土田邸・日石・ピース缶爆弾事件




【事件概要】

 1971年10月、東京・西新橋の日本石油本館内の地下郵便局で、2個の小包爆弾が爆破。それぞれ要人宛ての小包だった。さらに12月には、雑司ヶ谷の土田国保警務部長方でも届けられた小包が爆発、土田夫人が死亡、四男が重傷を負った。
 1969年に起こった2つのピース缶爆弾事件と合わせて、計18人の赤軍派の元活動家が逮捕されたが、全員の無罪が確定した。戦後最大のフレームアップ事件とされる。


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【相次ぐ爆弾事件】

 1969年10月24日午後7時頃、新宿区若松町の警視庁第8、9機動隊舎正門に手製爆弾が投げこまれた。爆弾は不発だった。爆弾は煙草の缶入りピースの空き缶の中に、2つの切ったダイナマイト4本とパチンコ玉10数個を詰めたものだった。

 さらに11月1日午後1時15分頃、港区永田町の山王グランドビル内「アメリカ資料センター」(通称・アメリカ文化センター)のカウンター上に、段ボール箱に入れられた時限発火装置付きピース缶爆弾が置かれた。爆発で局員1人が右腕などに3週間のヤケドを負った。この荷物を持ってきたのは女性2人組だったという。

 1971年10月18日午前10時40分頃、東京・港区西新橋の日本石油本館内の地下郵便局で、2個の小包爆弾が爆破。小包の宛名は当時警察庁長官だった「後藤田正晴」、当時の新東京国際空港公団総裁「今井栄文」となっていた。

 以上の3件はいずれも、警察、米国施設などを狙っていたため、過激派による犯行と見られた。


【土田邸爆破事件】

 同年12月18日午前11時24分、東京・豊島区雑司ヶ谷の警視庁警務部長(当時)・土田国保(当時49歳)方で、小包郵便物が爆発し、民子夫人(47歳)が死亡、学習院中等科1年の四男(当時13歳)が顔や手にヤケド、足に金属片が刺さるなどの重傷を負った。さらに2階から駆け降りてきた早稲田大生の二男(当時22歳)も右手にかすり傷を受けた。
 四男によると、民子さんと居間で小包を開けていたところ、突然爆発したという。その爆発の威力はすさまじく、民子さんは肩から半分がもぎ取られ、室内のガラスも粉々に砕け散り、床には直径60cmの大穴があいていた。この小包は当日朝10時半頃に郵便局員が届けてきた。これは前日に神田の南神保町郵便局に女が持ちこんできて、ここから発送されたものとされている。差出人は知人の名前だったので、民子さんは何の疑いも持たず、この小包を開けていた。

 この18日は京浜安保共闘3人による「志村署上赤塚派出所襲撃事件」の1周年にあたり、この事件ではメンバー柴野春彦(24歳)が警官に射殺されていることから、警視庁は過激派によるテロ事件と見て捜査を開始した。土田氏がこの派出所襲撃事件に対して、「警察官の拳銃使用は正当防衛であり、何の問題もなかった」旨の発言をしたことの報復のためと見られる。
 土田邸から約500m離れた雑司ヶ谷墓地の中で、3人連れのヘルメットをかぶった学生風の男が、紙袋を持ってたむろしているという目撃証言もあった。

 同日夕方、目白署で記者会見に応じた土田警務部長は次のように話した。
「治安維持の一旦を担う者として、かねて覚悟していたというと大げさかもしれないが、あるいはこんなことがあるかもしれない、とは思っていた」
「だが、ひとりの人間としてこのような事件はこれで終わりにしてもらいたい。2度と繰り返してくれるな。わたしは犯人に向かって叫びたい。君は卑怯だ。みずから責任を負うことはできないだろう。一片の良心があるなら世の人の嘆きや悲しみに思いやりがあるなら凶行は今回限りでやめてほしい」

 一方、板橋区民会館では、100人ほどの学生、労務者が集まって「12・18記念集会」が開かれており、「上赤塚につづいて、さらに遊撃戦を展開しよう」と宣言した。さらに上赤塚事件で射殺された柴野春彦の報復を誓い、射殺したA巡査長の名前を挙げ、「人殺しをさがし出せ。どこかの警察にいるはずだ」と気勢をあげていた。

 12月20日、土田夫人の葬儀。首相夫人、最高裁長官、竹下官房長官、中曾根康弘氏など参列者7000人。


【18人の被告】

 土田邸事件が起こってまもないクリスマス・イヴ、新宿の「伊勢丹」交差点、追分派出所横に、買い物袋に入れられた高さ50cmほどのクリスマスツリーに偽装された爆弾が置かれ、この爆発で警官、通行人7人が重軽傷を負った。この爆破事件に関しては黒ヘルグループのリーダーが出頭し、事件の全容が明らかにされている。

 1972年9月10日、赤軍派系の活動家で、「東薬大事件」で指名手配されていたM(当時27歳)が、凶器準備集合、毒劇物取締法違反容疑で逮捕された。Mはその後、法政大学で図書を窃盗した容疑で再逮捕され、翌年1月までに他3人が同容疑で逮捕された。

 1973年1月、すでに逮捕した4人を「アメリカ文化センター事件」に関与したとして再逮捕。2月には機動隊舎爆破事件に関しても逮捕された。
 この後、「日石」「土田」両事件に関与したとして、あらたに女性を含む10数人を逮捕、Mらも再逮捕された。合わせて18人がこの一連の爆破事件に関与したとして逮捕されたのである。

 彼らは法政大学の「レーニン主義研究会」(社学同ブント系)で、校舎に近い河田町のアパートを借り、被告人のうち11人がピース缶爆弾10数個を製造したものとされた。機動隊舎事件では6人が投擲し、アメリカ文化センター事件では4人、日石では前述したように女性2人の他、運搬役に男3人が関わり、土田邸事件では製造から発送まで9人がん関与したものとされた。

 一連の事件と18人を結びつける物証は全くなかった。河田町のアパートの塵をひとつ残らず集めても、爆弾材料の破片ひとつ出てこなかった。

 一審ではMに死刑が言い渡された他、それぞれに無期、懲役3〜15年の有罪判決が下された。

 しかし1979年4月、元赤軍派メンバー・若宮正則が、弁護人証人として出廷し、「機動隊宿舎にピース缶爆弾を投げたのは私だ」と証言した。
 さらに1982年5月、牧田吉明が「われわれのグループがピース缶爆弾を製造し、赤軍派などに配った」と名乗り出たのである。
 この証言によると、大学生であった牧田ら5人は1969年9月頃に奥多摩へ行き、日原川沿いの林道工事現場から、ダイナマイト1箱(100g225本)、導火線用の輪1巻、工業用雷管100個、電気雷管20個を盗み出した。その後、9月から10月にかけて、爆弾教本「栄養分析表」を参考にしてピース缶爆弾100個を製造し、その大半を関西系の某武闘派、赤軍派中央、共産同革派の活動家に配った。残った分やダイナマイトは多摩川に投げ捨てたのだという。

 1985年、牧田証言の信憑性の高さから、相次いで被告達の無罪が確定。
 1986年3月25日、3414日間の拘置を強いられたMをはじめとする統一公判組6人は、国と都に対して刑事補償と費用補償1億7200万円を求める請求を東京地裁に提訴した。また全国紙への謝罪文掲載を同時に要求した。

 2001年、東京高裁、1人にかぎってのみ、都に100万円を支払うよう賠償命令を下した。


【トピックス 『土田国保』】

 土田国保警務部長は夫人を失って、一躍「悲劇の人」となり有名となった。この事件が起こって、それまで過激派への理解を示すこともあったマスコミも、この事件では「殺人集団」「爆弾狂」「反社会的」などと徹底的に非難した。 

 土田氏は秋田県由利郡矢島町出身。父親は哲学者で旧制成蹊高校の校長を務めた人物で、母親は旧東京女高師校長の令嬢と、言わば名家の生まれである。
 剣道一家で、土田氏も中学の頃から父親に剣道を習い始めた。達人と呼んでも差し支えない腕で、「ワシントン・ポスト 75・4・20付」では、「世界一安全な東京 サムライ・ポリス」という特集記事で、警視庁の道場で竹刀を真剣に振る写真が掲載されている。

 若い頃の土田氏は父や親戚と同じく学者志望だったのだが、「雨宿り」として内務省に入ったのが警察への縁となったという。警察では若い頃から「警視庁のプリンス」と先輩たちから呼ばれていた。

 爆破事件後の土田氏は老いた母親と家事を手分けしながら大学生、高校生の息子4人の世話をし、52歳の誕生日でもあった1974年4月1日、海軍時代からの旧知の女性と再婚した。

 1975年2月1日の警視総監に任命された土田氏の名は、事件・犯罪を扱う書籍でもたびたび登場する。前任の槙野勇氏の知名度が低いので余計にそう感じられるのかもしれない。

 同年5月30日には、グアムから帰還した横井元軍曹らとともに天皇・皇后両陛下主宰の春の園遊会に出席。天皇陛下とは次のような短い問答があった。
陛下「このごろ警察も大変のようですね」
土田「おかげさまで、みんな一生懸命がんばっております」
陛下「爆破事件はだいぶ片づいたらしいのですね」
土田「だいたいメドがつきました。国民のみなさんの協力の賜物です」
陛下「どうか、これからも治安のためにがんばってください」

 だが土田氏の受難は続いた。
 1978年1月、東京・世田谷区で警官の女子大生殺害事件が起こり、減給処分を受けたのである。警視総監の処分はこれが戦後初めてだった。
 同年2月11日には最も信頼する部下であった村上健刑事部長が急逝。土田氏は警視庁葬で葬儀委員長を務めたその翌日警視庁を去った。
 退官してすぐ、土田氏は1人電車に乗って群馬県へ向かった。殺害された女子大生の墓参りと実家の弔問のためである。

 土田氏はその後、防衛大学校長などを務めたが、1999年7月、すい臓ガンのため亡くなった。77歳だった。


【トピックス 若宮正則】

 若宮は1945年愛媛県宇和島市に、12人兄弟の末っ子として生まれた。水産高校卒業後、上京。大学進学を目指し、働きながら予備校に通った。だが進学をあきらめ、荷役会社に就職。68年には神奈川県反戦青年委員会のデモに参加した。ブントに加盟。分裂後には赤軍派に入り、中央軍の小隊長となる。

 大菩薩峠事件で逮捕され、保釈後には釜ヶ崎へ向かった。「釜共闘」を結成。また労働者や左翼の本や機関紙を置くラーメン屋を開業し、「赤軍派ラーメン店」などとマスコミに書かれたりもしている。

 1972年9月4日には恋人とともに仕掛けた水崎町派出所爆弾事件で逮捕された。獄中では獄中生活者組合を結成。

 1986年5月に出所。
 1990年、ペルーに渡り、ゲリラ組織「センデロ・ルミノソ」に射殺される。45歳。


リンク

wikipedia 牧田吉明http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A7%E7%94%B0%E5%90%89%E6%98%8E


≪参考文献≫

警察文化協会 「戦後事件史 警察時事年間特集号」
警察文化協会 「警察時事年鑑 1974」
現代評論社 「現代の眼 79年9月号 特集獄舎に無実を叫ぶ人びと」 
講談社 「蜂起には至らず 新左翼死人列伝」 小嵐九八郎
講談社 「日本警察の解剖」 鈴木卓朗
三一書房 「無実 冤罪事件に関する12章」 後藤昌次郎・編
三一書房 「過激派壊滅作戦 公安記者日記」 滝川洋
サンケイ出版 「裁判官・検察官・弁護士」 角間隆
社会思想社 「20世紀にっぽん殺人事典」 福田洋 
社会批評社 「公安警察の犯罪 新左翼『壊滅作戦』の検証」 小西誠 野枝栄
状況出版社 「状況 74年10月号 虚構と作為 70年代フレームアップの構造」 
新人物往来社 「別冊歴史読本 反逆者とテロリストの群像 謎と真相」
神泉社 「爆弾事件の系譜 加波山事件から80年代まで」 荻原晋太郎 
宝島社 「別冊宝島 昭和・平成 日本テロ事件史」 
宝島社 「日本の『未解決事件』100」
立花書房 「別冊治安フォーラム 過激派事件簿40年史」
筑摩書房 「僕は犯人じゃない 土田・日石事件の一被告の叫び」 榎下一雄
潮文社 「日本警察の秘密」 鈴木卓郎 
東京法経学院出版 「明治・大正・昭和・平成 事件犯罪大事典」 事件・犯罪研究会・編 
図書出版社 「増補版 事件百年史」 楳本捨三
土曜美術社 「新左翼三十年史」 高木正幸
日本評論社 「法学セミナー増刊 日本の冤罪 シリーズ[新・権利のための闘争〕
毎日新聞社 「シリーズ20世紀の記憶 連合赤軍”狼”たちの時代 1969−1975 なごり雪の季節」 
毎日新聞社 「事件記者の110番講座」 三木賢治


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