は95年の改正で削除された。


リンク

矢板市の位置
http://map.yahoo.co.jp/address?ac=09


≪参考文献≫

春秋社 「<物語>日本近代殺人史」 山崎哲
新人物往来社 「別冊歴史読本 殺人百科データファイル」
新人物往来社 「別冊歴史読本 新・殺人百科データファイル」
新潮社 「新潮45 08年3月号」
新風舎 「昭和史の闇<1960−80年代>現場検証 戦後事件ファイル22」 合田一道
第一法規出版 「戦後政治裁判史録1」 田中二郎 佐藤功、野村二郎・編
大洋図書 「日本震撼事件 戦後殺人ファイル100」 日高恒太朗
宝島社 「別冊宝島 猟奇事件ファイル 【悪魔と呼ばれた人間たちの犯罪履歴書】」
東京法経学院出版 「明治・大正・昭和・平成 事件犯罪大事典」 事件・犯罪研究会・編
東京法経学院出版 「犯罪調書 ●17の事件簿」 笠銀作
徳間書店 「殺人百科V」 佐木隆三
批評社 「戦後ニッポン犯罪史」 礫川全次
二見書房 「誰も知らない死刑の裏側」 近藤昭二
扶桑社 「日本猟奇・残酷事件簿」 合田一道+犯罪史研究会 
ライブ出版 「悪女たちの昭和史」 松村喜彦


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