鈴ヶ森おはる殺し事件




【事件概要】

 1915年(大正4年)4月29日夜、東京・大森の鈴ヶ森で、田中はる(25歳)が殺害された。まもなく愛人が逮捕されたが、真犯人を名乗る石井藤吉(当時41歳)が現れた。いったんは無罪判決が出された石井は、真犯人であることをアピールし、やがて死刑判決を受けた。大正を代表する冤罪事件。


石井藤吉


【刑場跡に倒れる女】

 1915年(大正4年)4月30日朝、東京市外の荏原郡大井町の旅館街で、空地に女性の死体があるのを、旧鈴ヶ森の刑場跡に作られた鬼子母神堂の尼僧が発見した。尼僧は参拝客を送って外に出た時、お堂の裏を何気なくのぞいて、南無妙法蓮華経の大石塔のあたりで死体を発見し、驚いて交番へ届けた。

 死体は鬼子母神堂の裏と風呂場が隣接している砂風呂「浜の家」の田中はる(26歳)のものだった。鋭利な刃物で右目と咽喉をえぐられており、陰部に5ヶ所の傷があった。このため痴情のもつれによるものと見られた。

 捜査が始まると、はること”お春“には5、6人の男がいて、彼らは代わる代わる「浜の家」に泊まりにきていたことがわかった。決まった男以外とも、お春は寝ていた。つまりは旅館の娘でありながら、お春は売春を業としていたらしく、痴情関係を洗うとなると、怪しい男が何人もいたのである。

 大森は元々は魚貝や海苔の産地として知られる漁師町だった。大正に入ると住宅が建ちだし、料理旅館ができ、花柳界もできた。そして京浜工業地帯が形成されると、建築業者が住むようになった。事件の前年には第一次世界大戦が勃発しており、イギリス、フランス側について軍需物資の調達と輸送に従事した日本の産業界も軍需景気に沸いた。このことで大森の街も変わり出し、九州・別府を真似た室内での砂風呂、蟹料理、芸者と仲居の売春などが行われた。

 お春は「浜の家」主人の養女だった。以前は妹と2人で近くの仲居をしていたことがあるが、妹が結婚したので、お春は1人養父の元へ戻って客をとっていた。
 事件の2年前に松沢という警官と関係を持ち、結婚。お春は賑わう海水浴場で、砂風呂と同じ「浜の家」という休憩所をひらいた。ここは結構繁盛したが、お客と親しげに接するお春に松沢がヤキモチをやき、夫婦喧嘩は絶えなかった。このためお春は離婚し、養父が家にひきとったのはそういう経緯もある。

 鬼子母神堂の尼僧は、お春が殺された夜の午前3時ごろ、「浜の家」のふろ場の戸をあけて、お春が誰かと一緒に堂の裏に出てくる物音を聞いていた。
 警察ではこの時、お春と一緒にいた客が、お春を殺害したものとにらんでいた。お春の部屋に布団や紙屑などが残されていたことから、なじみ客の一人と思われた。


【大赦狙い】

 まもなくお春の愛人であった小守壮輔(当時37歳)が逮捕された。お春のなじみ客のなかで、最も怪しいとされた人物であった。

 小守は元々海水浴場の休憩所「浜の家」の前に汁粉屋「のんきや」を開いており、そこでお春と親しくなった。女癖が悪く、正妻は小石川におり、子供も2人いたが、9年前に赤坂芸者だった別の愛人と出来て同棲、またその愛人の16歳だった妹にも手を出した。小守はその愛人に現場近くに掛け茶屋を出させ、そこに寝泊まりして土木工事の現場監督をやっていたが、やがてお春と出来たので「浜の家」に入り浸るようになった。小守はそこでお春の妹とも関係を持ったとも言われている。お春が別れ話を切り出すと、小守はピストルをふりまわして手切れ金を要求、お春が浜川郵便局で40円をおろして渡したこともあった。

 事件当夜に小守が現場を通行していたことも間違いなく、またその時には鋭利なナイフも持っていたこともまた事実だった。

 4月30日から警察の取り調べを受けた小守は、しばらく犯行を否認していたが、5月29日に「私が殺しました」と一度は犯行を自白。

 自白はだいたいにおいて次のようなものだった。
 小守はお春と前年8月に関係が出来、成田の不動様に参って、「もし変心するようなことをしたら、莫大な違約金を取る」という証文を取り交わしていた。だがお春の妹と関係を持ったことで、お春の態度は冷たくなり、2月頃からは言い寄ってもお春は応じなかった。
 
 事件当日、仕事帰りの小守は酒を飲んで「浜の家」に入った。
「あなたの泊まるところはここと違うでしょう」
 お春はそう言って小守を相手にしなかった。小守が顔を2回ほど殴ると、
「あなたに殴られるいわれはない。殴るならちゃんと断ってから殴っていただきましょう。主あるからだですからね」
 と言う。
 小守はさらにお春の顔を殴ると、今度は「人殺し!」と声をたてた。小守はお春を右わきに抱え、声を立てられないようにお春の顔を自分の胸に押し当て、頭を押さえつけて西手の横丁まで引き出した。そこで小守が手を放すと、お春は倒れ込んだ。小守が様子を見ると、死んでいる。
 小守は死体を海に捨てようとしたが、海岸までひきずって来てみると干潮である。しかたなく御首様(事件現場)のところまで引きずり、癪にさわるのでナイフで陰部を何度か刺し、生き返るといけないと思ってノドも突いた。手とナイフを洗った後、鬼子母神堂の裏の物置から戸板を出してきて、お春の体の上にたてかけて、帰宅した。


 東京帝大法医学の三田定則博士、宮永学而博士の解剖所見に、
「一.死因は窒息死であるが、頸部には索溝がない頸動脈静脈にも異状がない。舌骨喉頭諸軟骨に損傷もない。故に絞殺ではない」
「二.外陰部右大陰唇及び会陰部に5個の切創があるが、創壁に出血を認めず、明らかに死後の損傷である」
 というものがあったが、これも小守の自白と合致した。
 解剖所見だけではなく、海岸まで人を引きずった後や、干潮の時間も一致している。

 こうして小守は起訴されることとなった。
 だが7月1日の調書から、小守は「拷問により嘘の自白をした」と言いだした。

 小守と約1か月間同房だった人物に山口という男がいた。講和反対の騒擾にも関係した人物である。山口はこの年の秋に京都で大正天皇即位の式典があげられることにふれ、
「即位式は大赦がある。今は何とでも言っていい抜けておいて、大赦で許されたら同じことではないか」
 と言って、小守に自白をすすめ、小守もその通りにしたというのである。


【真犯人あらわる】

 この年の11月末から12月にかけて、東京市内に連続して起こった2人組による強姦強盗事件があった。2人組の1人、石井藤吉(当時41歳)は強盗窃盗前科六犯あり、1903年(明治36年)に懲役11年を受け、千葉監獄で共犯のSと知り合った。Sは一足先に出獄し、後から出た石井は彼の家で同居し、一連の犯行に至ったのち12月11日に逮捕された。
 
(歌人夫婦殺し)
 石井は犯行をなかなか自白しなかったが、追及されたところ、6月17日の夜に横浜市久保町の歌人・大槻禎郎(31歳)と保土ヶ谷帷子小学校で教師をしていた内縁の妻(21歳)を殺害したのは自分だと話し始めた。
 この事件は、大槻が首を絞められ、妻が鳩尾を刃物でえぐられて死んでいたというもので、当初は心中事件だと思われたが、夫婦仲も良くその線は消えていた。

(警官殺し)
 石井は7月12日にも豊橋市と豊川町で強盗に入ろうとしていたところを警官に職務質問され、青木巡査に切りつけ、重傷を負わせて逃走するという事件も起こしていた。石井は岡崎町の山中に行き、警官を切った短刀と、大槻から奪った懐中時計を隠した。これを見つけた岡崎署は、犯人が取りに戻るとみて、現場近くに2名の警官をはりこませていた。翌13日の朝、石井がやってきて短刀などを取って立ち去ろうとしたところを取り押さえようとしたが、石井は応戦し、梶野巡査を刺殺して逃走した。

 こうした自白を受け、警視庁でもっと厳しく追及したところ、石井は「鈴ヶ森のお春は私が殺しました」という自白をした。未解決事件が石井の自白により、次々と片付き始めたのである。

 石井はこうした自白をしたことについて次のように話した。
「(鈴ヶ森事件の)犯人があがったことを知り、いずれは死刑になることを知りました。私が黙っていれば、その人は無実の罪で死刑となるでしょう。しかし、それでは可哀そうです。私は多くの大罪を犯してきました。でも良心はあります。その人を助けてやりたい」


 石井はその晩、横浜の方から盗みに入る家を物色しながら歩いており、午後9〜10時頃に鈴ヶ森にやって来た。人気のない掛け茶屋の床几に腰をかけていると、2人連れの美しい女性が通りかかった。それから数分して、2人連れのうち1人だけが戻ってきた。その時、石井は強姦しようと女性に襲いかかり、後ろから首に手拭をひっかけて、大石塔(現場)まで引いてきた。だが手を放すと、女性はバッタリ倒れた。よく見ると、死んでいる。死体を刃物で傷つけたのは、痴情関係に見せかけるためだった。お堂の中から誰かに声をかけられたため、すぐに逃げたが、その際女性の腰巻を持って田んぼに捨てた。

 石井の自白は、その時刻の現場のことをよく知ったうえのものだった。彼が見たという、お春と一緒にいたもう1人も、後に静江という芸者とわかった。彼女は「浜の家」に呼ばれ、お春が京浜電車の停留所まで送りに行っていた。その静江は掛け茶屋の床几にタバコをふかしている石井らしき男が座っていたとも言った。

 東京地検の小原直検事が石井を取り調べ、手口が同一で陰部を切ったナイフも一致したため、石井は別の事件と合わせ、お春殺しでも起訴された。
 一つの事件で、共犯でもない2人の男が起訴されるのは前代未聞のことだった。どちらも真犯人ではないということは有り得るが、少なくともどちらかは無実なのである。


【救われた2人の男】

 翌年12月4日、東京地裁は石井の自白には信用性がないとして、他の事件については有罪だが、お春殺しについては無罪を言い渡した。

 検事出身の武富済弁護士の弁論のたまものだったが、石井はこれに怒り、「この弁護士のいるところではもう何も答弁せぬ!」と言い、あまりの真犯人アピールに裁判長が「死に急ぐことはない」と注意したほどだった。控訴審からは自分が犯人であると積極的に立証しようとした。

 ある時、刑務所の石井のところにカナダ人のキリスト教伝道師マグドナルドがやって来た。石井はこの若い女性宣教師の話を聞きながら唸っていたが、置いていった聖書を手に取ると、感化されてキリスト教に帰依した。これによって石井は救われ、変わり始める。

 1917年1月31日、横浜裁判所で石井は死刑判決を受けた。これは大槻夫妻殺しのためである。

 1918年7月30日、東京控訴院はお春殺しについて石井を真犯人と認め、やはり死刑判決を出す。石井はこれを喜び、「このたびの公判は公明正大です。喜んで服罪します。ありがとうございます」と裁判長に何度も頭を下げた。弁護士から「上訴する気はあるか」と問われると、「上告など滅相もない!今の判決で満足です。小守という人がこれを聞いたならば、さぞや喜ぶでしょう」とまで言った。


 その年の8月17日、東京監獄で石井の死刑が執行された。
 石井は12歳の時からグレだし、1903年(明治36年)に千葉で強盗をして懲役11年に処せられたが、恩赦減刑で1914年(大正3年)10月に釈放された。この後も殺人強盗などを繰り返したが、死刑の前石井はこれを悔い、「でも、小守という人を救えて満足です」と言って、断頭台に昇って行った。

 名は汚し 此身は獄にはてるとも 心は清め 今日は都へ
 (辞世の句)

 
 公判が中止されていた小守の無罪判決が出されたのは、9月27日のことである。なお、小守の取調べにおいて、拷問されたことについて、日本弁護士協会は20名の調査委を設置。人権蹂躙問題となり、刑事数名は引責辞任した。


リンク

ウィキペディア「鈴ヶ森刑場」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E3%83%B6%E6%A3%AE%E5%88%91%E5%A0%B4


≪参考文献≫

光栄 「近代日本殺人ファイル」 曾津信吾 長山靖生
三一書房 「誤った死刑」 前坂俊之
思想の科学社 「思想の科学 6月臨時増刊号 犯罪事典」
社会思想社 「20世紀にっぽん殺人事典」 福田洋
新人物往来社 「別冊歴史読本 新・殺人百科データファイル」
春秋社 「<物語>日本近代殺人史」 山崎哲
大学書房 「大正犯罪史正談」 小泉輝三郎 
東京法経学院出版 「明治・大正・昭和・平成 事件犯罪大事典」 事件・犯罪研究会・編
徳間書店 「【明治】【大正】犯罪史」 加太こうじ  
日本評論社 「史談裁判」 森長英三郎 
日本文芸社 「現代読本 波乱怪奇!人と事件百年史 1月創刊号」 
読売新聞社 「三十九件の真相 秘録 大正・昭和事件史」 小泉輝三郎


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