山谷争議団事件





【事件概要】

 1983年頃から、東京・山谷地区で、日雇い労働者を斡旋して金をピンハネする暴力団組員と、それに反対する新左翼系の「山谷争議団」の衝突が続いた。 
 84年12月には山谷でドキュメンタリー映画を撮っていた映画監督が、86年1月には争議団幹部が暴力団の凶刃、凶弾に倒れた。


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【山谷】

 「山谷」という地名は今はもうない。台東区東北部にかつてあった地区で、現在は清川・日本堤・東浅草とその名を変えている。
 山谷には多くの簡易宿泊所があり、近年では安宿を求める外国人旅行者に人気の街でもある。同様に山谷は日雇い労働者などが生活する街として知られる。そこには仕事を求める労働者に斡旋する手配師もいる。
 工事の場合、まず大手ゼネコン・国土交通省・各自治体などが発注し、そこに元請→下請→孫請と、中堅・中小の土建業者が続いていくのだが、その会社の従業員の他にどうしても日雇い労働者が必要になってくる。それを職安などを通さずに斡旋するのが手配師である。手配師は中小土建業者と契約し、そこから報酬をもらう他、日雇い労働者の給与のピンハネすらする。こうして日雇い労働力の売買が行なわれている所を「寄せ場」と呼ぶ。

 81年10月、こうした「搾取」に対抗すべく、新左翼系の「山谷争議団(全国日雇労働者組合協議会山谷支部山谷争議団)」が、「山谷日雇労働組合」や「6・9礒江洋一闘争の会」を母体に結成された。争議団は「暴力団手配師の追放」「労働者の待遇改善」「労働争議解決」を主に訴えていた。

※磯江洋一・・・・鳥取大学中退。79年、山谷派出所(マンモス交番)で立ち番をしていた巡査部長を殺害し、無期懲役の判決を受けた。→「山谷交番・警官刺殺事件」

 この地に賭博の利権を持つ国粋会金町一家の傘下組織、暴力団・西戸組皇誠会は83年頃から進出してきて、手配師として労働者の斡旋を行なっていた。彼らは労働者1人に対し、2000〜3000円ほどをピンハネし、月に数千万円の利益を上げていた。「手配師の追放」を目指していた争議団にとって、皇誠会は闘うべき敵だった。


 双方のにらみ合いが続いていた1983年11月3日、争議団と西戸組がついに衝突。ナチス棒と催涙スプレーを持った組員が山谷・泪橋に現れ、乱闘となり、7名の逮捕者を出した。

 その翌日、寄せ場にあるビラがばらまかれた。


労働者諸君に告ぐ!

 我々も山谷地区に事務所を開設し、一年を迎え様として居りますが、この様に争議団に恥辱を受けては、我々西戸興業としてもがまんの限界である。これを機に我々は弱い労働者の後でカスリを取っている争議団(1)宗村義隆(2)梅本功光(3)森下政行他七名の絶滅をする。

 弱者の労働者諸君を我々はケガさせまいとして又警察の忠告を守ったのだ!争議団にヤジウマの気持で集まっている諸君達!ヤジウマ集団で1つしか無い尊い生命を失っては、いけない!
 昔の渡世人は、日本刀で殺したが、現代の渡世人はその様な形を取らない!死者が争議団の宗村、梅本、森下、石井であれば良いが、我々は労働者諸君を巻き込みたく無い!ひやかしでこの様の文面を廻すのではない!



 その後、城北福祉センターに集合していた争議団メンバーの32名が逮捕された。他にも争議団メンバーの1人は西戸組の事務所に連れこまれ、17時間にわたるリンチを受けている。
 
 以後も双方の衝突は続いたが、逮捕されるのはいずれも争議団メンバーで、争議団は警察の暴力団びいきを主張、組員を「天皇主義右翼」「国家権力の先兵」と規定するようになった。


【映画監督暗殺】

 84年4月、西戸組は事務所を撤収。
 しかし秋になって、手配師に対する西戸組の互助会(入会金5万円 会費3万円)加入要求から、抗争は再燃した。

 10月4日、仕事の斡旋をめぐり、泪橋付近で鉄パイプや木刀での乱闘が起こり、組長(当時34歳)ら組員5人と、争議団メンバー1人が逮捕された。

 10月5日、日本堤の路上で、組員が争議団の宣伝車を報復襲撃。4人が逮捕された。

 10月17日、乱闘で争議団2人が逮捕。


 そしてこの衝突は初めて死者を出す。

 84年12月22日午前7時ごろ、台東区日本堤二丁目で、パンを買っていた映画監督・佐藤満夫さん(37歳)が男に背後から包丁で刺され、9時前に病院で死亡した。
 まもなく、同区清川二丁目派出所前を血のついた包丁を持って歩いていた男・笠井栄一(当時41歳)が逮捕される。笠井は10月4日に暴力行為の現行犯で逮捕されており、釈放後、「幹部をテロってやる」と言っていた。

 佐藤さんは新潟県生まれ。高校3年の時に上京し、やがて全共闘運動と出会い、69年東大・安田講堂事件において、ML同盟の学生と共に火炎放射器で抵抗し、逮捕された。その後、映画評論家・斎藤龍鳳氏の影響を受けて映画の世界に入りた。83年には東アジア反日武装戦線の支援集会での人との出会いから山谷支援の活動を始めている。その場所で日雇いで金を貯めながら、ドキュメンタリー映画の撮影を始めた。刺殺されたのは撮影からわずか11日目のことだった。

 同日昼前、争議団のメンバーが浅草署の玄関口に押しかけ、「警察がやらせた」と騒ぎ、このうち1人が署員に板を投げつけ、現行犯逮捕された。
 さらに夕方、争議団は山谷地区内で追悼集会を呼びかけ、群衆の一部が警戒にあたっていた機動隊と衝突。500人が暴れ、車に放火するなどして、11人が公務執行妨害で逮捕された。

 24日朝にも争議団と暴力団のトラブルがあり、双方が角材を持って乱闘となった。争議団メンバー4人、組員1人が逮捕されている。


【争議団幹部暗殺】

 86年1月13日朝、争議団幹部の山岡強一さん(45歳)が新宿区大久保の路上で、駐車中の乗用車から飛び出してきた男に、首や胸など4ヶ所を撃たれ死亡した。

 山岡さんは北海道雨竜郡沼田町の炭坑労働者の家庭に生まれ、68年から山谷で土木作業員をしながら生活を始めた。その2年後、社会党系の「東京日雇労働組合(東日労)」に入った。81年には争議団に入り、リーダー格として活動、82年6月に「全国日雇労働組合協議会(日雇全協)」の結成に尽力している。83年11月4日に逮捕されていたが、亡くなった佐藤監督の跡を引き継ぎ、ほとんど素人であったが「山谷(やま)―――やられたら、やりかえせ」を撮影し、85年12月に完成させていた。

 同夜、争議団活動家60人は追悼集会後、山谷地区派出所(通称・マンモス交番)に集まり、「警察は暴力団の味方か」と糾弾、機動隊との衝突に発展し、6名が公務執行妨害で逮捕された。デモは翌日もあり、2人が逮捕されている。

 さらに16日、山岡さんの「人民葬」が玉姫公園で行なわれた後、30名が逮捕された。

 21日、山岡さんを殺害した男が逮捕される。やはり日本国粋会金町一家金竜組の若頭補佐・保科勉(当時28歳)だった。
 保科は茨城県下館市で生まれ、中学を卒業すると、都内の会社に就職。以後、職を転々とし、83年頃組員となった。
 1月2日に争議団による組襲撃があり、割れた窓ガラスを見て、争議団の幹部を狙おうと思ったという。


リンク

「山谷」製作上映委員会のホームページ
http://homepage3.nifty.com/joeii/jyoeii/

山谷界隈 あれこれ通信
http://www.asahi-net.or.jp/~ea8t-mcd/


≪参考文献≫

講談社 「蜂起には至らず 新左翼死人列伝」 小嵐九八郎 
講談社 「死刑弁護人 生きるという権利」 安田好弘
社会評論社 「右翼テロ」 社会評論社編集部
宝島社 「別冊宝島 昭和・平成 日本テロ事件史」
東京法経学院出版 「明治・大正・昭和・平成 事件犯罪大事典」 事件・犯罪研究会・編 
双葉社 「増刊週刊大衆7月11日号 現代犯罪百科」



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