日産サニー事件




【事件概要】

 1967年10月27日深夜、福島県いわき市の「日産サニーいわき営業所」で、宿直員の男性(29歳)がメッタ刺しにされて殺害されるという事件が起こった。半年後、窃盗容疑で逮捕されていた電電公社職員・斎藤嘉照(当時29歳)が涙ながらに犯行を自供。その後、否認を始めたが無期懲役が確定した。1988年に出所した斎藤は再審を請求し、冤罪を訴える。


斎藤嘉照


【宿直員殺し】

 1967年10月27日午前0時頃、福島県いわき市内郷御厩町天上田、「日産サニーいわき営業所」に何者かが侵入、宿直員・星雅俊さん(29歳)が20数ヶ所刺されて殺害され、金庫から封筒入りの現金2100円が奪われるという事件が起きた。

 現場は格闘の跡があり、血がつき折れた果物ナイフが見つかった。これは刃渡り10.6cmのステンレス製のもので、先端部分は四角の、皮をむくぐらいしかできない刃物である。

 また市内では67年7月から11月にかけて、計15件の事務所荒らしが相次いで起こっていた。日産サニー事件の犯人像は「土地カンがあり、若い男、ノビの常習犯」と見られたが、捜査は難航していた。


 1968年4月27日、市内の鍬倉神社(通称県社)境内で、電電公社職員・斎藤嘉照(当時29歳)が、神社の縁の下にあった大工道具を盗んだ容疑で別件逮捕された。

 斎藤に前科はなく、この窃盗事件は本来なら始末書だったり、48時間拘留したあと略式起訴で終わる事件だった。だが思わぬ展開を見せる。

「日産サニーに夜12時ごろ1人で入り、宿直員に見つかってしまい、夢中で近くにあった鉄棒でめちゃくちゃに叩いてしまった。相手の人は死んだと思う」
 
 「日産サニー事件については何も取調べをしなかった」(一審公判での取調官証言)というが、5月7日、斎藤は宿直員殺しを号泣ながら自供。翌日、強盗殺人で起訴された。


【目覚め】

 犯行を自供していた斎藤は、福島地裁いわき支部第3回公判の、なぜか午後から否認(午前中は認めていた)。これによると、午前の法廷が終わり、拘置所に戻った時、転びそうになって壁に頭を打った。そのことで、「目が覚めたような感じになった」と後に語っている。

 
 1969年4月、福島地裁いわき支部、無期懲役を言い渡す。

 地裁判決の事実認定は以下のようなものだった。
「被告人は金品を奪う目的で、ドライバーを携え、日産サニーいわき支店の金網を乗り越え、風呂場の窓ガラスをドライバーで割り侵入。西側工具室にあった鉄棒を持って、表川事務室やサービス課事務所を物色中、宿直員に気づかれた。宿直員は果物ナイフで応戦し、格闘になったが、被告人は鉄棒で宿直員を殴りつけたうえ、宿直員の果物ナイフを奪って刺し重傷を負わせた。その後、宿直員を工場内にあったロープなどで縛ったうえ、布で猿ぐつわをした。しばらくそのまま物色していたが、宿直員のうめき声が聞こえてきたため、頚部などを切りつけ殺害した。事務室の手提げ金庫から現金を盗り、宿直室にあったズボンを奪って逃走した」


 70年4月16日、仙台高裁、控訴棄却。

 71年4月19日、最高裁上告棄却。刑確定。


【見えかけた再審…】

 この事件は冤罪だった可能性の高い事件とされる。その根拠は次のようなものだ。

(1)左頚動脈の致命傷は凶器とされる果物ナイフではできない。実際に使われたのはアイクチのようなものである。

(2)現場の足跡は26〜27cmで、斎藤は24.5cmの靴を履いていた。

(3)自白によれば「返り血が大量に付着した」というが、犯行時着ていたアノラックに血液反応がない。

(4)凶器のドライバーにも血液反応がない。

(5)犯行時身につけていたとされる手袋、ズボン、靴などは川やゴミ捨て場に捨てたことになっているが、それらは発見されていない。

 以上のことから判ることは、斎藤と殺人現場を結びつける物証は何もないことである。
 こうした事実がなぜ後になって出てきたかというと、一審の弁護人は平事件などを担当した元検事だったのだが、この弁護人は当初から有罪という先入観を持ち、調書の閲覧や分析といった作業をしなかったから、とされる。

 また家族の証言ながらアリバイもある。
 斎藤の母親によると、事件当夜、斎藤は弟と一緒に運転講習会からバイクで帰ってきて、そのあと家からは出なかった。(公判では、帰宅した後、「煙草を買いに行く」と出かけ、そのまま犯行に及んだとされる)。翌午前0時半頃には泣き出した子どもをあやしている。

 斎藤はサービス精神が旺盛なのか、嘘をついてでも相手を喜ばせるというような性格だったとかつての同僚も証言している。時にはすぐにわかるような嘘もつく。またわからないことがあると、頭が混乱することが多かったという。電電公社でも電報配達から内勤に移って、タイプライターなどを扱わなければならなくなった時、混乱してうまく打てなかったという。「こうした性格だから、取調官に迎合するかたちで自供してしまったのだ」とする主張もある。


 斎藤が宮城刑務所で服役していた80年夏、父親が頼んだ折原俊克弁護士は斎藤と初めて面会した。この時、折原弁護士は冤罪事件であることを確信し、再審に向けて行動を開始、翌年には「日産サニー事件真実を明らかにする会」が発足した。

 斎藤は服役中仮釈放が遅れるため再審請求をしなかった。そして仮釈放の日も近づいて持ち帰るものなどを整理していた頃、新聞に再審請求の予測記事が載ったため延期となった。

 1988年5月1日、斎藤、仮出所。すぐに冤罪を訴え、7月18日に再審請求書を提出した。

 1992年3月23日、福島地裁いわき支部は、再審開始の決定を出す。仙台高検は即時抗告。

 しかし95年5月10日、仙台高裁、再審請求を棄却。一度見えかけた光は、また消えてしまった。81歳の母は「神も仏もねいわ」と呟いた。

 1999年3月10日、最高裁も抗告棄却。


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≪参考文献≫

イクォリティ 「現代 再審・えん罪小史」 竹沢哲夫 山田善二郎・編著
社会思想社 「20世紀にっぽん殺人事典」 福田洋 
すずさわ書店 「無実は無実に 再審事件のすべて」 朝日新聞社編
宝島社 「別冊宝島 囚人狂物語 殺人犯から銀行員まで――みんなのムショ体験」
東京法経学院出版 「明治・大正・昭和・平成 事件犯罪大事典」 事件・犯罪研究会・編
日本評論社 「法学セミナー増刊 日本の冤罪 シリーズ[新・権利のための闘争〕」 


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