ラストヴォロフ事件




【事件概要】

 1954年1月、ソ連代表部二等書記官ユーリ・アレクサンドロヴィッチ・ラストヴォロフ(当時33歳)が東京で行方不明となった。半年が過ぎ8月14日、彼が国内で日本人エージェントを使って情報を集めていたことが明らかにされ、アメリカへ政治亡命したことが発表された。そしてその情報提供者であった元軍人、外務省職員ら日本人3人が逮捕された(1人は自殺)。戦後最大のスパイ事件とされながら、真相はいまだ闇の中である。


ユーリ・アレクサンドロヴィッチ・ラストヴォロフ



【ラストヴォロフ】

 1954年1月27日、ソ連代表部ザベノフが、代表部二等書記官ユーリ・アレクサンドロヴィッチ・ラストヴォロフ(当時33歳)が行方不明であると警視庁公安三課に捜査を依頼してきた。

 世界スケート選手権大会出場選手団の副団長としてアナトリ・ロザノフという男が12日に来日していたが、ラストヴォロフは25日にロザノフと羽田を発ち、ソ連へ戻る予定となっていた。

 彼は24日に行方がわからなくなったが、彼の当日の行動は次の通りである。
 24日午前11時半、飯倉1丁目の都電停留所前から米軍バスに乗り、虎ノ門で降りた。その後、通りかかったタクシーを拾い、流暢な日本語で「ギンザ」と行き先を告げた。
 銀座裏の喫茶店「セ・シ・ボン」に現れたラストヴォロフは米人と何やら密談。午後2時を過ぎると、代表部に戻り、妻子のためにみやげ物を分けたり、身の回りの品を整理したりした。
 午後4時頃になると、彼はボストンバッグをかあけて、代表部を出た。彼が訪れたのは行きつけの”東京温泉”である。肩をもんだ従業員の女性は、これまで3度彼の担当をしたことがあり、写真を見せられて「本人です」と証言している。この女性は彼がいかにもアメリカ人のタイプであったのでソ連人だとはまったく思っていなかった。
 午後7時頃にはビフテキ屋「スエヒロ」で夕食。その後、”約束の場所”で昼間会った米人と落ち合った。その後から彼の姿はぷっつりと途切れた。

 当時、米ソ冷戦下で日本とソ連に国交はなかったため、事件捜査は極秘裏に行なわれた。新聞は28日からこのソ連書記官失踪を大々的に報じている。

 2月1日、ソ連代表部は「ラストヴォロフ氏は在日アメリカ諜報部に拉致、抑留されている」という声明を発表した。


【スパイ亡命】
 
 失踪から半年が過ぎ、ラストヴォロフ失踪事件は忘れかけられていたが、その発表は突如行なわれた。
 8月14日、東京とワシントンで共同発表があり、ラストヴォロフが米国に政治亡命したこと、彼が日本国内で日本人エージェントを使って情報を集めていたことが発表された。ワシントンではラストヴォロフ本人が記者会見したとされるが、写真撮影が厳禁され、ソ連系の通信社は除外されていたので、今でも本人であったかは不明である。
 さらにラストヴォロフは、実はソ連内務省所属の陸軍中佐であったことも明らかとされた。

 姿をくらませた1月24日、ラストヴォロフは自発的に在日米国当局に保護と援助を求め、これに応じた米国が26日に米軍機に乗せて連れ出したのだという。
 日本政府がどの段階で、ラストヴォロフが亡命したのを知ったのかはわからないが、アリソン米大使が、岡崎外相との間には文書が交わされていた。この文書はラストヴォロフ本人の書いた要請文の写真コピーと英訳文が添えてあり、日付は1月27日となっていた。

(1)ラストヴォロフは1月24日夕方、アメリカ政府の歩後と援助を要請して来た。

(2)この時、ラストヴォロフは事件が外部に漏れないこと、ソ連内務省に知られないように依頼した。また彼が自由世界への亡命ではなく、単に失踪したものとするため、あらゆる努力がなされた。

(3)出国の手続きについて、規則に合わない点があったとすれば、それはつとに本人の強い希望にそう必要が生じたと了解してもらいたい。
 

 ユーリー・A・ラストヴォロフは1921年(大正10年)、モスクワの南方400kmにあるクルスク州で、赤軍に奉職していた父と女医の母との間に生まれた。父方の祖父は「宮農」であったという理由で、土地を没収され、30年の大飢饉の時に餓死した。共産党員であった父も、36年の粛清の嵐のなか党員の資格を剥奪されている。このことは彼にとってソヴィエト政権に対する疑惑の芽生えであったかもしれない。
 30年に中学校を卒業したラストヴォロフはモスクワ測地研究所に入り、2ヶ月して徴集された。40年に赤軍GRU(軍事諜報機関)の管理する極東語学研究所の選ばれた後、第二次大戦以降は諜報任務に従事し、50年から日本勤務となった。非常に社交家で、米人や英人とよく交際していたという。
 
 ラストヴォロフはモスクワに愛妻と8歳の娘を残してきている。そんな彼がなぜ亡命しなくてはならなかったか。それはベリヤの失脚と大きく関係している。
 彼は内務省に所属していたが、ここはベリヤの直系であった。そのため代表部首席パヴリチェフ、次席ルノフとは仲が良くなかった。ベリヤが失脚した後、代表部内においてラストヴォロフは非常に不利な状況となっていた。そんななか、前述したスピードスケート大会の選手団役員ロザノフを通じて、帰国が命令されたのである。

ラストヴォロフの手記 
「今年1月18日、ルノフが私を呼びつけた。パヴリチェフか私か、そのどちらかが東京を離れるのではなくては、代表部の中はうまくいかない。そのことをパヴリチェフが本国へ上申したというのだ。しかし、私ははねつけた。ソ連へ帰るまいと、この時不動の決意をした」
 

 警視庁公安三課一係が、ラストヴォロフについて調べだしたのは51年8月頃だった。  ある部長刑事が日比谷の国際会館前を歩いていた時、一人の米空軍兵がおどおどしながら、スーツ姿の白人に挨拶していた。この白人はアメリカ人ではないと直感した刑事は、2人を尾行した。米兵の方は絶えず何かに脅えているようでもあった。
 やがて2人は別れ、白人の方はタクシーを拾い、刑事は米兵の方を追った。まもなく米兵の傍に1人女が走り寄ってきた。男女は親しい間柄に見えた。
 この刑事が上司にこのことを報告したところ、白人はソ連代表部付近をよく散歩している人物らしいことがわかった。


【日本人スパイ検挙】

 日米で共同発表があった日、警視庁はこの年の3月に退官していた元外務省欧米局第5課事務官・日暮信則(44歳)、国際協力局第一課事務官・庄司宏(当時41歳)の2人を国家公務員法違反一〇〇条(秘密を守る義務)違反容疑で逮捕した。

 2人は佐藤尚武大使時代、外務官僚としてモスクワに在勤した経験があり、「新日本会」と称する親ソ的団体の一員であったという噂もあった。終戦時、日暮は佐藤大使の秘書だった。日暮と庄司は業務上知りえた在日米軍情報を1回5〜10万円ほどでラストヴォロフに流していた。彼等は外務省勤めといっても通訳あがりだから出世は望めず、思想的というより、報酬のために情報提供に関わったという見方が強い。いずれもスパイ活動を開始した時期に、家を建てたり増改築していた。

 警視庁は2月の時点で両事務官の秘密漏洩をキャッチしていたが、公安三課長が渡米してラストヴォロフの自供を得て逮捕するに至った。多くの国ではスパイは死刑か無期かだが、日本では国家公務員法違反か、外国為替管理法違反で、いずれも1年以内の軽い罪だった。

 8月19日、同じ容疑で経済局経済二課事務官・高毛礼茂(当時51歳)が検挙されたが、連行される直前、「着替えたいから」と言って首吊り自殺を図ったが未遂。彼は元欧亜石油の写真で、49年にソ連通商代表部シュチュルバコフと知り合い、「エコノミスト」という暗号名で、業務上知り得た日本政府の秘密資料をソ連情報機関に流し、報酬として235万円を受け取った。

 ラストヴォロフの関係者には他にも元関東軍の小佐・志位正治(当時35歳)ら20数名の名が挙げられ、調べが進められていた。
 志位はソ連に抑留中に、ソ連内務省から「ソ連のために働け」と強制され帰国。主に日本の再軍備をソ連に報告していた。月1回、計30回にわたって約50万円の現金を受け取っていた。志位は自首したが、CICとの二重スパイであったことも告白した。13日に最後の調べが終って帰宅を許された時、志位は「これで第一巻の終りだ!」とつぶやいたという。

 元代表部が中心となるソ連スパイ組織は、そうした抑留されスパイ教育を受けた旧軍人のほか、ソ連報道関係者、日本共産党員などで構成されていた。メンバーは彼をはじめ16人はいたという。
 ラストヴォロフは麻布にあるテニスクラブの会員であったが、このクラブは在日米人の高級将校やその家族が多かった。また外務省以外の官庁にも彼と付き合いのある公務員がいたが、彼がソ連人とは気づかなかった人も多かった。

 ラストヴォロフはエージェントらに次のようなことを命じていたという。
・「指定場所以外で会っても声をかけてはならない」
・「連絡場所では車の前照灯を消しておくが、付近に人影があった場合は車に近寄っては行けない」
・「指定場所で危険を感じたら、煙草を捨てて合図しなさい」

 8月27日午後0時40分、東京地検25号室(4階)で取調べを受けていた日暮が、突然机に飛び乗り、検事の背後にある窓から飛び降りて自殺した。遺書などはなかった。
 日暮は茨城県出身で、東京外語大ロシア語科を中退、外務省の嘱託となり、40年に通訳生としてソ連のペテロパウロフスクに派遣された。モスクワ駐在大使館員として勤務した後、46年に帰国。以後も外務省で仕事を続けていた。庄司がスパイ行為を否認しているのに対し、日暮は素直に取り調べに応じ自供していた。日暮が生きていたら、もっと上層部まで事件が波及したであろうと言われる。


【裁判】

 1956年8月25日、東京地裁・清水裁判長は、高毛に懲役1年、罰金150万円を言い渡す。
 
 1960年11月、高毛の刑が確定。

 1961年5月13日、庄司に無罪。証拠として提出されたラストヴォロフ調書、日暮調書が証明力が充分でないとされた。

 1965年3月、無罪が確定。


【トピックス 『ラストヴォロフの暗躍、日共のトラック部隊』】

 1950年のレッドパージによって、党員が根こそぎ追放された日本共産党は、組織と財政に大打撃を受けた。占領軍総司令部の指示により、中央委員24人が公職から追放された日共は、二重組織となり、このため徳田らは地下に潜り、地下組織の責任者となった。そして資金収奪を目的とする「トラック部隊」が結成された。
 この組織は元文化部長・大村英之助を隊長として、中小企業相手に資金を収奪し、党を維持しようとしたものである。詐欺、横領、特別背任、外為法違反など企業を乗っ取り、計画倒産などをおこなった。

 トラック部隊が発覚したのは55年8月11日から神宮外苑の日本青年館で開かれた日共中央委員会と、第六回全国協議会の報告会のことである。それまで潜行していた野坂、紺野、志田が姿を現し、3人は逮捕された。

 トラック部隊は51年以降、数億円の収奪を行なった。警視庁公安部はこうした事件のうち、309件、25人を検挙。被害総額3億9千万円となった。また、この事件の取り調べから、ラストヴォロフが大村の手を通じて、日共へ資金援助していたことも発覚した。


リンク


≪参考文献≫

朝日ソノラマ 「朝日新聞記者の証言3 公安記者の戦後史」 鈴木卓郎
ぎょうせい 「裁判からみた百大事件の結末」 真島一男
警察警備局 「回想 戦後主要左翼事件」
原生林 「隠語で綴る事件簿 犯罪手帳」 高田重夫
幻冬舎 「自殺者 現代日本の118人」 若一光司
第一法規出版 「戦後政治裁判史録2」 田中二郎 佐藤功、野村二郎・編
東京法経学院出版 「明治・大正・昭和・平成 事件犯罪大事典」 事件・犯罪研究会・編
図書出版社 「事件百年史」
日刊労働通信社 「スパイの実態 スパイ事件簿」 警察庁警備局編
日本週報社 「日本週報 外務省高官もスパイ ラストボロフ事件に重大秘密」
扶桑社 「戦後史開封 社会・事件編」 産経新聞「戦後史開封」取材班・編
文藝春秋 「日本の黒い霧 上」 松本清張
毎日新聞社 「事件記者の110番講座」 三木賢治
「新聞・雑誌にみる 戦後スパイ事件のすべて」 スパイ防止法制定促進国民会議


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