龍野・一家6人殺し事件





【事件概要】

 1926年(大正15年)5月15日、兵庫県龍野の麹製造業方で一家6人が殺害された。若い嫁が「家族を殺した」という遺書を残して首吊り自殺していたため、彼女が6人を殺したものと見られたが・・・・。


高見次夫


【五寸釘】

 1926年(大正15年)5月15日、兵庫県揖保郡龍野町(現・たつの市)の麹(こうじ)製造業・高見太蔵さん(当時60歳)方で、一家6人が殺されるという事件が起こった。

亡くなっていたのは次の通りである。
・太蔵さんの妻ツネさん(58歳)
・長男基夫の長女朝子さん(12歳)、次女・絢子ちゃん(8歳)
・太蔵さんの二男次夫の妻キクエ(28歳)、その長女・晴子ちゃん(5歳)、長男・基一郎君(4歳)、次女・妙子ちゃん(2歳)

「大変です。高見家の人達が殺されています。すぐ来て下さい」
 16日の午前3時前、通い職人である男が龍野警察署に駆け込んできた。男は「若旦那が来て、キクエがえらいことをやったと言うので家に行ってみると、家族全員が死んでいた」という。


 高見家は麹で財をなした、近隣では知られる富豪だった。
 京都帝大を出た太蔵の長男・基夫さんは東京の日本電気株式会社(NEC)で働いていたが、関東大震災で死亡。彼の3人の子供達は高見家に引き取られた。そのうち長男の慎一郎ちゃんは前年の10月16日に病死している。
 
 基夫の弟である三男は大阪の問屋に入婿し、四男は小樽高商の学生、長女と次女はすでに嫁に行っており、高見家に残るのは次男の次夫(当時35歳)と末子の五男(当時17歳)だけだった。事件当夜、五男は太蔵さんに連れられて京都まで基夫さんの納骨に出かけており、家に残っていたのは若旦那と呼ばれる次夫で、彼が事件の第一発見者だった。

 高見家の玄関の奥の六畳間にはコタツがあるが、その傍でツネさんと晴子ちゃんが同じ布団に入って死んでいた。ツネさんは頭を鈍器で殴られたうえ、首と胸を刃物で刺され、左耳にノミを打ち込まれていた。ノミは頭部を貫通し、右耳から出ている状態だった。さらに五寸釘が左耳の後ろに3本、背中に1本打ち込まれていた。晴子ちゃんも頸部を刺されていた。

 2人の死体の東側では朝子さんが倒れていた。朝子さんは頭を殴られ、首を刃物でえぐりとられ、胸には包丁が突きたてられた状態で死んでいた。五寸釘は頭、目、口、胸などに打ち込まれていた。基一郎ちゃんと絢子ちゃんはツネさんの死体の左側で頭をくっつけるようにして倒れており、首を切られたうえで、やはり五寸釘を打ち込まれ、顔をつぶされていた。

 裏庭に面した縁側では、絞殺された妙子ちゃんをおんぶしたキクエさんが薄化粧に嫁入り衣装を着て首をつっていた。16日午後にはキクエさんの遺書が見つかったため、彼女が家族6人を殺害して自殺したものとみられた。


 母をころしました。
 私は死にます。
 基一郎と妙子は立派に育てて下さい。
 里の両親に不幸な者ですがいんね(因縁)とあきらめて下さい。
 とくえさん(キクエの妹)に私の物全部上げてください。
 不幸なる姉を持ったと思ってあきらめて下さい。
       
                              キクエ
 



【若旦那の正体】

 犯行に使われた出刃包丁、刺身包丁、五寸釘、火箸、横槌、ノミ、コテなどはすべてこの家の物で、外から持ち込まれたものはない。五寸釘は15日の夕方、キクエさんが雇人に買いに行かせたものだった。

 先に書いた通り、主人は五男を連れて出かけており、この他にも女中が1人いたが、彼女も朝から親元に帰っていた。つまり事件の夜に家にいたのは次夫夫婦とツネさん、次夫の3人の子供と2人の姪だけであった。このため家の事情をよく知る者の犯行と見られた。

 第一発見者である次夫は事情聴取に対し、次のように話している。
「夕食の後、キクエと夫婦喧嘩をして、かなり酒を飲み、飲み足りないので外で飲みなおそうとして家を出たものの、作りかけた麹のことが気になって麹部屋に行ったが、具合を見ているうちに眠り込んでしまった。物音がしたので目を覚まし、家の六畳間をのぞいてみると家族が死んでいた。それであわてて(警察に駆け込んだ)通い職人のところに知らせに行ったが、その直後から腰がすくんで動けなくなってしまった」


 キクエさんはツネさんから嫁いびりに遭い、ずっと仲が悪かった。頼るべき次夫は勝手気ままな性格で、知らぬ顔をしていた。キクエは実家に相談するものの、実家は元々脇坂藩の士族であることから、耐え忍ぶように言い聞かされていた。それも我慢の限界になり、キクエさんがツネさんを殺したのなら、ツネさんがとりわけ執拗に傷つけられて殺されていたのも説明がつく。
 

 しかし警察は捜査を続けていた。
 それは遺書に「基一郎と妙子は立派に育てて下さい」とあるが、彼女の子供達が3人とも殺害されていること。これが不可解だったからだ。
 遺書はツネさんを殺害した後に書かれたものと見られたが、この時点で基一郎ちゃんと妙子ちゃんは死んでおらず、また殺す気もなかったものと読める。そこで怪しいと思われたのが、生き残りである次夫であった。

 そんな時、キクエさんの兄から一通の手紙が捜査陣に届けられた。前年の8月にキクエさんが書いたもので、次のような内容だった。


 夫が言うには、
 財産は基夫さんが死んでも彼の長男(※)が相続する。
 このままいけば、自分たちは何ももらえなくなりそうだ。
 今のうちに一家を毒殺したほうがいい。
 自分の犠牲になって、罪を被ってくれれば、お前の弟二人の面倒は見る。
 おれは一生妻帯しない。
 こう言って、次夫は私に家族毒殺を迫るのですが、どうすればいいでしょう

 ※慎一郎ちゃんのこと。この時はまだ病死していなかった



 次夫にもおかしなところがあった。
 酔って寝ていたとされる麹部屋は温度が高く、とても寝ていられないところであること。また動転していたとは言え、隣に親族が住んでいるのになぜ遠く離れた雇人に伝えに行ったのか。キクエさんが雇人に五寸釘を買いに行くように命じた時も、「夫が使うから」と言っている。

 6月1日、次夫は殺人罪で起訴された。

 4日後、警察では同夜に一家が食べた味噌汁の残りを大阪の武田製薬研究部の技師に鑑定させた。これは次夫のあれだけの犯行を寝ていたはずのキクエがなぜ気付かなかったのか、彼女も共犯だったのではないかという疑いが出てきたからである。
 鑑定の結果によると、味噌汁14gの中に0.02gのカルモチンが含有していた。キクエが熟睡していたのは、これを飲んだからだと推定された。

 追及された次夫は、息子の基一郎ちゃんだけは自分で殺したと認めたが、他の家族についてはキクエがやったものと述べた。


【劣等生の次男坊】
 
 高見家の長男は優秀な人物だったが、その弟の次夫の方は成績も悪く、竜野中学2年から3年に上がる時に落第を予告されたため、太蔵さんは退学させて家業の麹を継がせることにした。それからの次夫は相変わらずの怠け者で、茶屋遊びをしては麹や原料の米を売ったり、女中を手ごめにしたりしていた。太蔵さんはこの次男坊を信頼せず、家の跡目をゆずらず、また営業も任せなかった。太蔵・ツネさん夫妻は日ごろから五男をかわいがっており、ゆくゆくは五男の世話になりたいと考えていたのではないかと思われていた。

 事件の前、太蔵さんは「財産は五郎や長男の遺児達に分配して次夫にはやらない。次夫には家と屋敷と麹の営業を譲る」と言ったことがあった。
 次夫はこれをひどく恨み、1年前に一家殺しを計画し、硫酸、ネコイラズ、カルモチンなどを用意したが、キクエが承知しなかったため未遂に終わっていた。

 事件当日、太蔵さんと五男は京都の寺に向かったが、大阪に着くと「家にある株券類を大阪に届けてくれ。大阪の銀行に保管預けにするのだ」という電話を家にかけた。ツネさんは言うとおりにしたが、それを見ていた次夫は「これはきっと自分を警戒し、財産を四男や五男に分配するのだ」と思い込んだ。そして財産を受け取るうえで、一番の障害となり得る母親、そして兄の遺児達をなんとかしなければならないと思った。

 夜になって、次夫は熟睡していたキクエさんを起こし、自殺するように強要。怯えるキクエさんに遺書を書かせて首を吊らせたが、一部始終を見ていた子供たちも殺害した。

 1927年(昭和2年)2月3日、次夫の公判が始まる。次夫はすべてキクエが殺害したものとして罪状を全面的に否定した。

 だが同年5月17日、死刑判決。

 1928年2月3日、堺刑務所で死刑が執行された。


リンク


関連

島原・遺産相続殺人事件(財産をめぐり、男が妻子、親族らを殺害した事件)


≪参考文献≫

光栄 「近代日本殺人ファイル」 曾津信吾 長山靖生
社会思想社 「20世紀にっぽん殺人事典」 福田洋 
東京法経学院出版 「明治・大正・昭和・平成 事件犯罪大事典」 事件・犯罪研究会・編
読売新聞社 「三十九件の真相 秘録 大正・昭和事件史」 小泉輝三郎



事件録】 【Top