豊橋事件




【事件概要】

 1970年5月15日深夜、愛知県豊橋市の文具店が出火、半焼させ、焼け跡からこの家の母子3人が遺体となって見つかった。母親は強姦された形跡があり、放火殺人と断定された。事件から3か月後、同店店員の男性が逮捕され、全面自供を始めた。


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【母子無惨】

 1970年5月15日午前1時45分頃、愛知県豊橋市八通町の文具店・増田政明さん方から出火し、1時間後、住宅兼店舗の2階50uを焼いたところで消し止められた。

 焼けた2階10畳間からは妊娠5ヶ月の妻・みつるさん(35歳)、長男・敏彦ちゃん(2つ)、次男・充彦ちゃん(1つ)の3人の遺体が発見された。子ども2人は性別も判別できないほど黒焦げであったが、みつるさんは両足が焦げている程度だった。
 みつるさんは上半身が血まみれで、下半身は裸という姿。電気コードで絞殺されており、右耳後ろに3カ所、前に1カ所に裂傷傷がある。死因はみつるさんが首を絞められたことによる窒息死、死亡推定時刻は出火直前の15日午前1時前後。子ども2人は焼死だった。
 そして1階、2階とも、よく物色した形跡があった。豊橋署はこれを放火殺人と断定した。

 子ども2人はすでに眠っていたらしくパジャマ姿。みつるさんはまだ起きていたのか、普段着だった。みつるさんの両足は、約90度に開かれており、下着は左足から脱がされ、右腿にからまっていた。遺体には着物類、その上に新聞紙や布団3枚がかぶせられ、そこを放火されていた。

 主人の証言から、家からは手提げ金庫の中の現金12万円、みつるさんの運転免許証が入った財布、結婚指輪などが紛失していた。

 文房具店は豊橋駅新幹線口から600mのところにあり、西は市道を挟み市立羽根井小学校、道路を挟んだ北側に羽根井公園、東と南側には民家がそれぞれ並んでいる。
 主人の増田さんは事件当日、取引先の人と大阪の万博に行っていて不在だった。増田さんが結婚後に家を空けたのは親族と旅行に行った日だけで、犯行は内部の事情に詳しい人物ではないかと見られた。


【店員逮捕】

 文房具店には2人の店員がいた。そのうち1人はMさん(当時21歳)と言った。
 Mさんは68年に同店に就職、300mほど離れたアパートに下宿していたが、食事は風呂などは増田さん方にお世話になっており、まだ幼い増田さんの子どもたちも彼になついていたようだ。

 Mさんは事件直後、豊橋署に呼ばれ、8時間にわたって事情を聞かれた。そして昼からは、火事場の検証の立ち会いに呼ばれたのだが、この時顔や手に不審なひっかき傷があるのを確認された。これが疑いの第一歩であった。みつるさんの乱暴しようとして、抵抗された際についた傷と見られたのである。内偵捜査が始まる。

 22日になってMさんは「事件前日の夕方、店に靴下を忘れてきたように思う」と言った。事件現場の流し台の食器洗い桶には、男物靴下一足がなぜか入ったのだが、それがMさんのものだったのである。事件直後にMさんが靴下のことを言い出さなかったことで、さらに怪しまれた。

 5月26〜28日、Mさんが任意出頭を求められ、取り調べを受けた。しかし全体的に供述はあいまいで、答えも二転三転した。28日にはポリグラフ検査をしたが、やはり反応があいまいだった。

 6月12日にも2度目の任意出頭。

 Mさんの主張したアリバイは次のようなものだった
「事件当夜はバスケットボールの練習をして、そのまま下宿に帰り、テレビを見て寝た」
 見ていたテレビ番組は11時10分から始まる「11PM」。ところが隣室のH君の「僕は11時半過ぎに帰ったが、森の小型自動車は帰ってなかった。12時まで起きていたが森が帰った形跡はなかったテレビはついていなかった」と証言した。

 Mさんのアリバイは崩れた。
 8月25〜27日、Mさんに対する3度目の任意出頭。この3日間の取り調べで、Mさんはバスケットの練習の帰りに、増田方に寄ったことを認めた。この他にも「みつるさんから性教育を受けた」と日記帳に記していたこと、残虐かつ性的な雑誌を読んでいたことなどが逮捕の要因となった。
 
 8月28日、Mさんが逮捕され、29日から一部を自供しはじめ、9月3日に完全自供、同18日に強姦致死、殺人、放火、窃盗容疑で起訴された。  
 逮捕直後の記者会見で捜査本部長は「犯行現場にMさんの靴下があったこと」「アリバイの不在」「Mさんの顔面、手の甲のひっかき傷」などから逮捕状を請求したと発表している。

 自白の内容はだいたいにおいて次のようなものだった。

『事件当夜、Mさんは珍しく増田さんが不在のこの日に普段から親しいみつるさんと肉体関係を持ちたいと思って、バスケットボールの練習後に車(ホンダN360)で同店を訪れた。しばらく2階でテレビを観ていると、みつるさんがラーメンを作ってくれた。異性経験のなかったMさんは、その後ドキドキしながら子どもが寝るのを待った。その後、Mさんは寝室でお乳をあげるみつるさんに欲情し、抱きついたが、「何するの!」と突き飛ばされた。Mさんは無我夢中でみつるさんに馬乗りになり、顔面を殴りつけ、電気コードで首を絞めた。みつるさんの体が動かなくなると、衣類などをかぶせて顔を殴り、体を弄んでいるうちにパンツの中で射精した。そして物盗りによる犯行と見せるために遺体に布団をかぶせ、財布を盗ったうえで放火した』


【記者と刑事の奮闘】

 同年11月4日に開かれた名古屋地裁豊橋支部の初公判では犯行を全面的に認めたMさんだったが、翌71年3月17日の第2回公判では否認に転じた。

 公判は検察側ペースで急ピッチに進められていた。残虐な犯行であり、Mさんに死刑判決が下されるのはほぼ間違いないものと見られた。

 この頃から豊橋母子殺し事件の真相を知るべく奮闘した人物がいる。 
 毎日新聞・椎屋紀芳氏と中村署の現職刑事・奥野正一氏である。

 ある日、椎屋記者のところに奥野刑事が訪ねてきた。その帰り際、
「あのさ、豊橋の母子3人殺し放火事件のM君なあ、ありゃ犯人じゃないぜ」
 と言い残した。
 椎屋記者も奥野刑事もこの事件の担当ではなかったが、奥野刑事によると、捜査に関わった多数の刑事が「Mはシロだ」と言い続けているのだという。

 その話を聞いた後、椎屋記者はMさんと面会しに行ったが、Mさんはそこでも「自分はやっていません」ときっぱり言った。

 1972年1月4日、椎屋記者は、愛知県警捜査一課・神谷太一郎警部補方を訪れた。県警の殺人捜査で「取り調べの”神”様」と呼ばれた人物である。
 裁判中であったため、神谷警部補は詳しく語ることはできなかったが、ただ一言
「半田の二の舞は動かんな・・・」
 と漏らした。
 ”半田”とは1967年に起こった半田風天会事件のことである。巡査殺しの犯人として、地元の不良グループ7人が逮捕されたが、のちに神谷警部補の私的捜査で真犯人がつきとめられた事件だった。

※半田風天会事件・・・・1967年6月12日午前3時55分、愛知県半田市の半田署内で、宿直勤務中の彦坂洋一巡査(29歳)が腹部を刺れ、救急車の中で死亡した。それから1週間も経たないうちに、地元不良グループ「知多風天会」のメンバー7名が、不法監禁、暴行、恐喝などの容疑で別件逮捕される。捜査本部は事件直後から「風天会が前夜逮捕された仲間を奪い返そうとした」と見たのである。メンバーは逮捕容疑に関しては素直に認めたが、警官刺殺については「全く知らない」「身に覚えがない」と否認した。その後、1ヶ月が経過してもこれといった自白も得られず、捜査員の中からは「やはり風天会は無関係ではないか」という声も出た。しかし特捜本部はこれを聞き入れず、さらに取調べを厳しくした。8月はじめ、7人のうち6人が「仲間を取り返そうと署に侵入して、警官ともみ合いになり刺した」という内容の自白をはじめた。しかし、自白があったにも関わらず凶器は発見されず、自白したメンバーも次々と撤回しはじめた。12月5日、県警は警官殺人を名古屋地検に送致したが、21日になって工員の少年(17歳)が自首してきた。手には凶器の短刀、そして格闘のなか彦坂巡査に引き千切られて片袖のない背広の上着が握られていた。県警にとっては思わぬ真犯人の登場だった。これは当初から「風天会はシロ」と主張していた捜査1課警部補・神谷太一郎の追跡の賜物だった。取り調べに異議を唱えた神谷警部補は取り調べから外されたが、彦坂巡査が引き千切った布きれから、私的に部下に調べさせ、ついに少年をつきとめた。


 椎屋記者は続いて、事件を担当した刑事にも事情を尋ねて歩いたが、彼らは「言えばクビだから」と言った調子で口を閉ざした。だが最後には口をそろえてこう言っている。
「天日さんのところへ行ったか。わしらはあの人と同じ考えだから・・・」
  
 捜査の中心人物だった「捜査の天様」こと天日政次氏。事件直後の5月15日朝、「増田さん方の事情に最も詳しい人物」として豊橋署に呼ばれたMさんの事情聴取を行ったのが天日氏だった。当初から「Mはシロではないか」と考えていた。
 彼は部下や同僚に対しては人懐っこい性格だったが、捜査に関しては口の固い人物であった。椎屋記者も玄関払いされる日が続いた。

 1972年4月某日、椎屋記者は奥野刑事と会い、天日氏を証人として呼ぶことを相談、そのために多忙で2度しかMと面会していない弁護士を代えることを話し合った。
 奥野刑事は豊橋署勤務ではないため、直接捜査に関わった人物ではないが、第2回公判でMさんの全面否認があって以降、この事件に取り組み始めた。以来、仕事の合間をぬって故郷の豊橋に赴き、Mさんと面会したり、病気の彼の父親の世話をしてきた。定年退官したあとも、独自の再捜査をおこなってきた。


【冤罪】

(刑事たちの証言)

 椎屋記者の熱心な聞きこみの結果、口の固い刑事たちだったが、有力な情報もあった。

▽事件直前、増田さんの隣家の人が、2階からボソボソ話をする男の声を聞いた。Mさんの自白では、劣情をもよおして犯行を窺っている時で、話などはしていなかったことになっていた。

▽逮捕の要因となったというMさんの手の甲の傷だが、「虫に刺されたような跡はあるが、抵抗傷のようなものはなかった」という報告があった。

▽逮捕直前の誘導尋問
Mさん「それじゃあ現場に行ったことを認めれば、犯人じゃないこと信じてくれるのか」
刑事 「認めれば信じてやろう」
Mさん「それなら現場に行った」

▽被害品の謎。みつるさんの運転免許証を盗られた理由 みつるさんの車にしか使えないキー、ネーム入りの指輪。強盗犯に見せるにしても、不可解な被害品。また捨て場所についてMさんの自供も転々とし、結局これらの品々は発見されていない。

▽「O係長録取」となっているMさんの供述調書は、Mさんと対面しないでとったものがある。別な所で2人の刑事が調べているのを、O係長がMさんから見えない所で調書にしていた。

▽逮捕直前になって、捜査本部の7人の警部補が集められ、「森はシロかクロか、どう思う?」と尋ねられた。うち5人は「シロ」、O係長は「クロ」、残る1人がうやむやという結果。

▽係長クラスでパンツに付着した精液の血液型を知らされていた人はいない。担当警部もMさん逮捕の後にそのことに気づいて驚いていた。

▽Mさんの自白には、被害者の傷などについては全く触れられていない。また12万円を奪ったことになっているが、あの夜店にはまとまった現金は置かれていなかった。取引銀行で預金不足になる心配のある日で、みつるさんとMさんは1日中駆けずり回って集金をしては、Mさんが入金に行っていた。午後10時頃、主人が大阪から家に電話をかけてきた時も、このことを心配する内容だった。

▽逮捕時に「Mさんは犯人と血液型が違う。逮捕はもう少し待った方がいいんじゃないですか」と幹部に申し出た人もいたが、幹部は「お前は知らなかったことにしておけ」と聞き入れられなかった。
 
▽その後行なわれたポリグラフでも「シロ」という結果が出たが、これもまた黙殺された。それ以降も幹部に「Mはシロです」と言う刑事はいたが、幹部から「いつまでもそういうことを言ってると、山に上がってもらうぞ(僻地に転勤してもらう)」という意味のことを言われた。


(自白 テレビ番組をめぐって)

 自白についても不審な点があった。
「バスケットのあと、まっすぐ午後11時10分か15分の間に家に帰り、テレビを見た」
 それは「11PM」(日本テレビ系)という番組で、「強い者が勝ち」というテーマで、ピラニアが金魚を食べ、人間がそのピラニアを食べるという映像だった。Mさんは「赤いピラニアが映っていた」と説明した。
 警察は「そのシーンは”11時10分(放送が始まった時間)”と思われるが、そうするとアパートでは見られない。どこかの店に寄って見たことも考えられるが、当時はみんな閉店していた。だから被害者宅で見ているはずである」とした。
 
 だが弁護団の調査では、このシーンは、11時32分15秒―CM―32分15秒〜43分45秒の間に放送されていたことがわかった。つまり途中から見ていた。

 また「犯行前に増田さん宅でカラーテレビを見た」と自白調書にあるが、当日に限って「11PM」は白黒放送であったことがわかると、Mさんは「白黒だったかもしれない」と言い換えた。そんな感じで、調書の内容は次々に内容が変わっていった。


(男物のパンツ)

 そしてMさんがシロであることの最大の根拠として、血液型の問題がある。
 みつるさんの陰部には男物パンツ(下着)をが当ててあった。パンツは唯一の物証と言ってもいいもので、墨で名前を書いた跡があったのだが、持ち主はわからない。サイズから増田さんのものではなかったが(Mさんにしても同様だった)、近所の主婦の「みつるさんが妊娠中だから男物のパンツを履いてると言っていた」という証言があった。
 このパンツには精液らしきシミがあった。鑑定によると精液かどうかははっきりしなかったが、血液型はB型。それに対しMさんはA型だった。この事実が明らかにされたのは無罪確定から5年後のことだった。つまり、この無罪の証明になることは公判の間は極秘にされていた。
 
 このパンツの捜査がなかなか進まなかった頃、O係長班の担当していたMさん身辺捜査の方が進展、そうした障害をとりのぞき、Mさん逮捕近づいていった。
 血液型の違いは決定的な証拠であるが、捜査に関わったある警部は法廷で次のように証言した。もはや引くに引けない雰囲気が伝わる、苦しい主張となる。
「(パンツに付着していたものは)前の夫婦生活でついたものかもしれないし、子どもの汗か小便がついたのかもしれない。増田さんと子ども2人はともにB型である」


(アリバイ)

 ”アリバイ崩し”とされた、アパート隣室のH証言も、記憶があいまいで、裏付け捜査の結果、誤りであるということがわかった。


(捜査体制)

 事件から2ヶ月経った7月、捜査を指揮してきた主任官に加え、もう一人の警部が主任官となった。これは事実上の更迭である。さらに捜査員も増やされた。実は半田風天会事件でも、捜査一課主任官に、暴力団担当の四課主任官が据えられミスをしていた。


【天日証言】

 1972年7月、弁護士が国選から私選に替わった。半田風天会事件も担当した郷成文弁護士である。弁護人らは無罪要求の冒頭陳述を行う。

 1973年12月12日、第24回公判。ついに天日氏を弁護側証人として呼ぶことに成功した。定年退官を待ってのもので、元刑事が検察側でなく弁護側に立つことは異例中の異例であった。そして真犯人でない人物が、「真犯人である」と嘘の自白をすることもあるということを、刑事の職にあった人が証言したのである。

 この天日証言について、刑事たちはこう言った。
「天日さんは、思っていることを半分もいわなんだなあ。Mの死刑を防ぐことだけでいいと考えたんだな。あの人が何もかもぶちまけてくれれば、捜査幹部たちをやっつけてしまうこともできたんだが、それはしなかったなあ」

 それまでの情勢を覆す証人喚問から裁判はさらに半年続いた。その間、疑問点は次々と挙げられていった。
 そして1974年6月12日、「Mさんは犯人になり得ない」と無罪判決。事件から4年が経過していた。


 怪しい怪しいというだけでは犯人ではない
 新しい事実が出なければダメだ
 犯人ならば、捜査をすれば新事実が出てくる
 出て来んのは犯人にはなり得んのだ、ということを言った

 (天日証言より。「捜査本部で、自分の考えを言ったことがあるか」という弁護人の質問に)


リンク


≪参考文献≫

講談社 「権力の犯罪 なぜ冤罪事件が起きるのか」 高杉晋吾
東京法経学院出版 「明治・大正・昭和・平成 事件犯罪大事典」 事件・犯罪研究会・編
風媒社 「自白 冤罪はこうして作られる」 椎屋紀芳


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