葛飾区・母親の我が子殺し事件




【事件概要】

 1973年、東京・葛飾区において、主婦(当時25歳)がわが子(生後37日)を殺害するという事件が起こった。主婦は「生まれた子供は、夫ではなく不倫相手との子どもで、幸せな生活が壊れてしまうから殺害した」と自供した。


K子


【子投げる親】

 1973年11月30日午前2時ごろ、東京・葛飾区の会社員Sさん(当時26歳)方で、長男Aちゃん(生後37日)が突然いなくなり、警察に届けられた。

 親子3人川の字になって寝ていたのだが、Sさんが寝返りをうった時に、真ん中で寝ていたはずのAちゃんがいないことに気がついたもので、すぐに電灯をつけ、寝ていた妻K子(当時25歳)を起こして騒いだ。K子は「鍵が開いている」「宝石がなくなっている」と言いだし、傍に住むSさんの父親が警察に通報した。

 真夜中、家族と寝ていた子どもが連れ去られるという誘拐事件。家族はもちろん、近所の人たちも総出で赤ん坊の捜索に走り回った。だがAちゃんは見つからなかった。

 年をとったある刑事は、泣きじゃくるK子に向かって「きっと解決します。安心して下さい」と声をかけたが、次の瞬間、顔色を変えて「奥さん、あんたはすべて知ってるね。子どもをどこへやったんだ」と迫った。
 事件直後だというのにパジャマではなくセーターとスラックスを着ていたことから、K子が疑われたのだが、彼女はいったんは犯行を否定。だが追及されると、「自分が長男を連れ出して、150mほど離れた川に捨てた」とを自供した。

 自供に基づき、曳舟川を20人余の潜水夫が捜索したところ、午前10時ごろに70m下流から嬰児の死体が見つかった。

 取り調べにおいて、放心状態のK子は犯行の動機を次のように話した。
「実はAは、夫の子ではないんです」


【安住の地】
 
 K子は葛飾区の川の向こう、千葉県の出身だった。詳しい記述はないが、不幸な生い立ちだったという。

 K子は1967年にキャバレーで知り合った男と最初の結婚をし、一男をもうけたが、夫にいじめられ、またその親とも折り合いが悪く、1970年に子どもを預けて離婚した。
 その後、キャバレーホステスに戻り、ここで知り合ったのが浅草近くで鉄工所を経営している50代のXさんという人物だった。Xさんには妻子があったが、「将来結婚する」と言ってくれたため不倫の関係を続けた。
 
 K子はキャバレーで働きながら、昼間は中華料理店でも働いていた。この店の近くには零細工場が多く、昼には若い労働者でいっぱいになった。K子も客に対して陽気に振る舞っていたため人気があった。そこの客の一人がSさんだった。
 ある日曜日、Sさんは京成電鉄の駅を降りて、商店街の人ごみの中で、風呂帰りのK子を見つけ、声をかけた。店の外で会うのは初めてだったが、Sさんの方から誘って2人で電車に乗って柴又・帝釈天に行った。そして江戸川べりを歩き、土手に座って缶ビールを飲んだ。そこでK子は離婚して子どもがいることや、夜はキャバレーで働いていることなどを話した。
 まだ幼い顔立ちであるK子に子どもがいるということを聞いたSさんは驚きを隠せなかった。だがSさんは結婚を申し込み、その夜に関係を持った。結婚と言っても、Sさんも経済的に大変な時だったので、すぐにでもというわけとはいかなかったが、まもなく同棲を始めた。

 Sさんと知り合って、K子は中華料理店もキャバレーもやめた。中華料理店の主人、そのなじみ客、近所の人たちも彼女のことを祝い、ささやかな物を持ち寄った。彼女にとっては、最も幸福な時であった。

 1972年、K子が妊娠したことがわかると、夫やその父親は喜び、神社で式を挙げた。その6ヶ月後にAちゃんを出産した。名前は夫婦の字を一字ずつとったものだった。


【疑う心は・・・】

 薄幸だったK子がやっと掴んだ幸せな生活。周囲の人もまたそう思っていた。そのなかで表情を曇らせたK子がいた。

 K子はAちゃんをSさんとの子どもとは思わず、以前に交際のあったXさんの子だと思っていた。出産直後、看護婦さんから赤ん坊を見せられた時からそう思っていたのである。
 それはSさんに求婚され、同棲を始めてからもXさんとの関係が週一回ほど続いていたからだった。不倫関係にあったXさんは、K子から結婚をするということを聞かされた時は怒ったが、「嫁入り道具一式をプレゼントする」とも言い、そういう物はほとんど何も持っていなかったK子は、それ欲しさに関係をずるずると続けていた。

 K子の疑念は赤ん坊の目鼻立ちがはっきりとしてくるにつれて、確信に変わっていった。そのことは夫には打ち明けられず、一人で悩むようになり、電話でXさんに「引き取ってくれ」と頼んだが、そのたびに逃げられていた。

 やがてK子は母子心中を考えるようになり、事件の3日前に催眠薬を買いに行ったが断られている。
 事件当夜は9時半ごろに親子3人で寝ていたが、夜中に目覚めて赤ん坊にミルクを飲ませ、オムツを替えるうちに、「いっそこの子がいない方がいい」と思い詰め、家を出た。
 Aちゃんを抱いて裸足のまま曳舟川の川べりまで走り、そのまま投げ込んだ。さらに家から持ち出した指輪とネックレスも一緒に放りこみ、自分も自殺しようとしたが、果たせずに帰宅した。その際、寝ていたSさんの足を踏んでしまい、発覚が早まった。


 夫婦仲はよく、K子の悩みを誰も気づいていなかった。Sさんも焼香に来た刑事に次のように話している。
「殺すほどK子が思いつめているとは少しも知らなかった。もし事前に打ち明けてくれていたら、私は多分、Aを自分の子として育てたでしょう。子供に罪はないのです。だが妻は絶対に許せません」

 事件後、警察はXさんに任意出頭を求め、K子に抱かれたAちゃんの写真を見せた。Xさんは「はい、(私の子に)間違いありません」とうなだれたが、「このことは妻には知らせないでくれ」と頼み込んだ。


【時よ止まれよ、ただ一度】

 K子は殺人と死体遺棄罪で起訴され、東京地裁での公判が始まった。

 検事の質問に、K子は次のように答えている。
「あの子は悪魔の子でした。Sの顔ではなくXさんの顔を持って生れてきたのです。あの子は、日が経つにつれ、ますますXさんに似てきました。あの子は可愛い顔で笑いながら、日に日に私を地獄の方に引きずり始めたのです。Sや両親が可愛がれば可愛がるほど、私の心は痛みました」

「こうやって育っていくと、いつかは嘘がばれる。それが怖かったんです。せっかく手に入れた幸せを逃したくなかったんです」


 事件発生から3ヶ月後、裁判長は「本件犯行のもともとの原因は、被告の軽率で、不倫な生活にあった。物質欲や享楽のための不倫の清算に幼い生命を犠牲にしたのは許せない」と言い切り、K子に懲役4年の実刑判決を言い渡した。

 そしてこの公判では、ある衝撃的な事実が明らかとなっている。
 検事の提出した一通の血液鑑定書(東大医学部法医学教授作成)から、Aちゃんは紛れもなくSさんとの子どもだとされたのである。それには「Xさんが父親であることは血液型上ありえない」と記されていた。AちゃんはSさんと同種の血液型を有すると書かれ、当時関係を持ったのがXさんとSさんだけであるから、間違いなくSさんの子どもだったのである。

 そのことを知ったK子は、肩を震わせて泣いた。
 愛すべき子どもを、身勝手な疑いを持って殺害してしまったという後悔の念は、服役を終えても消えることはなかっただろう。

※事件発生日は「ドキュメント三面記事裁判」では11月30日(発生年記述無し)、「子殺し その精神病理」では1973年3月7日となっています。ただ記述などから同一事件と判断し、前者の方の発生日を採用しています。


【トピックス 1973年 受難の子どもたち】

 1973年2月4日、渋谷駅のコインロッカーから警備員が紙袋を回収した。翌日、異臭がするので紙袋を開けたところ、生まれたばかりの男児の遺体が出てきた。

 いわゆる「コインロッカーベイビー」。この年の流行語にもなっている。
 といっても、こういった事件はこの年に初めて起こったわけではなく、前年にも東京や大阪で数件ずつはあった。だがなぜかこの年には爆発的に流行り、全国で43件発生したという。

 コインロッカーの発祥地はアメリカで、日本には60年代初めに東京のレジャー施設に設置されたのが第一号とされている。その後60年代半ばから主要な駅に設置され始め、1973年の時点では全国に20万個設置されていた。
 文明の利器はどんなものでも犯罪に使われるものだが、コインロッカーも例外ではなく、捨て子はもとより、バラバラ殺人、覚せい剤など受け渡し場所に利用されたり、また爆発物が仕掛けられるという事件も起こった。

 この年は他にも男親一人では育てられないからと言って、4人の幼児を新宿の小田急デパートに置き去りにするという、映画「鬼畜」(野村芳太郎監督 原作・松本清張)さながらのショッキングな事件も起こっている。そしてそれだけではなく、子殺しの事件も目立った年だった。(関連 近親者に対する事件 1973年)。

 それまで捨て子や子殺しは貧困が原因と言われてきたが、この頃にはどうやらそうでもなくなっていたようだ。こうした事件が相次いだ(※1)のは、報道の影響もあったかもしれないが、結婚・出産に対する若者の意識の変化、すなわち未婚と離婚によるもの(※2)、そして社会そのものが変わっていたことに他ならないだろう。特に核家族化により、身近に相談できる人もおらず、思い詰めてしまう親が出現してきたことが大きいと個人的に思える。

 大人の都合で子供が殺される――、こうした事件は現在でも後を絶たない。そして1973年という年が、悲しい事件から家族の問題が考え直され始めた時期だったのではないだろうか。

※1・・・・コインロッカーに子供を捨てる事件が頻発したのであって、子殺し自体が急激に増加したわけではない。嬰児殺しのピークは戦後まもない1951年(昭和26年)頃である。1955年ごろから戦前並に戻り、1973年まで横ばいを続けていた。

※2・・・・離婚件数は今の半分以下だが、増加の途上にあった。


リンク


≪参考文献≫

誠信書房 「子殺し その精神病理」 稲村博
柘植書房 「[年表] 子どもの事件 1945−1989」 山本健治・編著 鈴木祥三・解説
番町書房 「ドキュメント三面記事裁判」 山本祐司
毎日新聞社 「シリーズ20世紀の記憶 連合赤軍”狼”たちの時代 1969−1975 なごり雪の季節」 


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