平事件



【事件概要】

 1949年6月30日午後、福島県平市(現・いわき市平)の平市警察署に、共産党員や労組員などが押しかけ、一時的に占拠した事件。


共産党地区委員長ら166名


【平、乱る】

 1949年6月のことである
 福島県軍司令官クラークは、6月30日までに平駅前通りに立てられたアカハタ掲示板の撤去するように、平市警察署から平共産党に要求した。

 この掲示板は4月中旬頃に掲示を許可されていたが、6月25日に「交通の妨げになる」という理由で撤去が申し入れられていた。

 平市署からの要求に対して、共産党員や労働組合員は抗議も入れながら、別の場所に移すことを話しあっており、撤去を一週間延ばすことを申し入れた。平市署では「交通事故防止上一日もゆるがせにならぬ」と主張して6月30日撤去を党側に要求した。

 6月30日午後3時半頃 約90名がトラックで平市署に乗りつけた。彼らは共産党員、矢郷炭鉱労組員、朝鮮人連盟などである。

 この群衆は署内の警官5名を引き出して殴り、投石した。先発隊である約100名は支署員と乱闘となった。投石により窓ガラス十数枚が割られ、警官側5名と労組員3名が負傷した。
 このデモはいったん落ち着き、群衆の代表らは本田市署長、橋本地区署長、山崎、矢吹、猪狩の三公安委員らと交渉に入る。しかし群衆は署内の警備室、防犯室に押し入り、その一部は留置場入り口のガラス戸を割り、「(同志の)古川某を釈放しろ」と殺到し、織井巡査のピストルを奪い、巡査を官房内に押し込めるなどした。

 交渉の結果、アカハタ掲示板は7月3日に移すことになったが、党側が「此度の騒動は警察側の挑発によるもので、党のとった態度は正当防衛にあたる」と主張し、本田市署長に謝罪と負傷者の治療費を求めた。これは物別れに終わり、デモ隊は午後11時半頃になって引き上げた。


【風に躍る赤旗】

 発端となったアカハタ掲示板には何が書かれていたのだろうか。
 
 掲示板は矢郷炭鉱労組と会社側の争議の様子を広く人に知ってもらおうということで利用されていた。共産党石城地区委員会は党員個人の名で平市警察署に対して道路の一時使用許可を申請し、4月15日から7月20日までの使用許可を得ていた。掲示板は幅約2.4m、高さ約1.8mの大型のもので壁新聞が貼付けられていた。

 この年「ドッジ・ライン」と呼ばれる財政引き締め政策で、百万人の失業者が生み出された。
 福島県内では東芝が松川工場の閉鎖をうちだして、321人の整理を通告。帝国金属の原町工場では工場を休業して従業員107人全員を解雇する案を出した。

 石炭産業についても、炭鉱をA・B・Cの3つにわけて、不良なCの炭鉱を切り捨てようとした。福島県常磐地区には130の炭鉱があったが、Aが3鉱、Bが20鉱、それ以外はすべてCであった。磐城神奈川炭鉱株式会社の経営する矢郷炭鉱もCであった。この炭鉱は前年秋ごろから経営不振となり、給料や物資の配給が遅れがちとなり、1947年に入ってさらに悪くなった。鉱員たちはボロボロになった地下足袋を修繕してはき、弁当も食べずに作業していた。
 会社側と労働組合の話し合いは3月中旬頃にあったが、良い案は出ず、そのうち会社側は老年者、身障者、生産阻害者として組合の幹部ら計120名の首切りを通告した。この120名については5月末日限りとされており、同月14日には常磐炭鉱労組の内郷地区が連合して総決起大会を開いた。

 矢郷炭鉱労組は6月1日臨時大会を開き、それまでのスト中心の方針を「生産復興闘争」へと切り替えた。会社側は6月8日福島地方裁判所平支部に対して、解雇を受諾しない者70名を鉱業所内に立ち入ることを禁止する旨の仮処分を申請、9日に執行した。この時、内郷警察では会社側と労組側に紛争が起こることを懸念して、50名の警官を派遣している。

 この頃には占領軍民事部から米軍中尉が、2、3人の兵士と共に来て、組合長に争議中止を迫っている。
「使用者は労働者を雇い入れ、また解雇する権利を持つ。しかし、組合指導者たちのうちのある者は自分たちが労働者にすぎないことを忘れ、敢えて坑山の主人公であるが如きの行動をとっている」(中尉)

 この矢郷炭鉱労組に対して、東新不動沢、笹島、浪花、高階、寿の5炭鉱組合が支援する24時間ストを行っている。

 6月25日、平市警察署長が口頭で掲示板撤去を通告した。
 もともとこの争議についての人々の関心は高く、掲示板前には人だかりができるほどだった。この掲示板があくまで「交通の妨げ」という理由での撤去要求だったが、労組側には警察による弾圧と受け取られた。

 その翌日、常磐労組が1万3000人の臨時大会を開いた。

 署長の通告に対して共産党地区委員会は「政治活動を妨げるもので応じられない」としたから、平警察は在日朝鮮人連盟の幹部に斡旋を頼んだが進展はなかった。このため6月27日正午に撤去されなかったら、午後5時頃に警察が撤去すると通告した。
 この後も両者の折衝は続く。労働者が警察署前に集まり、労働歌を歌う。署内に3、40人が入って抗議したため、代表を選んでの話し合いとなった。地区委員会が適当な掲示板の移動先を見つけるということでまとまった。地区委員会は平駅前の県道に面する空き地を借りることにしたが、このことを伝えに署まで行ったところ、本田署長は6月30日午後4時までに撤去すべきことを伝えた。

 そして事件当日を迎える。
 6月30日、平市署では午後4時の掲示板撤去のため湯本、内郷警察の協力を求めたが、各地に散らばる労働者のこともあり不可能となった。この日の午前、約100名の労働者が湯本町警察署に押しかけ、平市署へ協力に行かないように要請していた。午後には内郷町警察署にも党員や労働者100名が押し寄せ、やはり平市署に応援に行かないように要請している。
 湯本町警察署の掲示板には、「弾圧を止めさせよ」と題するビラが日本共産党湯本細胞の名で貼りつけられていた。
「でたらめな警察を叩き潰し、民族の独立のために闘う。諸君行け、平署へ、午後3時平駅前集合」

 平市署でも群衆が押し寄せてくることが予想されており、代表の3人以外は署内に入れないように、36、7人の警官を三班にわけ、玄関と裏口を警備するなどの対策をとっていた。結果的には平市署は100を越える労働者相手に寡勢で当たらなければならなった。内郷署、湯本署の協力は得られず、労働者側の陽動が成功したと言っていい。
 
 そして午後3時半、内郷町署に押しかけていた党員・労組員のうち、4、50名のグループが平市署に向かい、もう一方のグループ4、50人も到着する。
 群衆の中に静止しようとした警部補が引っ張りこまれる。警棒が群衆の一人の額を割る。赤旗を持って署内へ入った一人が逮捕される。こうしたことが起こって投石が始まる。たまりかねた本田署長が出て消て、「乱暴をやめよ。代表者3人と話す」と言って、いったんはおとなしくなった。この騒動は5、6分間ほどの出来事だった。

※平事件のデモ隊の人数について・・・・(1)約50人と約50人が平署に乗り込み、話し合いのあいだに群集が100人ほど増えた。(2)トラックで50人ほどが平署に乗り込み、すでに署前にいた300名(400名)と合流した。(3)トラックの荷台いっぱいに乗って来た。西からも、南の方からも警察署の方へ向かってくる一団が来て、見る見るうちに2、300人位の群衆となった。、、などと資料により人数は異なる。なお、この6月30日には湯本町署抗議に約150人、内郷町署占拠に約100人、国警平地区署索制に約100人、福島県庁と福島地検と福島市署の抗議に約200人、郡山市署抗議デモに約100人、国警郡山地区署抗議に約600人、国警若松地区署抗議に約250人が参加していたとのこと。群衆、デモ隊の正確な人数はわからないだろう。

 交渉のあいだ、外では誰かの演説が始まり、スクラムを組んで労働歌が歌われた。当初は代表の3名だけが署内に入るということだったが、さらに数十人署長室に入った。
 交渉が終わって、署長の謝罪や負傷者の治療費などが求められていた最中の午後5時半頃、雨が降っていたためか、外から「我々も中へ入れろ」という声が聞こえてきて、署長の許可で約100人が入ってきた。

「警察を占拠した。赤旗を立てる!」

「人民警察ができた!」

 こうした叫びで、外では大きな赤旗日本がが交差され、その前で群集は記念撮影を行う。署内では約200名が労働歌を歌う。

 午後6時頃、労組側は警備隊を編成して、市内を見張り、車の検問を始める。

 署内の留置場での同志釈放要求と巡査押し込めが起こったのは午後8時半頃のことだった。

 午後11時半頃、共産党石城地区委員長・鈴木光雄の宣により赤旗は降ろされ、党員や労組員らは解散した。平市署の長い一日が終わった。


【騒擾罪】

 一夜明けて7月1日、県警察隊本部は仙台、郡山を含める警官700名を動員して、公安条例違反、家宅侵入の容疑者の検挙を始めた。この日の夕方までに11名が検挙されている。
 この日には臨時閣議があったが、この後に樋貝国務大臣は「前日の福島県下の一連の事件は共産党による暴力革命の予行演習であり、断固取り締まる」と言った。
 平市長は「今後再び治安が乱れるような場合、消防団員を出動させたり、自警団のような組織が必要だ」と語った。

 7月3日、アカハタ掲示板は午後に移動。
 事件から数日が経っても平及び石城地方に未だ不穏な空気が漂っていることを地方紙は伝えている。同日午後11時頃には隣接する好間村の小田炭鉱平地区駐在所が数人に投石され、窓ガラス7枚が割られている。まもなく、ここに住む駐在巡査は自殺した。(「回想 戦後主要左翼事件」→「赤旗と父の死」)

 7月4日、最高検察庁は平事件の参加者全員に騒擾罪を適用すると決定した。
 茨城、福島、仙台などから多数の警官が集結して、特別捜査本部がつくられた。

 7月20日早朝、この事件を騒擾罪とした捜査本部は矢郷、寿炭鉱の住宅に向かい、デモ隊の中堅とされた27名のうち17名を逮捕した。
 この事件では169名の逮捕状がとられ、166名が逮捕された。そのうち9名は警察で釈放され、他は検察庁に送られている。ちなみに逮捕された人の職業は60名が無職、炭鉱関係が27名、日雇17名、他は会社員や商店主、工員、職人、写真屋、理髪業といった町の人々だった。

 8月17日、福島県下で、共産党の影響を受け、人員整理に怒る東芝松川工場労組及び国鉄労組の人物が関わったとされた(のち無罪)松川事件起こる。

 9月1日、福島地裁で初公判。あまりに大人数なので被告を三組に分けて開かれた。
 検察・警察側は
「本件は共産党が県内外の同志間に連絡を保ちながら、広く行動情報交換をなしつつ同時多発的に騒乱をおこし、警察力の分散を企図した計画的犯行である」
 と主張した。
 翌年の4月12日までに26回の公判が開かれたが、この頃の福島地裁は松川事件が係属され、平事件の方はそのまま中断というかたちになった。

 1948年春、地裁平支部には200名の被告と50名の傍聴人が入れる東北一の大法廷ができた。それまでの公判をリセットして、この年の6月25日からやり直しの公判が開始された。

 なお平事件で指導的な立場にいた鈴木地区委員長は、事件から1年近くが経った6月20日に逮捕されている。もう一人の中心人物、朝鮮連盟福島浜通支部委員長の逮捕は 1953年12月21日のことだった。

 公判は1955年3月9日に結審し、8月1日から5回にわけて判決が言い渡された。9月20日の判決公判では騒乱罪は適用されないとした。平署でのデモ隊の行いが、偶発的、個々的、散発的であったとされたのである。一審の結果は有罪36名、無罪117名。

 この判決に対して検察官は被告全員に対して控訴。1956年12月4日から控訴審が始まった。

 1958年6月30日、仙台高裁は原判決を破棄、検事側の控訴を認め、騒擾罪が成立するとした。鈴木委員長ら10人に実刑、141人を有罪、1人を無罪とした。
 結論では騒擾罪成立について次のように説明している。
「群衆が署内に侵入して喧騒を極め、共同意思による不法占拠の状態に発展して六時間余継続し、その間署内に於いていずれも共同意思による随時随所に行われた暴行脅迫と、留置場の被疑者奪還がなされたのである。そして、その共同意思を持った群衆は多数であり、その暴行脅迫は諸地方の公共の静謐を害する危険性を発生せしめたもので、ここに騒擾罪の成立ありとなさざるを得ない」

 この後被告側からの上告があったが、最高裁ですべて棄却され、第二審判決が確定した。


リンク


≪参考文献≫

警察庁警備局 「回想 戦後主要左翼事件」
警察文化協会 「戦後事件史 警察時事年間特集号」 
第一法規 「戦後政治裁判史録 第一巻」 田中二郎 佐藤功 野村二郎編集
東京法経学院出版 「明治・大正・昭和・平成 事件犯罪大事典」 事件・犯罪研究会・編
歴史春秋社 「福島県事件史」 仲村哲郎


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