上野・消火器商一家5人殺害事件





【事件概要】

 1974年2月、東京・上野の消火器販売業方で一家5人が殺害されているのが見つかった。まもなく犯人として以前この会社でセールスマンをしていた徳永励一(当時36歳)と、その知人の木村繁治(当時39歳)が浮上、指名手配され逮捕された。
 86年5月20日、2人の死刑が執行された。


徳永励一
木村繁治



【消火器商の一家】

 1974年2月7日午後0時5分頃、東京・台東区上野7丁目の消火器販売業「K製作所」宅で、社長・Kさん(71歳)、妻(68歳)、三男Iさん(32歳)とその妻(27歳)、以前同店でアルバイトをしていた国鉄職員(26歳)が殺されているのを、区内に住む親類が発見した。

 現場は血の海であった。
 Kさんは頭部を鈍器で殴られており、首にもビニールコードが巻きつけられていた。妻の方も頭を殴られていたが、口と鼻に湿布薬を貼り付けられての窒息死であった。三男・Iさんと国鉄職員の2人は浴室の浴槽に押し込まれており、Iさんの妻は中3階で首を絞められていた。5人の遺体にはそれぞれ大量の灯油がかけられており、また浴室のガスの元栓も全開になっていた。
 タンスなどの中身はすべて部屋内にぶちまけてあり、執拗な物色の形跡があった。怨恨とも見られたし、物盗りにも思えた。

 しかし、犯人は驚くほど早く浮上した。
 現場には血まみれで脱ぎ捨てられていた上着、ズボン、靴下などが残されていたのだが、その中には犯人の名前と見られる「トクナガ」という洗濯ネームもあり、以前K製作所で消火器のセールスマンをしていた荒川区の徳永励一(当時36歳)のものと分かった。徳永は7日の午前10時に帰宅した時、母親に「もうこの家に居れなくなった。捕まったら死刑になるから逃げるだけ逃げる。体を大事にしてくれ」と言って行方をくらませていることもわかった。

 8日、徳永は全国に指名手配された。さらに特殊な靴下の遺留品や徳永との関係などから大田区の鳶職・木村繁治(当時39歳)の名も浮上。木村も11日に指名手配されたが、その3時間後に台東区浅草の元雇い主のところに未払い分の給料を取りに来たところを逮捕された。徳永も3月8日に足立区千住の以前の勤務先に就職依頼に来たところを逮捕された。


【奇妙な友情】


Kさんおれのとうさんのときからのうらみだ。おやこ2第(代)だまししょうばいするのはやめろ。25年のうらみだ。なんかいもいうたがだめ、よくばりのIさん(三男)もがまんできない。バカをおこらせた×。2月9日から中村メッキではたらいています。まいにちげんきにがんばっています、母さんに300まん円ぐらいためてあげたい。
  
                            励一。さよなら母さんに。


 徳永はこのような自筆メモを持って逃走していた。

 徳永も木村も父親がおらず、独身で、都内で母親と2人暮らし。その家庭環境は捜査員も驚くほど似ていた。
 徳永は1937年に徳島県阿波郡で生まれている。父親は僧侶だったが、徳永が幼い頃に炭鉱夫となり、43年に肺結核で死亡した。母親は子ども5人を身内に預け、東京で住み込み女中として働き始めたので、徳永は母の実兄に預けられることとなった。敗戦直前の頃、徳永は母親に引き取られて、東京で暮らすこととなったが、母親は消火器セールスマンの男性と再婚した。徳永は学校教育をまともに受けておらず、ようやく平仮名が書ける程度だった。窃盗や喧嘩で計5回の逮捕歴があったが、起訴されるほどではなかった。

 木村の方は12歳で父親を亡くしている。母親に苦労をかけまいと進んだ定時制高校も卒業目前の4年で中退した。これは昼間に働いていた工場で、待遇改善の要求をすることになったが、まだ18歳の木村が代表者格にされて、首謀者とされてクビになり、それでなにもかもに嫌気がさして学校も辞めたという。気弱な性格のため、それまで人と争うようなことはなく、警察の世話になったのはスピード違反になった時くらいだった。無類の歴史好きで、司馬遼太郎の作品ならすべて読んでいたという。男色の気があり、見合いなどをしていた徳永とは違い、結婚の意志はなかったという。

 Kさん方はもともと飴屋だったが、消火器を扱うようになり、セールスマンを使って事務所などに販売するようになった。セールスマンといっても従業員ではなく、K製作所から卸してもらう小売業者であった。
 徳永の父親もK製作所のセールスマンだった。有能であったようで、500軒くらいの得意先を持っていた。徳永自身も16歳の頃から父親の後をついて歩く見習消火器セールスマンとなり、鳶職の仕事をするようになった後も兼業していた。64年に父親が病死してからはセールスマンの方を専業にしている。
 ところがK製作所では、Iさんが働き始めた事件の10数年前から直接に販売するようになった。このことで有能であった父親でさえも次々と得意先を失うことになった。徳永の言う「親子2代の恨み」とは、つまりこのことを指していると見られる


 徳永と木村はお互い友人が少なく、よく一緒に飲む仲間となった。徳永は急速に親しくなった鳶職仲間の木村に「良い話がある」とK一家襲撃をもちかけた。

 2月4日、2人は上野公園でおちあい、Kさん方を念入りに下見などして犯行の打ち合わせをした。ハンマーや湿布薬を準備することをこの日に決めた。
 犯行当日の6日には上野公園の西郷隆盛像前で待ち合わせ、近くの食堂で酒を飲んでからK製作所に向かった。

 そこでは徳永が応対したKさんの妻をまずハンマーで殴り、後から入ってきた木村がタオルで首を絞めた。さらにほとんど寝たきりの状態で、寝室でテレビを観ていたKさんを殺害。午後6時ごろにはIさんの妻が帰宅し、「殺さないから静かにしろ」と言って後ろ手に縛り、顔に湿布薬を貼った。午後6時45分にIさんが帰宅。足が少し不自由ながらも空手で鍛えており、護身用に寝室にバットを置いていたIさんも、そのバットを犯人に奪われており、殺害された。2人はその後に訪ねてきた国鉄職員も殺害すると、最後に三男の妻を水の入った洗面器に何度も顔を浸けるなどして殺害した。
 2人は気の小さいところがあったが、励ましあいながら、殺害は徳永が、物色は木村がリードしていった。

 木村はその夜、蒲田の映画館で”恋人”と会い、性的関係を持った。翌未明にはゲイバーで飲み食いし、別の若い男と知り合ってホテルに行き、徳永と分け合った3万9千円を使い果たしていた。

 ただわからないのが、木村の動機である。気弱で暴行沙汰などもなかった彼が、どうして徳永の誘いに簡単に乗ってしまったのか。つまり木村と徳永に性的な関係があったのか、ということになるが、これは潔白だったようだ。


【裁判】

 75年12月22日、東京地裁、死刑判決。

 77年3月17日、東京高裁、控訴棄却。

 79年12月25日、最高裁上告棄却。
 
 徳永は共犯の木村について「引きずりこんで気の毒をした。なんとか助けられないものか・・・」と言っていた。木村の方は裁判で共同謀議を否定するが、認められなかった。

 86年5月20日午前、まず木村が、その後に徳永の死刑が執行された


リンク


≪参考文献≫

社会思想社 「20世紀にっぽん殺人事典」 福田洋 
新潮社 「新潮45 06年10月号」
新潮社 「日本の大量殺人総覧」 村野薫
宝島社 「別冊宝島 死刑囚 最後の1時間」
東京法経学院出版 「明治・大正・昭和・平成 事件犯罪大事典」 事件・犯罪研究会・編
文藝春秋 「殺人百科」 佐木隆三 


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