浦和・高校教師夫妻による息子刺殺事件




【事件概要】

 1992年6月4日、浦和の高校教師・佐藤健(仮名)とその妻・真弓(仮名)が、普段から家庭内暴力を振るっていた長男・建(23歳 仮名)を刺殺した。長男の家庭内暴力に追い詰められての犯行だった。


佐藤健(仮名)
佐藤真弓(仮名)



【一家】

 1938年3月30日、佐藤健は東京・中野で生まれた。3人兄弟の長男で上に2人の姉がいた。佐藤の両親は四谷にある米屋の小僧と、店の箱入り娘という間柄だった。3人の子をかかえた父親は行商・運転手・銀行の集金人など仕事を転々とし、母親は野菜の行商、内職の縄張りなどをして家計を支えていた。父親は生活が貧しくても、女学校出の妻にコンプレックスがあったのか、読書・歌舞伎・文学の世界に没頭していた。

 佐藤は毎朝納豆売りのアルバイト、日曜には父の行商の手伝いなどをしながら勉強に励み、県立浦和高校に進学した。ここは佐藤の長男・建が2年で中退した高校と同じである。高校2年から奨学金をもらうようになったが、家の貧しさは相変わらずだった。
 同じ頃、家庭では名門の女学校を出た母親と、高等小学校を出た父親の貧しさゆえの喧嘩が絶えなかった。また、上の姉と父親の確執がすさまじく、庭先で取っ組み合ったりして、佐藤はなだめ役にまわっていたが、こうした家庭内不和にも疲労困憊していく。佐藤はこうした貧しさが嫌で、「東京大学に行けばちゃんとした仕事に就けて、貧しさから脱却して、こうした夫婦喧嘩も納まる」と思うようになった。勉強に励んだ佐藤は一浪して東大文1に合格する。

 しかし東大進学後、思わぬ落とし穴が佐藤を待っていた。東大入学がとりあえずの仮目的だった佐藤は次第に空虚感と劣等感にさいなまされていく。厭世的な考えにも陥っていた。書物に救いを求め、手当たり次第に本を読むようになった。しかし、家庭内の不和もあり、佐藤の神経は磨り減っていく。
 ある日、佐藤は自殺未遂を起こした。睡眠薬とウイスキーを一緒に大量に飲んで、東京駅発の特急電車に乗り、列車が名古屋あたりで急停車した時に、床に投げ出され、大怪我をして入院したという。佐藤20歳の時の話である。
 その後、佐藤は文学部に転部したのち、27歳で東大を卒業。教職の道を選んだ。高校教諭として浦和東高、浦和西高、蕨高に赴任する。教師としては、管理職試験を受けるくらいなら、生徒と接していたほうがいいと”生涯平教員”を通していた。

 一方、後に佐藤の妻となる真弓(仮名)は女子高としては名門の浦和一女を卒業後、保険会社に就職。夜はデザインスクールに通っていたこともあった。
 佐藤が教職についてから2年目の夏、佐藤の姉が通っていた洋裁教室に真弓が来ていた。「良い子ね」という洋裁の先生と姉のすすめで佐藤と真弓は見合いをし、翌年3月、結婚する。

 結婚した年の12月、長男誕生。佐藤は長男に自分の名の「健(けん))」と同じ、建と名づけた。これは子供が大きくなってから、「父親と同じ名前で嫌だなあ」と思われない為にも、立派な父親になろうという決意のあらわれでつけた名前だと言う。建のあとにも男の子を2人もうけている。

 子供の教育に関しては建に3度ほど体罰を加えたことがある。いずれも建の口の聞き方によるものだった。それなりの理由がある体罰で、日常的に加えていたわけではない。
 真弓は二男が中学生の時、PTAの副会長を務めていた。


【長男・建】

 小中学校時代はクラスでトップクラスの成績だった。中学の卒業時の成績は全校で1、2番だった。中学では軟式テニス部に入り、キャプテンを務めたこともある。
 
 進学校として知られる県立浦和高校に進学。
「クラスにだれもしゃべる相手がいない。皆俺を避けるような感じだ。学校では浮いている」
 入学してまもなく建は真弓にこんなことを打ち明けている。高校の成績は中か、それ以下だった。建は成績のことを気にしていた。真弓が「高校は中学とちがって試験前の勉強だけじゃ、こぼれるよ」と言うと、建は「俺がこぼれるわけないだろう」と話した。

 2年生になると、音楽に興味を示し始め、先輩と一緒に作詞・作曲して、文化祭で演奏したりした。20数万もする音楽機材を購入してもらい、家で作曲したり、歌ったりしていた。
 3学期くらいから学校にも行かず、ほとんど勉強せず、音楽を楽しんでいる建に、両親が注意すると、「もう行く気がしない」と建は言った。やがて家にとじこもるようになった。この時、真弓は「高校くらいは卒業しておかないと」と繰り返すばかりで、建の理由や気持ちをくむことはしなかったようである。建は「自分は将来音楽で食べていくつもりだから、別に学歴はいらないんだ」と言い、期末試験も受けず、3月31日、退学届を出した。
 後に大学の友人に高校中退したことについて、「みんな大学のことばかりに熱心で、人間としての幅がなく、一緒にいてつまらないから辞めた」と話していた。

 退学してしばらく、家にこもって作曲などをしていたが、両親に「家でぶらぶらしているのなら、アルバイトでもしなさい」と言われ、スーパーの時計屋でアルバイトを始めた。

 3ヶ月ほどして、突然「大学に行きたい」と話した。7月20日にアルバイトを辞め、8月4、5、6日の三日間の大検(十数科目)にむけて、徹夜で勉強を始めた。わずか2週間の勉強で、建は無事大検に合格する。10月末に合格発表があり、建は他の高校3年生より早くに、大学受験資格をとることができた。
 その後、大学受験までの100日間、1日15時間以上の勉強を始める。翌春、英語では最難関とされるA大文学部英米文学科に合格した。中退生が浪人もせずに一流の大学に合格したのだから、両親は再び建に期待を抱き始めたのも無理はない。

 大学に入ると、スキーサークルに入った。建はめきめき上達し、1年で全日本スキー連盟の一級資格を取得した。おまけにスキーサークルの歌を英語で作詞、作曲し、自ら歌ったのだから、彼の大学生活は華々しいものだった。しかし、建の活躍は両親の期待とは別の方向に進んでいく。
 
 建は「スキー合宿に行く」などと、何かにつけて小遣いを要求し始めた。その額は毎月平均10万ほどになっていた。学費を含め、年間200万ほどかかる建は、高校教師の父が6人を支える一家の家計にひどくのしかかった。建もアルバイトしてサークル費を稼ごうとするが、続かない。ピザ屋の宅配バイトをしたときには、交通違反代の支払いまで、親にさせた。その後、真弓が時給約700円のファミリーレストランのアルバイトをはじめて、家計を助けた。そんな親の苦労も知らずに、建はサークル活動やマージャン、女の子とのデートに明け暮れ、冬にはスキーインストラクターとして家を離れ、家にいる時は音楽を聴いたり、ピアノを弾いたりして勉強する姿勢は見せなかった。

  佐藤が「このままじゃ単位がとれないじゃないか」と注意すると、「俺はやろうと思えばいつでもできるから任せておけ」と答えていた。高校を中退して、現役年で大学に入学した自信が彼にはあった。「留年してでもやる気はあるのか」と佐藤が聞くと、「卒業する気はない。俺は大学生活を楽しもうと思った」と建は言った。結局、建は2年生いっぱいで大学を中退してしまった。この時の佐藤の怒りや悲しみは相当のものだったと思われる。同時に建にとっても高校中退時以上の挫折体験となったのかもしれない。

 中退をした建はミュージシャンとして生きていくことを両親に話した。両親は特別に反対はしなかったが、それだけで生活していくのは大変だからと、司法試験の勉強を薦めた。建も友人に「弁護士資格を持っているミュージシャンはいないから、合格すれば目立つことができる」と話していた。しかし、5月頃から司法試験の勉強を始めるが、数ヶ月ほどしか続かなかった。この受験勉強の途中、酒を飲んでは泣いていたことがあったという。また「部屋に霊がいる」などと言って震えていたこともあった。その頃から、建は日本酒や焼酎を手当たり次第に飲んでは、昼夜の生活を逆転させ、何かにつけて母親に「親のせいだ」と悪態をつくようになった。

 部屋に閉じこもって酒を飲み、たまにスキーサークルの仲間と遊びに出かける。母親の心中は穏やかではなかった。建が精神的におかしくなったのでないかと思い、建には何も言わず、一人で北浦和駅近くにある精神科医を訪ねた。しかし、この時「当事者が来なければわからない」と帰された。
 その後、母親は実姉に相談したところ、「精神分析を受けたらいいんじゃないか」と新宿のBクリニックを勧められた。建はそのクリニックに「一緒に行くよ」と言っていたが、当日になってグズグズして、結局また母親一人で行くことになった。

 クリニックでは助手に30分ほど話を聞かれ、大学の講師もしているB医師が10分ほど対応してくれた。B医師の対応は母親にとってショックなものだった。
「(建は)自我の確立ができないまま大人になってしまった。治療が難しく、このままいけば、お気の毒ですが、悲惨な生涯になります。たぶん『退却神経症』という本を書いた方がつけた名称なんですが、それじゃないでしょうか?」


 またB医師は事件後の刑事と検察官の事情聴取で次のように話している。

 「症状を聞いて、いま患者が多い”境界例性格”(※)ではないかと思いました。大人になりきれないでいる。そしてその責任は自分にはなく、他の者、親の責任となり、親に暴力を振るう、こういう症状の青年が多くなっています。このような患者さんは、母親の内的イメージから抜け出せない一方、母親とのずれを感じているために、自分が傷つくことを怖がり、成長した後も、自分が傷つくような場面に直面した際、周囲のせいにしたりして、自分を正当化する人格障害を形成するのです。ですから患者さんは、将来的に暴力を振るうようになったり親の責任であると主張したりするようになります。また性的に母親の偶像から抜けきれないために性的不能がみられることがあります。同じような症状では退却神経症という症状がありますが、この症状は、たとえば、家族の中に優秀な人がいた場合、その人を追い越せないことから、自ら同じ土俵で勝負することなく、自分から退却し、本業以外の別の部門でバランスをとろうとしたり、家に閉じこもって社会生活を拒否したりするような動きなどの形で現れてきます」

※境界例・・・・・ボーダーラインとも言い、神経症とか精神障害など従来の分類には該当しない人格障害と一般人格の境界にある病理的行為を指す場合に用いる。

 Bクリニック受診後、医師に勧められた「退却神経症」(笠原嘉・著 講談社現代新書)を母親は書店で購入し、建に読むように言ったが、結局読まなかった。

 それから3週間後、”奇妙な1件が起きた。建が真っ青な顔をして部屋から飛び出し、鳥肌をたてブルブル震えていたのである。両親は建をC病院に連れていった。この病院で診察をしたD医師は保険の病名はノイローゼだが、「人格障害の要素が強い」とした。診察の中で建はブルブル震えながら、「何かの霊が乗り移っているということはないですよね。それとも霊媒師とかにもらったほうがいいですか」という質問をぶつけていた。親子3人と対面して診察したC病院のD医師はカルテの中の父子の名前に注目し、次のように話した。
「患者さんとお父さんの名前が同じ呼び名である。これも息子さんに対する思いが強く、子供にとっては、大きな重荷、つまり不安となる要因になるのです」


【苦境の日々】

 その後も建の生活は変わることはなかった。

 ある日、建が「自分を見つめなおしたいので、一人で旅行に行ってくる」と、父親の車を借りて、長崎に旅行に行った建は長崎からの帰途の最中、母親に電話をかけている。「セックスがうまくできないんだ」という内容だった。真弓は以前、B医師に言われたことを思い出した。真弓は、佐藤に相談するように言い、帰宅した建と佐藤が話し合った。この時、佐藤は「気持ちの問題だ。心因性のインポだよ。1回成功すれば治るよ」とアドバイスをしている。
 建は「1年前に司法試験の相談をやめたのも、最初に知り合った女性とセックスしようとしたができなかったためだ」と話した。酒を飲んで泣いたりしたのも、そのためだったという。そういうことがあったために、全然勉強できなくなった、と。

 この長崎旅行の前に、建は2人目に付き合った彼女と佐渡に旅行に行っていた。彼女は3年時に大学を中退してから参加したスキーサークルで知り合った後輩で、この時もセックスがうまく行かず、彼女に泣いて謝ったと言う。自分が”不能”ということで、建はそれまで自信家だったのに、ずいぶん自信を無くしたようだという。それでも、この彼女とは両親に殺害される直前まで付き合っていた。セックスは無しの関係だったが、彼女に「一緒に病院に行ってあげるから」と励まされたこともあったという。

 1度、建が佐藤に殴りかかろうとしたことがあった。当時、87歳の祖父が寝たきりで、ボケ症状が出てきたため、佐藤と真弓が交代で祖父の隣りで寝ていた時だ。夜中の2時頃、建がビデオの音量を大きくして、声を出して歌っていたので、佐藤が「何時だと思っているんだ」と注意したところ、木製の椅子を振り回して暴れた。佐藤は「おまえ、また例のことで悩んでいるんじゃないのか」と話し合いになった。しかし、建が途中で「うるせえ」と言ったので、佐藤も「ああ、お父さんはもう話はしない」と祖父の部屋に引き上げようとしたところ、追いかけてきて胸ぐらをつかんで殴りかかってきた。

 92年4月22日、祖父が亡くなった。5月31日、大宮霊園で納骨が行われ、その後自宅でお清めをした。建は親戚達の前では普通に振舞っていた。
 だが、翌日午前2時頃、恋人との電話を終えると建が荒れた。少し前から建と恋人のあいだで、別れ話が持ち上がっていたが、両親は全く知らなかった。セックスの不安や、定職についてないことから、将来への不安があったようだ。この日の建は1階の居間のイスやテーブルをひっくり返すなど、荒れに荒れていたが佐藤は「建はもはや聞く耳は持たない」と1階に降りず、そのまま横になっていた。しかし、「祖父の納骨をきっかけに立ち直ってくれれば」とわずかの期待が裏切られることとなり、この日の夜、両親のあいだで「もう殺してやるしかないな」という話があがった。この時、「出刃包丁を使って、ひと思いに殺ってあげたほうがいいな」という話までした。

 建は両親から「働け」と言われると、焼酎を床に撒いたり、イスを投げたりして暴れたが、それでも祖父の死に思うところもあったのか、5月から西麻布にある高級焼き肉店でアルバイトをはじめた。午後10時から午前4時までの、深夜のウエイターの仕事だった。この職場での建の評判も良いものだった。普段からニコニコしていて明るかった。同じ大学中退で音楽の道に進もうとした同店のマネージャーと親密になり、建は家庭や自分のことなどを詳しく話している。今後のことについても次のように話していた。
「おやじとは名前も一緒で、期待された自分が高校・大学と中退して勉強しないことから親の期待を裏切った。二男も大学には行かず、親父は中学1年の三男にすべての期待をかけている。三男の弟の教育上良くないので、自分アパートを借りて家を出なければならない」

 6月3日、電話で朝まで6時間の話し合いの末、建は恋人と別れることとなった。12日に最後のお別れ会というデートを約束して電話を切った。
 6時、両親が起床して1階に降りてくると、電話器が床に転がっており、壁には穴が開いていた。真弓が焼酎の瓶を片付けようとすると建は「めし!」「ビール買って来い」と怒鳴った。佐藤が出勤した後、今度は真弓に「ラーメンを作れ」と言い出し、作って渡すと、箸を少しつけただけで「まずい」と言い、ドンブリごと台所のドアに投げつけた。二男と三男が出かけた後、建はビールを飲みながら「彼女と別れた」と言って、再び真弓に当たってきた。
 
「てめえら、四国に逃げようたって、そうはさせないぞ。あいつの退職金だって、みんな使わせてやるからな。一生死ぬまで苦しませてやるから、そのつもりでいろ。お前らは塩飯でも食え。その浮いた金を俺によこせ。あいつによく言っておけ」


 建を殺すことを佐藤と話し合った真弓だが、最後の可能性として霊障鑑定にかけてみようとした。真弓は建の写真を持って大宮市役所近くの宗教団体を訪れた。ここの女性の霊能者は「このままにしておいたら、大変なことになる。主人が殺されてしまう。あなたには水子の霊がとりついている。ちゃんと供養しなければだめだ。治すには100万円かかる。ご主人に内緒にしとかなければダメだ」と話した。真弓がそんな大金はない、と話すと、その霊能者は「なら50万円は出せるか」と言った。結局、先祖の供養15万円、水子の供養50万円の計65万円で祈願してもらう話をつけ、真弓は実母に30万円借りて帰宅した。
 この夜、真弓は昼間あったことを佐藤に話した。建が恋人と別れたこと、宗教団体で65万円の水子供養をお願いしてきたことなど。佐藤は水子供養について、そういうものを信用しなかったが、「それで気がすむなら」と反対しなかった。その話の途中で建があらわれ、佐藤と言い合いになった。建が佐藤に対して初めて「てめえ」という言葉を使うと、佐藤も怒り心頭した。この「てめえ」という言葉が佐藤の殺意を決定的にしたという。
 午後8時半、建がアルバイトに出かけていった後、佐藤は日付なしの退職届を書いた。


【殺害】

 6月4日、最後に建と会話を交わしたのはアルバイト先の焼き肉店のマネージャーだった。朝食を仕事場でとっているとき、建はビールを飲みながら「家がまずい。出ないとまずい」と笑いながら話していた。

 4日の午前7時45分ごろ、佐藤の出勤と入れ違いに建がアルバイト先から帰宅した。家に帰ると建はいつものように「ビール買ってこい」「こんな体にしたのは親のせいだ」と真弓にわめき、冷蔵庫を倒し、電灯のかさを叩き割った。真弓は黙って、「これが最後」という気持ちで建に水子供養の話をした。建は「そんなもんで俺はよくならない」といい、「水子供養の料金を俺に渡せ」と言ってきた。
 それを聞いて真弓は「もうだめだな」と思ったという。特に中学1年の三男に対する影響を心配して、「今日じゅうに殺ろう」と胸の中で決めた。

 午前10時半ごろ、真弓は実家に行き、高校に電話を入れた。佐藤はその時授業中で、休み時間の時、降り返し電話を入れてきた。真弓は傍にいた実母にわからないように適当にごまかして話すと、佐藤もその意味を理解し、退職届けを自分の机の上に置き、自転車で真弓の母の家に行き、真弓と落ち合い、11時半過ぎに母の家を出た。
 佐藤夫妻は出刃包丁を新聞紙にくるんで自宅に帰ってきた。佐藤が一人で殺ろうとしたが、返り討ちにされるのを不安に思い、真弓は「私も手伝います」と話した。真弓は金属バットを探したが見つからず、プラスティック製のモデルガンを手にした。
 何も気づいていない建は自室のベッド上で左手を胸に置いて熟睡していた。佐藤は、手にした包丁で心臓を一刺ししたが、中心を外れていた。「ギャー」と悲鳴をあげた建がベッドから転げ落ち、佐藤と取っ組み合いになった。真弓はモデルガンを建の頭に振り落としたが、こなごなに砕けてしまった。やがて包丁の先が欠けた。「包丁の先が折れたから別なのを持ってきてくれ」と佐藤が言い、真弓が急いで台所に行って、新たな包丁を持ち出し、佐藤に手渡した。

「許してくれ。俺が悪かった。お願いだから殺さないでくれ」

 建は弱りきった声で哀願した。これが最後の言葉だった。

「今じゃ、もう遅いんだよ。親を親とも思わない人間は親の手で死なせてやる」

 佐藤が心臓辺りをめがけて包丁を刺し、建はこの世を去った。11時50分、佐藤は自分で110番通報をした。


【逮捕後】

「このまま続けていくのも地獄、そして殺人者の子供に、というのも地獄で、どっちを選んでも・・・・まったく・・・・展望が開けなかったのです」(佐藤)


【裁判】

 93年3月 浦和地裁、夫婦ともに懲役3年、執行猶予5年を言い渡した。


リンク

県立浦和高校                 
http://www.urawa-h.spec.ed.jp/


退却神経症                  
http://www.sikai-web.com/disorder-taikyakushinkeishou.html



≪参考文献≫

かんき出版 「息子たちの危機 このとき親は何ができるのか?」 永池榮吉
幻冬舎 「安息の地」 山川健一 

講談社 「退却神経症 無気力・無関心・無快楽の克服」 笠原嘉
春秋社 「平成『事件』ブック」 山崎哲
新潮社 「新潮45 03年2月号」 →「平成『子殺し』事件ファイル」 増田晶文
新潮社 「仮面の家 先生夫婦はなぜ息子を殺したのか」 横川和夫
宝島社 「別冊宝島 殺人百貨店 日本人はどういう理由で人を殺すのか?」 
太郎次郎社 「息子殺し 【演じさせたのは誰か】」 斎藤茂男・編
東京書籍 「少年犯罪の風景 『親子の法廷』で考えたこと」 佐木隆三 
東京法経学院出版 「明治・大正・昭和・平成 事件犯罪大辞典」 事件・犯罪研究会・編


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