新宿駅西口・バス放火事件




【事件概要】

 1980年8月19日午後9時過ぎ、新宿駅西口広場のバスターミナルに停車中の京王帝都バス(新宿発・中野行)に、ひとりの中年男性が放火した。バスに乗っていた6人が死亡し、重軽傷者数は22人にもなった。犯人・丸山博文(当時38歳)は住所不定の建設作業員だった。


丸山博文


【丸山について】

 1942年、丸山は北九州市で5人兄弟の末っ子として生まれた。父親は定職を持たないアルコール依存症だったので、働き者の母親が一家の生計を必死に支えていた。その母親も1945年9月17日、枕崎台風により、倒壊家屋の下敷きとなり死亡した。父親は再婚したがすぐ別れ、丸山は実質男手ひとつで育てられてた。

※枕崎台風・・・・最低海面気圧916hpの戦後最大級の台風。宮崎県の細島で最大瞬間風速75.5m/sを記録した。全国的に被害をもたらし、死者2473名、負傷者2453名。

 丸山は親の教育に対する無理解もあって、小学校5年ごろからほとんど登校していない。それでもなんとか義務教育を修了後、とび職や農業の手伝いなどをしていたが、父親が脳溢血で死んだのを機に全国を建設作業員として転々とする。

 1972年、丸山は山口県岩国市で出会った女性と結婚して長男をもうけたが、酒好きの妻は男にだらしがなく、翌年離婚。妻は精神疾患と診断され、病院に入院した。施設に預けた子供には毎月仕送りしていた。

 73年10月3日、妻と離婚した年に丸山はアルコール酩酊中に、アパートに住む若い女性の部屋に侵入して警察に逮捕されたことがあった。この時は精神病院に医療保護入院をして「精神分裂病」の診断がくだされ起訴をまぬがれている。

 その後、仕事を求めて大阪、静岡などを転々とした。上京後も、建設作業員として作業員宿舎や簡易宿泊所に泊まりながら働き、事件の1週間ほど前までは、渋谷区内の飯場で20日間ほど働き、7万円をもらっていた。施設に預けたは子供に毎月仕送りしていた。それまで酒は飲まなかったが、子供と離れ離れになった寂しさから酒の量も増えていった。


【怒り】

 1980年3月頃から、丸山は宿泊費節約のため新宿駅西口で寝泊りするようになった。

 8月15日頃、丸山は新宿4丁目のガソリンスタンドでポリ容器ごとガソリン10Lを購入。

 8月19日、丸山は多摩川競艇に行くが、なけなしの1万円をすってしまう。その後、新宿駅西口に戻り、地下通路に通じる階段に座りこんでカップ酒をあおっていた。酔いがまわってきたところで、頭上から誰かに「ここにいちゃだめだぞ」、「邪魔だな、あっちへ行け!」と罵声を浴びせられ、本来小心で真面目な丸山だったが、カッとなった。罵声を浴びせた相手が誰かはわからなかったが、この一言で社会に対するこれまでの鬱憤が爆発した。

「俺には寝ぐらもなければ、かぞくもいない。どうして俺だけがこんなワリをくうんだ。これまで、なにひとつ悪いことはせず、毎日、真面目に働いてきたのに」

 丸山は復讐の相手に、おそらく罵声をあびせたであろう会社帰りの幸せな家庭を持つ”普通の人々”に狙いをつけ、通勤帰りの客など30人が乗りこむバスを選んだ。
 足元に散らばる新聞紙を拾い集め、4リットルのガソリンを入れたバケツを持ってバス停にむかった(バケツは西口柳通りの飲食店からこの夜盗んでいた)。新宿発・中野行のバス(京王帝都バス)の後部乗降口から、火のついた新聞紙とガソリンを放りこむと、バスは瞬く間に炎上した。
 この時、被害者の一人の女性(21歳)が全身に火傷を負って路上を転げまわった。周りには野次馬が何百人もいたが、だれも彼女を助けようとはしなかった。それどころか、「熱い、熱い」と泣き叫ぶ女性に対し、4人くらいが「まだ生きてますか?」と能天気に質問したりしたという。

 丸山は放火後逃げ、地下道入り口付近でうずくまっていたが、通行人らによって取り押さえられ、まもなく駆けつけた警察官によって逮捕された。その時、丸山の所持していたものは紙袋に入れられた薄汚れた毛布と現金25617円だけだった。預金残高には25万ほどあったという。

 結局、この火災で乗客6人が死亡し、22人が重軽傷を負った。後部座席で座った姿勢のまま焼死した3人のうち2人は、ヤクルト‐巨人戦のナイター観戦の帰りの斉藤安夫さん(40歳)と長男・秀一君(8歳)と判明。斉藤さんの妻はテレビのニュースで事件を知り、「ナイターから夫と子供が帰らない」と新宿署に駆けつけた。そこで斎藤さんの名刺と秀一君の半袖シャツの青い布切れを見せられて、「主人と子供のものです」と確認したと言う。秀一君は大の巨人ファンで、何度もせがんでやっと連れて行ってもらった野球観戦の帰りの惨事だった。
 後部座席にいたもう一人は資生堂美容部に勤める今井操さん(21歳)と判明。今井さんはいつもの習慣で後部座席に座っていたのが命取りとなった。


【逮捕後】

 供述
「バスに火をつけてやろうと思って、ガソリンスタンドにガソリンを買いに行きました」

「自分は家庭が複雑で、世間の人が幸福に見えた。人がアッと驚くことをしてやろうと火をつけた」

「酒を飲むと、他人が自分を変な目で見ているような感じが一層強くなり、これが頭にきて、だれかれとなく人通りの中で怒鳴り散らした」

 丸山は当初「バスの運転手になめられた」と怒鳴っていたが、丸山とバスの運転手の間にトラブルはなかった。しかし、事件の数日前にバス停前のベンチで仰向けに寝ていた丸山らしい男が、手足をばたつかせたり、バスの排気ガスを浴びると「このヤロー、燃やしちゃうぞ」、「しょうっちゃうぞ(背負うの意味?)」などと言っているのが目撃されている。
 

 この事件の被害者の1人である杉原美津子さんは全身88%もの火傷を負ったが奇跡的に回復した。杉原さんは事件後「生きてみたい、もう一度」(文芸春秋)という手記を発表している。また、服役中の丸山と面会しており、裁判では「寛大な刑」を求めて上申している。この杉原さんに対して、丸山は次のような手紙を送っている。

『おてがみありがとうございました。55年8月19日はほんとにすまないことおしました いまじぶんはこかいしています バスのおきゃくさんがのっているとはおもえなかった めがはっきりみえなくてほんとにすまないことをしました 大ぜいがなくなりおわびのしよがございません ほんとにすまない 丸山博文』 (原文ママ)


【裁判】
 
 公判では丸山は本籍などはしっかり言えるのだが、質問されると「わからない」「酒に酔っていて、酔って頭がかっかして、はっきりわからない」などと連発しており、このため上智大学教授・福島章氏が精神鑑定を行ない、「心神耗弱」との結果が出た。

 1986年 東京高裁、神田忠治裁判長は精神鑑定の結果を全面的に採用し、丸山に無期懲役を言い渡す。この時、丸山は無罪と勘違いをして喜び、傍聴席に向かって「ごめんなさい」と土下座した。

 1997年10月7日、千葉刑務所で服役をしていた丸山は「眼鏡を忘れた」と作業場に戻り、配管にヴィニール紐を結び首吊り自殺した。享年55。精神鑑定や杉原さんの上申によって死刑を免れた丸山は、自らに”死刑”を下したのだろうか。


リンク


≪参考文献≫

朝日新聞 (1980年8月20日付 他)
イカロス出版 「放火犯が笑ってる」 木下慎次
王国社 「東京の事件 都・市・型・犯・罪・の・ゆ・く・え」 朝倉喬司
学習研究社 「歴史群像シリーズ81 戦後事件史 あの時何が起きたのか」
河出書房新社 「現代殺人事件史」 福田洋・著 石川保昌・編
講談社 「戦後欲望史 転換の七、八〇年代篇」 赤塚行雄
講談社 「犯罪の心理学 なぜ、こんな事件が起こるのか」 中村希明 
作品社 「犯罪の昭和史 3」 作品社・編
ザ・マサダ 「囚人狂時代 My Sweet-home Prison」 見沢知廉
社会思想社 「20世紀にっぽん殺人事典」 福田洋 
新人物往来社 「別冊歴史読本 殺人百科データファイル」
新人物往来社 「別冊歴史読本 新・殺人百科データファイル」
新潮社 「新潮45 07年2月号」
新潮社 「そして殺人者は世に放たれる」 日垣隆
新潮社 「事件のカンヅメ」 村野薫
新潮社 「日本の大量殺人総覧」 村野薫
水声社 「犯罪地獄変」 犯罪地獄変編集部編
大洋図書 「日本震撼事件 戦後殺人ファイル100」 日高恒太朗
宝島社 「別冊宝島 殺人百貨店 日本人はどういう理由で人を殺すのか?」
宝島社 「別冊宝島 猟奇事件ファイル 【悪魔と呼ばれた人間たちの犯罪履歴書】」 
伝統と現代社 「伝統と現代 83冬 総特集・死刑」 
東京法経学院出版 「事件犯罪大事典」 事件犯罪研究会・編
西日本新聞社 「犯罪被害者の人権を考える」 西日本新聞社『犯罪被害者』取材班
文藝春秋 「不惑の雑考」 岸田秀 
文藝春秋 「生きてみたい、もう一度」 杉原美津子
平凡社 「『犯罪』の同時代史」 松本健一・高崎通浩
ミリオン出版  「殺人現場を歩く」  蜂巣敦・著 山本真人・写真



事件録】 【Top