日本赤軍事件





【事件概要】

 1972年5月30日午後10時30分、イスラエル・テルアビブのロッド空港税関カウンター前で、日本人の男3人が自動小銃を乱射、26人が死亡、73人が重軽傷を負った。彼らの仲間はその後も「日本赤軍」と名乗ってハイジャック、爆破、立てこもり事件など数々の事件を起こす。
 00年、国内で最高指導者である重信房子(当時58歳)が逮捕された。


重信房子
奥平剛士
岡本公三



【赤軍派残党の動向と重信房子】

 東大・安田講堂落城から学園紛争は下火になり、収束していった…とされる。多くの学生が運動を離れていくなかで、不完全燃焼に終わったり、葛藤が解消されないままである、もやもやした気持ちを抱えている者達がいた。彼らはあせりを強くし、もっと別の方法で革命を考えるようになった。自ずとそれは暴力を伴う、強行的なものになっていく。
 赤軍派もそうしたなかで誕生した党派の1つで、ブントから独立した関西の学生を中心とした武闘派グループだった。結成直後、武器調達のために大阪と東京の警察署や派出所を襲撃する事件を起していたが(大阪戦争、東京戦争)、いずれも失敗に終わっていた。

 大菩薩峠事件の後、赤軍派中央政治局員7人のうち4人が逮捕され、議長・塩見孝也、軍事委員長・田宮高麿、高原浩之だけになっていた。しかも塩見と田宮にも逮捕状が出ていたため、アジトを転々としながら指揮をとった。
 そして新たな政治局員を選ぶ必要があり、塩見は三里塚闘争で黙々と拠点作りをしていた森恒夫の名を挙げた。森は敵前逃亡して行方をくらませたことがあったため、田宮は「あんな度胸がない奴はだめだ」と反対したが、「森には理論がある」ということで一兵卒からやり直させることにした。森はビラ配りなど、下積みをして赤軍派に復帰。このことが後の連合赤軍リンチ事件を導くことになった。

 1969年11月12日、塩見は部下の1人をアメリカ、キューバに旅立たせた(この海外派遣が公表されたのは翌70年1月)。この男は赤軍国際部長で、京大全共闘議長であった小俣昌道である。「世界革命の先進地に、赤軍の拠点を作る」という狙いがあった。
 この頃、世界ではベトナム戦争の泥沼化にともない、ゲリラの活動が活発であった。アメリカでは11月14日にアーリントン墓地を出発した反戦デモ隊が十数万人の大部隊となって反戦を訴え、極左組織「ウェザーマン」が各地で爆弾闘争を展開。ブラックパンサーは白人社会での差別全廃をかかげ全員に武装体制をよびかけた。アラブではPFLP(パレスチナ解放人民戦線)が各地で政府軍と衝突。フランス・ソルボンヌ大学に翻った一本の赤旗がドゴール体制を追い詰める運動に発展した。
 アメリカに渡った小俣はウェザーマン派幹部と会ったり、ブラックパンサー党の募金興行に出席したりしていた。その後、キューバに渡ってカストロと会おうとしたが、門前払いをくらい3月末に帰国した。小俣の派遣もまた、失敗という結果に終わったのである。

 塩見はもともと「世界同時革命論」を唱えていたが、多くの同志が捕らえられたこの頃にはますますその必要性を感じるようになった。小俣の後にも、サンフランシスコ、キューバ、メキシコ、北朝鮮に要員を送り出す計画を立てており、このうち北朝鮮には、田宮をはじめとする「よど号」をハイジャックしたメンバーが渡っている。

 1970年3月、よど号ハイジャックの成功を、国内に残った仲間は「革命への第一歩」として喜んだ。ただ幹部の多くが逮捕されていたので、この段階で赤軍創設期の中央政治局員7人のうち、残っていたのは京大生・高原浩之だけだった。
 高原は決行直前の田宮から「秋には帰ってくる。国内の運動はお前と川島(川島宏 東大生)が中心になってやってくれ」と言われていた。高原、川島、そして保釈で出所してきた同志社大卒の政治局員の3人が今後の方針を話し合った。
 3人は、新たに4人の政治局員を登用し、政治局の立て直しをはかる。選ばれたのは京大生・山田孝(後のリンチ事件で死亡)、滋賀大生・物江克男、「抜群のアジテーター」と呼ばれた理論家の関西大生・和田千声、そして敵前逃亡から下積みを経て復帰した森恒夫だった。
 7人の新しい政治局員は連日のように秘密アジトで話し合った。塩見議長のイスに高原がつくことになったが、政治局員には「とりあえず田宮の言う秋まで」の暫定的な執行部であるという自覚があったという。
 だが田宮は帰らなかった。塩見も逮捕されており、いない。そのなかで赤軍派は森が台頭していくようになる。リーダーは高原であるのだが、実質的には「森時代」に入っていた。

 塩見は革命成功の条件として、「70年の暮れまでには、カンボジアを発火点として必ず第三次世界大戦が起こる。その隙をつく」と話していた。
 妄想の極みとも言える内容だが、4月下旬、高原は「塩見議長を権力の手から奪還する。そのまま飛行機で中国へ起ころう。彼はそこで、赤軍世界党の党首として行動するだろう」と闘争目標を言い渡した。その手段として、要人を誘拐して人質にし、交換を要求するという作戦を練った。これには「P(ペガサス)作戦」という名前がつけられ、責任者には森がなった。
 5月、実行部隊5人が選ばれ、自由主義国5カ国の大使館襲撃が検討された。このうち1カ国の大使を6月15日に銃器で襲って人質にするという計画があり、川島や梅内恒夫が中心となって爆弾やピストルを準備した。公安当局はこの計画にはまったく気づいていなかった。
 6月6日、1人で横浜に出かけた高原は、婚約者である遠山美枝子(後のリンチ事件で死亡)と鶴見区内のアジトで過ごす。7日朝、通勤者にまぎれて国電の駅へ向かっているところを、神奈川県警公安一課の捜査員に、ハイジャックの共犯容疑で逮捕された。捜査員は遠山との密会場所があるという情報をつかんでから、1ヶ月以上アジトの張り込みを続けていた。高原の所持していたカバンの中には、計画のすべてが書き込まれたノート数冊が入っていた。ペガサス作戦が崩壊した瞬間だった。このことを電話で聞いた森は、
「けしからん。高原は不注意だ。リンチだ。高原にリンチをかけるぞ」
 と怒鳴った。
 これ以後も山田、物江、川島が逮捕された。残った下部の兵士に離反の動きがあり、山田や物江といったメンバーもしばらくは組織に戻ろうとせず、和田も夏に姿を消した。他にも森の方針に反発するメンバーも彼の元を離れていき、森は”孤独な独裁者”の色を深めていく。

 弱体化していく組織を危惧した森は、行方正時(後のリンチ事件で死亡)に兵士集めのオルグを開始させた。だが京都に潜入した行方は、全共闘運動の崩壊でデラシネ(根無し草)となって一人一党的に散らばっていた活動家を説き伏せることはできなかった。その頃そうした活動家を導いていたのは、京大経済学部助手の「滝田修」こと竹本信弘(当時32歳)だった。竹本は「自由と民主主義と愛と良識に訴えようとばかりする運動」として60年代の新左翼運動を、「旧新左翼」と決め付けた。
 竹本の理論は次のようなものだった。
「60年代の運動は大衆にこびる形となったため行動が制約され、権力打倒どころか、日本のファシズムや軍国主義の進行を許してしまった。正義の味方になるのではなく、暴力(軍事力)をもって”ならずもの”になることである」
 そして竹本はパルチザン(遊撃隊)の結成を提唱。そうした竹本の信者である3人は、1972年5月、テルアビブ空港乱射事件を起こすことになる。


 1971年2月28日、赤軍派中央委員・重信房子は羽田発の日航機でパレスチナへ発った。空港では仲間である遠山美枝子、知人の映画批評家、そして実姉が見送った。国際根拠地づくりのためと、森恒夫体制に嫌気がさしたからである。
 見送りの姉は「重大な使命をおびて危険なところに行くのに、どうして仲間の人が見送りに来ないんだろう」と不思議に思っていた。その理由は主要メンバーがほとんどいなかったのと、残存メンバーが彼女の渡航に反対していたからだった。反対の理由は、当時重信が毎月200万円ずつ赤軍派に上納していたからである。永田洋子など女性を軸にしてきた京浜安保共闘と違い、赤軍派は女性活動家を敬遠していた。それでも重信が幹部であり続けることができたのは、組織の資金源になっていたからだとも言える。実際、重信が日本を脱出した後、赤軍派は金融機関襲撃などの金集めに必死になった。

 重信房子は、この時すでに入籍していて、奥平房子という名前だった。夫は京大全共闘の活動家・奥平剛士で、彼女より一足先にパレスチナに渡っていた。
 重信はパレスチナ救援のためではなく、人民戦争を勝ち抜くために、そして武闘訓練をするために日本を出た。彼女が最初に送られたのはベイルート市内のPFLPの情報センターである。救援活動で現地にやって来る日本人と面接し、組織にとって安心できる人物か調べたり、各種の情報を集めるのが重信の仕事で、毎月100レバノン・ポンド(約1万円)を支給されていた。

 しばらくして重信は日本の遠山美枝子に「あかちゃんができたので、どうしても処置しなければならない。その費用を都合して欲しい」と手紙で訴えた。このことで遠山は赤軍派がカンパで集めていた軍資金のうち約20万円を無断で送金した。遠山はこのことで森に睨まれ、結果山中で殺害されることになる。
 重信の方はもはや赤軍派に未練はなかったらしく71年11月に「訣別書」を送っている。

 PFLPはパレスチナを追われたゲリラの集団である。パレスチナゲリラの闘争は祖国奪還闘争だった。重信の「アラブ赤軍」(日本赤軍の前身)はそんなPFLPの庇護のもと創設した。ただし実質この段階でテロリスト集団として単独で活動したわけでなく、当初はあくまでPFLPのコマンド部隊という位置付けだった。

 1972年秋から冬にかけて、国内の新左翼系の新聞や雑誌に、重信の檄文が掲載された。


「闘うあなたへ、アラブよりの招請状」


 世界の闘いは、徐々に一つの輪につながれているので、あなたが片道切符で出てくれば、ヨーロッパでもアメリカでもアジアでも、私たちと出会うでしょう。どこに行っても仲間同志のアンテナで、知らないあなたが、闘いのために徐々に私たちのもとへ近づいていることを知ることができます。闘う世界中の仲間の連結で、あなたが出国した一か月位後から、アラブ赤軍のもとに、あなたの存在が知らされるでしょう。

 さあ、片手に荷物をさげて知らない街に出てきて、私たちとともに闘いを始めましょう。そして、あなたが働きながら、革命にむけて学び、待機している間に、私たちの仲間が、戦闘開始の招請状を確実に送るでしょう。多分、一年間のあいだに、どこでも旅立つことは簡単です。無銭旅行は、あなたの革命を検証するでしょう。どこかで、待つこと、耐えること、思い切ることのうちにつちかわれるあなたの革命の更なる情熱は、私たちと共通の思いに貫かれていくことでしょう。
 
 お金がないと外国には居られない、なんていう帝国主義者のウソっぱちな宣伝は、彼らの都合によるものです。片道切符と少しばかりのお金があれば十分です。

 世界中に、のん気で、革命を目指す仲間が散らばっていて、仕事のこと、住みかのこと、食べもののことなど、自分のことみたいに気をつかってくれるでしょう。

 アジア人もいれば、ヨーロッパ人も、アフリカ人もたくさんいます。まるで東京から大阪に、大阪からどこかの街へ、そんな風に世界は拡がっています。簡単なことです。あなたの到着を待っています。握手の為に――



【メンバー】

◆重信房子・・・・1945年9月28日、東京・世田谷区生まれ。父・末夫は血盟団のメンバーだった。父はパンを焼いて売りに行く商売をしていたが、家は非常に貧しかったという。重信は「小さな親切運動」に生きがいを感じ、中学の教師になることを夢見ていた。学校の成績も優秀だった重信だが、都立第一商業高校を卒業すると、進学せずに「キッコーマン醤油」に入社。だが進学への想いは強く、その翌年から明治大学二部(夜間部)に通い始めた。入学直前、重房はお茶の水の路上で学費値上げ闘争で除籍処分を受けた学生の復学を求める座りこみに誘われた。これが人生最初の闘争だった。その後、反対運動に積極的に参加しはじめ、会社も辞めた。当時、明大二部の学生自治会は民青に握られていたが、重信は快く思わなかった。美人だった重信は反民青の情報宣伝部長としてそのシンパ学生をオルグしていった。その頃、遠山美枝子と仲が良かった。67年、重信はブントに入る。仲間からは「BUNDのマタハリ」とも呼ばれていた。その後、ブントは暴力革命を目指す塩見孝也の理論により、「穏健派」の関東系と「急進派」の関西系に分裂。重信は遠山と急進派に接近し、組織のナンバー2で、後によど号事件で北朝鮮に渡る田宮高麿(大阪市立大生)と交際するようになった。やがて急進派は「共産主義同盟赤軍派」と名を変えた。大菩薩峠事件の後、重信は無届けで反帝集会を開いたとして東京都公安条例違反により逮捕され、3日間留置場で過ごし、その直後にも兇器準備集合罪で再逮捕された。取調べではセックスについて明け透けに話すなど自由奔放な女に見えたが、そうすることによって時間を稼ぐ計算高さも見え隠れする。資金集めに関西によく行っていたが、ここで赤軍シンパだった奥平剛士らと出会う。(同様にあさま山荘事件に関わった坂東国男とも知り合い、彼は赤軍に入った)71年2月2日、重信は奥平と偽装結婚。「奥平房子」という戸籍を手に入れて、警察の眼をすりぬけ、アラブに渡るパスポートを取得するためである。赤軍派はすでに250人近いメンバーが逮捕されており、日本国内で武力闘争をするのは難しいと考えた。同月28日、奥平から2日遅れて、スイス空港機でアラブに渡った。日本で警察と赤軍派の銃撃戦(あさま山荘事件)が始まると、重信はアラブの闘士から祝福を受け、喜んだ。だがその後のリンチ事件発覚で、遠山美枝子の死を知りショックを受けた。「命(メイ)」「革(アラタ)」「強(ツヨシ)」という名前の3人の子がいる(メイはパレスチナ人との間の子どもだが、奥平剛士の子という噂もある。メイの弟妹は他の日本赤軍メンバーの子どもとされる)。余談ながら、警察内部には重信ファンの公安警察官が少なからずいたらしい。


◆奥平剛士・・・・1945年7月山口県下関市生まれ。父親は京大農学部を出たインテリで、漁業会社に勤務していた。兄は早くに病気で他界しており、3つ下の弟に純三がいる。奥平が下関西高校に入学した年の6月、一家は仕事の都合で岡山に引っ越すことになり、岡山県立朝日高校に転校した。奥平は優等生であり、成績は常に学年で10番以内だった。それも必死に勉強するというタイプでもなく、どこか余裕があった。1964年、現役で京大工学部電子工学科入学。「底辺問題研究会」に入り、京都の貧民街でセツルメント奉仕活動を始めた。しかし現実の壁にぶつかり、「民青」(日共の青年組織)に入ろうかと悩む日々を過ごした。1966年2月、京都市南区で大火が起こり、奥平が支援していた九条東岩本町を焼き尽くした。このことから「民青」に入ったが、半年で辞めた。その後、奥平は全共闘運動にのめりこんでいった。アジ演説をする姿に、女性からもよくモテていたという。71年2月2日、神戸の東灘区役所に婚姻届を出した。結婚相手は赤軍派・重信房子。そのあとベイルートへ飛ぶ。1972年5月、テルアビブ空港で自動小銃を乱射、自らも手榴弾で死亡した。


◆安田安之・・・・三重県北勢町生まれ。父親は腕のいい大工であり、「一級建築士になりたい」という若い頃からの夢を、末っ子・安之に託した。安之は気の弱いところはあるが、性格は明るい優等生で、名門・四日市高校へ入学。3年時の学力テストでは、数学で県下トップになった。現役で京大工学部に入学、建築学を学んだ。1968年の京大紛争の時に、心配になって京都へ出向いた親が「お前だけは、馬鹿なことをしてくれるなよ」と忠告すると、安田は笑ってうなずいた。親は安心して三重に戻ったのだが、この頃すでに安田はノンセクトの活動家として行動していた。安田は「武装したパルチザン(遊撃隊)の組織をつくれ」と叫んでいた京大経済学部助手・竹本信弘(滝田修)に心酔していたのである。そしてそのパルチザンの行動隊長が奥平剛士だった。隊員のなかで安田の訓練ぶりも際立ち、仲間内では「根性ある実力者」として奥平とともに評価されていた。1971年9月、実家に戻った安田は、両親に「建築の勉強のためにヨーロッパをまわりたい」と相談、25万円を無心した。海外生活を心配した母親はさらに内緒で15万円を持たせると、「ありがとう。大切に使うからね」と言った。両親が息子のゲリラとしての顔を知るのは1972年5月、テルアビブ事件後のことだった。安田は同事件で死亡した。享年26。


◆岡本公三・・・・1947年熊本県芦北町生まれ。父親は小学校の校長、次兄はよど号ハイジャック事件に関わった岡本武。父親は厳格な人物で、公三も末っ子だからと言って甘やかされるようなことはなかった。第1志望の高校に落ちて私立熊本マリスト学園高校に入学。進路指導の教師には「(2人の兄のように)何が何でも京大に進みたい」と希望をもらしたが、教師から「行けるような成績ではない」と言われた。結局、京大を2度受験するが、2度とも失敗、鹿児島大農学部に入学した。浪人中からベ平連活動に参加している。大学に入ってからはごく普通に過ごしていたのだが、3年なって積極的に政治活動を始めた。父親が公三の下宿に出向いて「ほどほどにしておけ」と注意すると、「(ハイジャック事件を起こした)お兄ちゃんのような真似はしない。心配しないで」と言うだけだった。11月下旬、PFLPが日本へ持ちこんだ映画「赤軍――PFLP世界戦争宣言」が鹿児島で上映されることになり、公三が設営を引き受けた。そして日本赤軍に引き入れられて、あさま山荘事件が制圧された翌日、1971年2月29日に出国。イスラエル・ロッド空港乱射事件で逮捕され、同国の刑務所で激しい拷問を受けた。統合失調症になるが、1985年に捕虜交換で釈放される。2000年、レバノンに政治亡命。


◆奥平純三・・・・1949年2月生まれ。岡本兄弟、加藤三兄弟など、新左翼には兄の影響を受けて参加する者も少なくなかったが、純三もご多分にもれず奥平剛士の実弟である。京大。ハーグ事件、クアラルンプール事件に関わる。1976年、ヨルダン入国の際に逮捕されるが、ダッカ事件で釈放、出国。


◆和光晴生・・・・1949年、仙台市生まれ。仙台第三高校から慶応大学文学部に入学。自治会副委員長になったが、中退している。ハーグ事件、クアラルンプール事件に関わる。97年、レバノンで旅券偽造、不法入国で起訴され禁固刑が確定。日本へ移送された。


◆丸岡修・・・・1959年10月大阪生まれ。実家は縫製業を営んでいた。灘中学への進学を希望したが、入試に失敗し、区内の中学に入学した。成績は良い方で、府立清水谷高校へ進学。この高校はかつて反戦高協などに加わった生徒が活発に活動しており、丸岡が3年の時に全校封鎖という騒ぎも起こったが、そうしたなかで彼の名前は1度も出てこない。大学進学を希望していたが、阪大工学部の受験に失敗、京都市の予備校に通い始めた。当時、京大の紛争が活発であり、予備校にも浪人生をオルグしようとする過激派学生が現れた。そしてこの予備校は、京大パルチザンを組織した京大経済学部助手・竹本信弘(滝田修)もいたのである。丸岡は次第にデモや集会に参加するようになっていた。「浪人ベ平連」に入り、奥平剛士や安田と知り合ったのもこの頃だった。翌年も京大工学部を受験したが落ちた。ここで大学進学をあきらめた。阪大や京大以外に進学するのは本意ではなかったようだ。そしてその年(1970年)の7月、京都市上京区の有限会社「ウツボ」に就職、西陣織ネクタイの紋紙彫りや織機を扱う仕事の見習いをしていた。口数は少ないが、神経の行き届いた仕事ぶりで期待されていたという。ところが72年3月、上役に「辞めさせてほしい」と申し出て、4月には北区西賀茂神光院町のアパートを引き払い、いったん大阪市都島区の実家に戻った。両親に「しばらく外国へ行って勉強してきたい」と切り出す。そして13日夜、羽田発のアリタリア航空機でアテネに向かった。アテネに到着してから両親に手紙を送ったが、それ以降は消息を絶つ。5月上旬にベイルートに現れ、奥平らとともにゲリラ訓練センターで訓練を受けた。ドバイ事件、クアラルンプール事件、ダッカ事件に関わる。以後の活動では、日本赤軍の軍事面のリーダーとされる。1986年1月にフィリピンで起きた三井物産マニラ支店長・若王子さん誘拐事件との関わりも疑われた。1987年11月、東京で逮捕される。


◆山田義昭・・・・1949年1月、富山県東礪波郡平村で生まれた。父親は村役場職員。運動が得意で、県立福野高校の頃にはスキーの県大会に学校代表として出場した。政治などには全く関心を示さなかった高校時代だった。高校卒業後、アルバイトをしながら早稲田予備校に通っていたが、予備校に来た大学生にオルグされ政治活動を始めたが、特定のセクトには入らなかった。その後、受験に失敗し、板橋区の精密機械メーカーで働き始めた。1973年6月、パリに行ったまま日本赤軍入り。重信の檄文に引き寄せられた1人と見られる。1974年には早くもシンガポール・シェル製油所襲撃に参加した。同年、フランス警察に逮捕されるが、奪還作戦としてハーグ事件が起こった。その後、クアラルンプール事件に関わる。1986年2月、「体力的にやっていけなくなった」と警視庁に出頭。


◆城崎勉・・・・元徳島大生。赤軍派のM作戦に関わる。ダッカ事件で出国した1人。当時は府中刑務所に在監していた。刑務作業として木工場で働いていたが、同じ”職場”には作家・安部譲二氏もいた。ジャカルタ事件に関わる。


◆戸平和夫・・・・大阪の元会社員。1975年3月に西川とともにスウェーデンで逮捕され、強制送還される。その後、クアラルンプール事件で出国。ダッカ事件に参加。2000年にレバノンから国外退去処分を受け、日本で逮捕される。


◆西川純・・・・京都産業大生。ハーグ事件に関わった後、1975年3月に偽造旅券行使などでスウェーデンで逮捕され日本に強制送還されるが、クアラルンプール事件で日本を出国。ダッカ事件にも関わる。1997年、南米ボリビアで身柄拘束される。


◆日高敏彦・・・・元大阪市大生。1971年にソ連船で出国し、日本赤軍に加わる。クアラルンプール事件に加わった(とされる)。10月、首吊り自殺。享年31。


◆坂東国男・・・・→詳細は「連合赤軍事件」
 元々赤軍派の「坂東隊」リーダー。あさま山荘事件で逮捕されていた。クアラルンプール事件で出国。ダッカ事件に関わる。90年代後半には中国や東欧などに潜伏していたことが判明したが、現在も行方がわかっていない。


◆佐々木規夫、大道寺あや子、浴田由起子・・・・→詳細は「連続企業爆破事件」
 佐々木はクアラルンプール事件で、後の2人はダッカ事件で出国。浴田は獄中で司法当局に「本当に行く気があるか」と尋ねられた時、「行く!行く!行く!」と大喜びした。佐々木はダッカ事件に関わる。浴田は1995年ルーマニアで逮捕。大道寺あや子は現在も行方がわかっていない。


◆松田久・・・・赤軍派M作戦隊長。クアラルンプール事件で出国。


◆泉水博・・・・1938年千葉県木更津市生まれ。県立木更津第二高校を2年で中退後、職を転々とし、一時は暴力団にも出入りしていたことがある。60年、仲間と2人で文京区の重役夫人を刺し殺し、1万5千円を奪い、逮捕された。死刑が言い渡された共犯の湯本昭八郎は東京拘置所内で自殺したが、泉水は無期判決を受け、千葉刑務所で服役した。服役態度は非常に真面目で仮釈放も近いと言われてたが、待遇改善を求めて、管理部長と主任看守に暴行を加えるという事件を起こした。このことから懲役2年6ヶ月の加重刑を言い渡された。また拘置所内で佐々木や大道寺将司、奥平純三らと知り合い、革命論を書きなぐるまでに成長した。日本赤軍に出国を求められた時、泉水は迷っている様子だったが、「私は行きます」と答えた。1988年、フィリピンで拘束される。


◆仁平映・・・・1946年東京・立川市生まれ。中学卒業後、山谷の簡易宿泊所で労務者生活をしていたが、傷害、脅迫などで20回以上も逮捕された。76年、台東区清川の路上で立ち小便をしていたところを男性(44歳)に注意されて刺し殺した。獄中闘争を通じて、佐々木や、大道寺将司、奥平純三らと知り合い、政治的影響を受けた。地裁で懲役10年の判決を受け、高裁に控訴して争っている最中にダッカ事件で出国。


◆菊村憂・・・・東京外大中退。1988年に米・ニュージャージー州で爆発物を所持していたとして逮捕される。2007年4月に刑期を終え、日本に送られたところを逮捕された。


◆檜森孝雄・・・・1947年生まれ。1971年9月、安田、山田修とベイルートへ渡り、奥平剛士らと合流する(山田修は1972年2月に水死)。テルアビブ事件には計画段階から参加していたが、帰国している。ロッド空港事件の後指名手配されていたが、6月16日に京都市内の質店で逮捕され、身柄は警視庁へ護送された。2002年3月、焼身自殺。54歳。


◆山本万里子・・・・元パリ三越店の店員。ヨーロッパのレポ役をつとめる。2005年初め、スーパーで万引きをして逮捕される。その際、生活保護を受けていたことも報じられた。


【テルアビブ空港乱射事件】

 1972年5月30日午後10時30分、イスラエル・テルアビブのロッド(現・ベングリオン)空港税関カウンター前で、日本赤軍の3人がチェコ製Vz-58自動小銃を乱射、その後手榴弾を投げつけた。彼らは撃ち尽くすと、弾丸をつめ、出迎えの人や航空券を購入する客でにぎわう待合室や空港職員目掛けて乱射した。わずか数分間の出来事だったが、イスラエルの科学者アハロンカツィール教授ら26人が死亡、73人が重軽傷を負った。被害者の中には幼児もいた。航空券を購入する乗客が犠牲となり、空港は血の海と化した。犠牲者の半数はアメリカ国籍のプエルトルコ人だった。

 空港を襲ったのは奥平剛士(27歳)、安田安之(26歳)、岡本公三(当時24歳)の3人。
 「死んでオリオンの三ツ星になろう」と誓った3人は、パリ発のフランス航空機にローマ空港から乗りイスラエル入りした。午後10時過ぎのことである。予防注射証明書を示し、出入国手続きを済ませ、玄関ホールに出た。3人はトイレに入り、偽物のパスポートを破り捨てた。パスポート上、奥平は「スギサキ ジロー」、安田は「トリオ ケン」、岡本は「ナンバ ダイスケ」となっていた。ホールに戻った3人はベルトコンベア上の荷物を開けて銃器を取り出し、銃を乱射した。
 奥平と安田は手榴弾で自決(※)。奥平は肉片と化し、安田は頭部がない状態だったという。岡本は税関から空港内に飛び出し、イスラエル航空機に向けて小銃を乱射し、スカンジナビア航空機には2発の手榴弾を投げた。その際、車輪の下を転がる手榴弾の上にかぶさり自殺を図るが不発に終り、滑走路上に逃げたところを取り押さえられた。

※イスラエル側に銃撃され死亡したという記述もある。岡本によると、無差別乱射事件ではなく、空港管制塔襲撃を阻んだ警備兵に発砲したものとしている。安田は投げた手榴弾が壁に当たって遠くに行かなかったので、一般客が巻き添えにならないために、上に覆いかぶさり死亡したという。真相は不明。

 奥平は前日に両親宛てに手紙を送っている。


 ご無沙汰しております。今ローマから書いています。これが最後の手紙になるでしょう。国を出るときから生きて帰ることはないときめていましたが、不思議に今まで生きのびて、多くの人にあい、多くの事を知り、そして、最初の考え通りの路を行こうとしていること、何度考えても、ありがたい事だと感じます。思う通り、わがままいっぱいにさせていただきましたこと、お礼の言いようもありません。
(中略)
 仕事がすみしだいお二人のもとに帰ります。
 ではお元気で。さようなら
                                 剛士

 お守りはちゃんと持って行きます。写真(亡くなった長兄のもの)といっしょに。



 同夜、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)は、ユダヤ主義者への報復(5月初めにベルギーのサベナ航空機を乗っ取ったアラブゲリラ2名が射殺された事件)のため、組織の突撃隊が急襲と声明を発表した。岡本はアラブ人のあいだで「アラブの星」と英雄視された。
 唯一生き残った岡本は当初、「自分はレッド・スター・アーミーだ」と名乗っていたが、日本当局はこの組織を把握していない。

 6月2日、元校長である岡本の父は記者会見で「なぜ公三まで、自分の生命を断ってまでおわびしたい気持ち・・・」と語り、深く頭を下げた。

 逮捕された岡本は「私の役目は終った。死なせて欲しい」と供述した。
 3人は自分たちが何者か特定されないため、顔面を破壊して自殺するつもりであったという。実際、犯行メンバーがまだ特定されていない頃、死亡した1人(安田)の復元写真(バラバラになったパスポートの写真をイスラエル警察当局が集めたもの)がイスラエルから日本に送られてくると、その日のうちに十数人の親が「うちの息子によく似ている」と届ける騒ぎになった。海外を放浪する若者が増え、旅を続けるうちに生活費の安い中近東に移っていく者が多かったためである。

 取り調べにおいて、岡本は「当初は4人でやるつもりだった」「1人は途中から別行動をとった」と供述した。その1人とは、前年に消息を絶っていた大阪出身の丸岡修だった。丸岡はただ1人ゲリラ訓練センターに残された。
 
 公判4日目、岡本は次のように語っている。
「私たち3人の赤軍兵士は、死んでオリオンの三ツ星になることを願った。私たちが殺した人々も、同じ天で星になっていると思うと心が静まる。革命戦争はこれからも続き、夜空に輝く星の数はますます増えるだろう」

 7月17日、イスラエル軍事法廷で、岡本に終身刑(8月1日確定)が言い渡され、ラムロ刑務所に収容された。イスラエルでは軍事法廷だけが死刑の特権を持つが、死刑はまぬがれた。日本政府は福永陳謝特使を派遣し、佐藤首相の親書をメイア首相に手渡していた。


【ドバイ事件】

 1973年7月21日午後11時55分頃、パリ発羽田行き日本航空ジャンボ機404便(小沼健二機長 乗客123名)が、アムステルダム空港を離陸直後、3、4人のパレスチナ・ゲリラにハイジャックされた。日本機が国外で乗っ取られたのは、これが初めてだった。
 
 同機はフランクフルト、ローマ、アテネ、ベイルート、ダマスカス、バーレーンを経由して、アラビア首長国連邦のドバイ空港に着陸した。午前7時45分頃のことである。

「我々は革命組織と戦闘隊員のためにハイジャックした」
 ハイジャック直後、そう演説したこのゲリラは「日本革命軍」を名乗り、同国のモハメド・ランドアル・マクツーム国防相が直接交渉にあたったが、水と食料を要求するだけだった。22日になっても、これといった要求はなく、「近づけば、飛行機を爆破する」という脅しのみだった。

 一等客席に「エクアドル国籍の新婚夫婦」を装った男女がいて、スチュワーデスからシャンパンのサービスを受けたが、その直後にスチュワーデスが操縦室に入ろうとした時に押し入った。女の方は持っていた手榴弾を手中で爆発させてしまい即死(興奮して手榴弾を投げようとして、仲間に撃たれたという話もある)、近くのチーフパーサーも負傷した。

 イスラエル政府は「岡本公三は絶対に引き渡さない」「脅迫に屈しないというイスラエルの態度に変わりはない」と発表。

 24日、犯人は機外に運び出された女ゲリラの遺体を返せと要求。
 説得にあたっていた朝田静夫日航社長、佐藤文生運輸政務次官が、乗客の身代わりになると申し入れた。
 現地の対策本部は、人質の生命を第一として、犯人側の要求をのむことを決定した。
 
 24日午前3時55分、女ゲリラの遺体が機内に運びこまれ、その1時間後に離陸した。

 午前8時45分、ダマスカス空港に着陸し、給油。11時55分に再び離陸。ベイルート、キプロス方向に向かった。

 同機はリビア・ベンガジ空港に姿を見せたが、1度空港上空にを旋回し、滑走路に降りたった。乗客たちは脱出シュートから飛び出し、なぜか走って逃げた。その直後、日航機は大爆発。燃え尽きた後には尾翼の一部を残しただけとなった。

 リビア当局はメンバー4人を逮捕。そのなかには丸岡修も含まれていた。


【ハーグ事件】

 1974年1月31日午前11時45分、和光晴生(当時26歳)と山田義昭(当時25歳)とパレスチナゲリラ2人が、「ベトナム革命戦争との連帯」作戦としてシンガポール・シェル精油所の石油タンク3基を爆破、フェリーポートの5人を人質にとった。

 さらに2月6日午前10時、別のパレスチナ・ゲリラ5人が在クウェート日本大使館を占拠し、石川良孝大使ら29人の人質と引き換えに、和光らを日航機で移送させ、南イエメンで合流、投降。

 この当時まで、彼らは「日本赤軍」ではなく、「アラブ赤軍」または「赤軍」と名乗っていた。

 7月26日、パリ・オルリ空港で、偽造旅券4通と偽ドル所持の山田義昭がフランス警察に逮捕される。その供述から、西ドイツ・ジュッセルドルフの三井物産か丸紅の支店長を誘拐し、身代金を奪おうとした計画(翻訳作戦)が発覚した。
 この事件により、パリ在住の日本人関係者8人が国外追放処分に。また警察庁も偽造旅券などを不正入手した国内の支援者4人を私文書偽造容疑で逮捕した。

 1974年9月13日、和光、奥平純三(当時25歳)、西川純(当時24歳)が、オランダ・ハーグのフランス大使館に短銃武装で乱入し、占拠。大使ら11人の人質と交換にパリで勾留中の山田を奪還、オランダから30万ドルと仏機を出させ、19日にシリアで投降した。
 この事件は「日本赤軍」を名乗り、彼らだけの独立作戦第1号だった。逮捕され、作戦の全貌を話してしまった山田をそのまま放っておくと組織が壊滅しかねない、そうした危機感のもとの作戦だった。


【クアラルンプール事件】

 1975年3月7日、スウェーデン・ストックホルムで、オーストラリア大使館を下見中の西川純、戸平和夫(当時22歳)が、偽造旅券行使などでスウェーデン警察に逮捕された。この時、日高敏彦は逃走した。2人は3月13日に日本へ強制送還された。
 戸平は大阪府堺市の元会社員で、74年2月に出国。この事件について、大阪女子大教授など5ヶ所が捜索された。

 同年8月4日午前11時(日本時間午後0時半)、マレーシア・クアラルンプールの、AIAビル9階にある米大使館、スウェーデン大使館が、日本人と見られるゲリラによって占拠された。彼等はステビンズ米領事、ベルエンストラーレ・スウェーデン臨時代理大使ら52人を人質をとって立てこもった。

 彼らは西川純(ハーグ事件)、戸平和夫(日本赤軍コマンド)、坂東国男(連合赤軍)、坂口弘(連合赤軍幹部)、松田久(赤軍派M作戦隊長)、松浦順一(赤軍派M作戦隊員)、佐々木規夫(東アジア反日武装戦線)の7人の釈放と、日航機の派遣を要求した。

 この中で元々赤軍派ではない佐々木が浮いているが、「赤軍 −PFLP世界戦争宣言−」というフィルムを真っ赤なマイクロバスに積んで日本全国を上映して回る”赤バス隊”であった和光が札幌にやって来た時に彼とと知り合い、影響を受けていた。また連続企業爆破事件で逮捕された時、他のメンバーは自供を始めたのに、佐々木だけが完全黙秘を貫き通したため、そこを評価されたとも言われる。

 政府は午後5時ごろには「釈放する法的根拠がない。釈放しない」としていたが、夜になると「これはもう検察の権限を超えている、内閣の決定事項、超法規的措置である。釈放命令があれば、人命に関わることなので拒否できない」とし、釈放要求が来ている7人について、出国の意思を確認し始めた。

 7人のうち松浦と坂口は出国を拒否した。
 松浦は赤軍派出身であり、当時は病気保釈中で四国の実家で静養していた。拒否の理由について「いまは闘争を保留しているので、誰に誘われても、どこへも行くつもりはありません」と記者達にはっきり語った。
 京浜安保共闘出身で連合赤軍幹部の坂口は、ほぼ間違いなく死刑と見られていた(実際、82年に死刑判決を受けた)。だがそれでも「私は行かない。房に返してくれ」と答え、5日午前の犯人との国際電話でも、
「君達は間違っている。私は出て行かない。君達は大衆の支持を得ることはできないだろう」
 とだけ話した。この電話は検事の圧力を疑った犯人側が要求したもので、犯人から見て坂口辞退は想定外だったと見られる。自分たちの行ったことを総括するより、革命のためにゲリラ戦に参加しようとした坂東とは対照的だった。

 5日午前0時20分、井出官房長官は記者会見で、飛行機を午前6時過ぎには出発できるようにすることと、出国の意思がある5人のことを犯人側に伝えたと発表した。
 政府の対応が早かったのは、犯人側が「要求を入れなければ、ステビンズ米領事を処刑する」と脅していたからだった。

 5人を乗せた日航特別機は午後2時半に羽田を飛び立った。
 日本赤軍はま人質15人を確保したまま空港に移り、まず人質を機内に入れ、その後出国してきたメンバーと交換した。7日夕方、クアラルンプールを出発し、途中コロンボで給油をすませ、リビアのトリポリで高官4人を解放、ゲリラは投降後、自由に出国を許された。

 ゲリラはほとんど覆面をとらなかったが、丸岡修(当時24歳)、和光晴生(当時27歳)、山田義明(当時26歳)、奥平純三(当時25歳)、日高敏彦(当時30歳)とされている。やけに望郷なところがあって、日航の乗務員に「日本のたばこが欲しい」と求めたり、機内放送用の歌謡曲テープをせがんだりしていた。

 8月21日、東京地検は「犯人たちの行為は、被拘禁者奪取罪にあたり、その結果日本を出国した5人は逃亡状態にある」との見解をまとめた。


 同年7月、警察当局はICPO(国際刑事警察機構)に対し、「日本赤軍は思想犯ではなく、刑事犯である」と国際手配を依頼。8月にICPOはまずリーダー・重信、奥平、和光、丸岡、吉村和江の5人を加盟120ヶ国に国際指名手配した。

 同年9月2日、日本赤軍のヨーロッパ支援メンバーである元京大生・北川某(当時32歳)と島田某(当時31歳)が、滞在先のスウェーデン治安当局にテロ防止法容疑で逮捕され、4日に羽田へ強制送還された。島田は戸平を日本から海外に送り出すために旅券を偽造した疑いで国際手配されており、北川も前年のパリの事件で存在が浮上していた。2人はヨーロッパのレポ役で、重信からは「ヨーロッパのいとこたち」と呼ばれ、翻訳作戦の謀議にも加わっていた。

 1976年9月23日、奥平純三、元大阪市大生・日高敏彦(31歳)がリビアから偽造旅券でヨルダンに入国しようとして逮捕された。
 日高は71年にソ連船で出国し、赤軍派に加わっていた。だが取調べを受けていた10月2日、署内トイレで首吊り自殺した。

 10月13日、強制送還された奥平順三が羽田空港で逮捕。


【ダッカ事件】

 1977年の5月と8月、日本赤軍は新左翼系「人民新聞」に、同志奪還のためのハイジャックを宣言した。

 同年9月27日、この日は自殺した日高の命日だった。
 その翌日、事件は起こった。
 日本時間の午前10時45分、パリ発羽田行きの日航機472便(乗員14人、乗客142人)がインド・ボンベイ空港を離陸直後、日本赤軍のメンバー5人にハイジャックされ、午後2時31分、バングラデシュのダッカ空港に強制着陸させられた。

 メンバーは丸岡修、和光晴生、佐々木規夫、坂東国男、戸平和夫の5人。そのうちの1人が、立ち上がろうとする男性客を殴ったり、髪の毛をむしりとったりした(坂東と思われる)。彼らは自分達のことを「ジャパニーズ・レッド・アーミー」と名乗り、「日高コマンド」と呼ぶように命じた。
 彼らは乗員乗客を人質に、身代金600万ドル(約16億2000万円)と服役中の赤軍派ら9人の釈放を要求し、要求に応じない場合は、まず米国人、次に乗員、乗客を処刑していく、特に乗客の1人だった「カーター大統領の友人」だという米銀行頭取を真っ先に殺すという声明を発表した。

 日本政府は即座に「日航機ハイジャック対策本部」を設置。
 検察当局は「安易な妥協はすべきでない」と反対したが、福田首相は「人の命は地球よりも重い」と、29日夜半に超法規的措置として要求を受け入れることを決めた。
 ダッカ空港で身代金を支払い、奥平純三、大道寺あや子(東アジア反日武装戦線・狼)、浴田由紀子(同・大地の牙)、城崎勉(赤軍派)、そして元々過激派ではない一般刑事犯である泉水博、仁平映を釈放。

 これで東アジア反日武装戦線からは、佐々木、大道寺あや子、浴田の3人が救出されたことになる。元々、赤軍派とは関わりのなかった同組織のこのメンバーのどのあたりを重信が目をつけたのかわからない。なぜかあや子の夫・大道寺将司や片岡といった中心メンバーは救出されていない。将司は、後に獄中で「もはや、これ以上、日本赤軍に仲間を連れ去らせるわけにはいかない」と書いている

 泉水と仁平はのちに待遇改善要求闘争を展開していた「獄中者組合」のメンバーであることがわかった。日本赤軍はこの獄中での抵抗運動を評価して招き入れたのだった。ただ2人にとっては寝耳に水の出来事で、特に泉水は「乗客を救うために行くのであって、機内で乗っ取り組に会ったら、”私はあなた達と一緒になって闘うために来たのではない”と言うつもりだ」と週刊誌にコメントを載せた。自分が行かないと、乗客が殺されてしまうと思い込んでのものだったが、国外脱出の3年後には日本赤軍メンバーになった。

 なお釈放要求のあった9人のうち、連合赤軍・植垣康弘(当時28歳)は「日本に残って、連赤問題を考えなければいけない」、皇太子夫妻に火炎瓶を投げつけた知念功(当時27歳)は「沖縄解放のために闘っている自分を、(沖縄から)離そうとしているのは、沖縄軽視である」と、京都地方公安調査局爆破事件の大村寿雄(当時34歳)は「自分は文学的無政府主義者で、政治革命を目指す赤軍とはイデオロギーが違う」とそれぞれ出国を拒否した。


 夜が明けると、東京・霞ヶ関に、右翼の街頭宣伝カーが集まり、
「政府と警察は凶悪犯の前に土下座して恥ずかしくないか。お前達は月給泥棒だ」
 と叫んだ。

 10月3日、日航機はダッカ空港を飛び立ち、その後クウェート空港、シリアのダマスカス空港で燃料捕球をし、人質を少しずつ解放、4日午前1時25分にアルジェリアのダル・エル・ベーダ空港で全員が釈放された。日本赤軍はハイジャック防止条約に加盟していない国を選んだのである。最後までハイジャックに付き合わされた乗員乗客19人は、実に134時間も拘束された。
 アルジェリアではリーダーが10分ほど演説した。
「人民政府ができた時には、いつか日本の街角でお会いしましょう」
 そう締めくくった後、犯人は出口付近で1人1人に「ご迷惑をかけて、申し訳ありません」と謝りながら握手した。意外なほど日本的だったという。

 当時、西ドイツでもゲリラ「ドイツ赤軍」による要人(シュライヤー)誘拐事件があったが、西ドイツ政府は要求を断固拒否した。この対応には周辺諸国も支持していたが、日本政府の対応には批判が集中した。
 
※シュライヤー誘拐事件…10月13日、ドイツ赤軍がルフトハンザ機をハイジャック、政府は平和解決を願う交渉を進める裏で、特殊部隊を空港に潜入させ、犯人を全員射殺、人質を全員救出した。だがシュライヤーは銃弾を撃ちこまれた遺体となって見つかった。

 2度にわたるテロリストへの屈服。この事件をきっかけに「日本でも特殊部隊がつくれないか」といった意見が出たりした。04年にイラク人質事件が起こった時、政府は一切テロリストと交渉しなかったが、これはダッカ事件での教訓からとされる。

 11月25日、参院でハイジャック防止法改正案が成立。それまで懲役7年だった罰則を、無期または7年以上とし、旅券法の権限を強化した。
 12月1日には、日本警察に、赤軍専従班という特殊秘密部隊をスタートさせた。ただしこの部隊も事件解決のためとはいえ、武装したまま海外へ出向くということはできなかった。事前に決起を察知して、各国と連携するものである。

「日本人民、同志、友人の皆さん・・・・自らの不充分を克服し団結を目ざし、団結を武器として闘い抜くことを誓います」
 ダッカ事件が起こった後、人質となり帰国した乗客に、レバノン・ベイルートからの手紙が送られてきた。また日本赤軍の「団結」紙がデンマーク・コペンハーゲンから国内支援組織などに送られたが、警察は筆跡と指紋から戸平のものと断定した。


【ジャカルタ、ローマ、ナポリ・・・ メンバーの逮捕】

 ダッカ事件以降、日本赤軍はしばらく目立った事件を起こしていない。当時はすでに中心メンバーも歳をとっていたことも関係していたのかもしれない。
 1978年頃から獄中、ハイジャックした日航機の乗客などに声明を送ったり、新左翼系の「人民新聞」に寄稿するなど、日本国内での情宣活動を始めた。84年には国内に届いた重信と坂東の論文が単行本として出版された。

 イスラエルのレバノン侵攻でシリアなどに避難していた日本赤軍は、84年に入って再びレバノン北部のベカー高原の本拠地に戻り、PFLPのもとに生活や前線活動していることが確認された。


 1985年5月20日、終身刑の判決を受けラムロ刑務所に収容されていた岡本は、イスラエル兵とPFLP―GC(パレスチナ解放戦線総司令部)との捕虜交換の際に釈放、日本赤軍の元に戻った。同時に日本政府から国際指名手配される。ただし岡本は長い独房暮らしで精神の疲弊が大きかった(統合失調症を患ったとされる)。

 1986年2月25日、山田(当時37歳)は帰国し、警視庁に出頭、逮捕された。ハーグ事件により釈放されると、シリア・ダマスカスに向かったと言われていたが、それ以後のゲリラ作戦には参加していない。取り調べに対し、「体力的にコマンドとしてやっていけなくなった」と述べたという。

 1986年5月14日、インドネシア・ジャカルタのホテルから、カナダ、日本、米国大使館に向けて迫撃砲を発射。「反帝国主義国際旅団」(AIIB)の犯行声明が出されたが、現場となったホテルの部屋からはダッカ事件で奪還された日本赤軍メンバー・城崎勉(当時38歳)の指紋がみつかった。
 AIIBは、PFLPによって国際テロ・キャンペーンのために86年頃組織された、PFLPと日本赤軍からなる数人のテロ組織と見られる。この組織は1月の東ベイルートでフランス系2銀行の爆破、9月の東ベイルートでのフランス武官暗殺などのテロ事件でも犯行声明を出し、フランスで捕まっている中東系テロリストの釈放を要求した。

 1987年6月9日、ベネチアサミット開催中に、ローマ市内の米国、英国大使館にロケット砲攻撃。この攻撃でもAIIBが「サミットの反テロリズムへの回答」と犯行声明でうたったが、ローマ地検は12月3日、奥平純三(当時39歳)と城崎勉(当時39歳)の逮捕状をとり、国際手配。翌年6月にはレンタカーから城崎の指紋が検出されたと発表した。

 1987年11月、他人名義旅券で帰国した国際手配中の日本赤軍最高幹部・丸岡修(当時37歳)が、東京・箱崎のシティー・ターミナルに着いたところを逮捕される。丸岡は偽造旅券で日本や東南アジアなど8カ国を行き来しており、偽造旅券に名義貸しや入手を仲介した3人も逮捕された。また丸岡は86年1月にフィリピンで起きた若王子支店長誘拐事件との関わりが疑われた。彼の香港滞在期間と、誘拐事件で香港から報道機関に送られた脅迫状の日時が近いことからである。
 丸岡逮捕により、ダッカ事件で出国した泉水が数年前からマニラに潜伏していたことも判明、フィリピン女性と同棲していたアジトも発見された。

 押収されたメモによると、丸岡は日本赤軍の国際的支援・連携組織「アデフ」(ADEF=反戦民主戦線)づくりを計画していたらしい。
 1986年以降、メンバーは各地に点在しており、また他の国際テロ組織への参加などから、日本赤軍の分裂説もあった。

 1986年11月、三井物産マニラ若王子支店長が、フィリピン共産党の軍事組織「新人民軍(NPA)」によって誘拐されるという事件が起こったが、91年に逮捕された犯人が、「日本赤軍の協力があった」という内容の供述をする。

 1988年4月12日、アメリカ・ニュージャージー州で、3本の消火器爆弾や爆薬などを車にのせていた菊村憂(当時35歳)が逮捕される。
 菊村は86年5月にオランダ・スキポール空港で爆薬を持っていたため逮捕され、日本に強制送還されたが、その2日後、香港経由でベオグラードに渡ったことが確認されてから、行方が把握されていなかった。
 菊村は東京外大中退で、日本赤軍の正式なメンバーとは確認されていなかったが、6月のトロント・サミットに向けて準備中だったのではないかと見られる。

 4月14日、イタリア・ナポリの米国軍人クラブで、前に停められた車が爆発。5人死亡。奥平純三と重信が関与したとして国際指名手配された。日本赤軍は「デッチあげだ」「関与していない」などという声明を出したが、爆破されたレンタカーの賃貸借契約書から奥平純三の指紋が検出された。

 6月7日、マニラ首都圏に潜伏していた泉水(当時51歳)が、同国軍捜査班に不法滞在容疑で逮捕され、8日に日本へ移送された。泉水は額に植毛、目や唇の手術をして別人になりすましていたが、指紋で本人と確認された。

 10月、東京地裁、山田に偽造旅券を使ってフランスに入国しようとした偽造有印公文書行使罪で懲役1年4ヶ月を言い渡す。

 1995年3月、日系ペルー人を装ってルーマニアに潜伏していた浴田由紀子が発見され、逮捕。

 1996年5月には、ペルーに潜伏中の吉村和江を発見し、6月8日に逮捕。
 同年9月にはネパールにおいて城崎が逮捕される。

 1997年2月15日、政府はレバノンに特使を派遣。国際手配中の岡本、足立正生、和光、戸平、山本万里子を確認、身柄の引渡しを要求した。
 また同年、南米ボリビアで西川が身柄拘束され移送された。公判も再開された。

 こうしてメンバーは続々と逮捕され、壊滅への道をたどることになるが、それは同時に世界各国でメンバーが暗躍していたことを示していた。

 1999年5月30日、レバノンの若者たちによって、ベイルート・シャティラ地区にあるパレスチナ人墓地に、奥平剛士と安田の墓が作られる。

 2000年3月、5人の刑期が満了。レバノン政府はテルアビブ事件で「アラブの英雄」と呼ばれるなど国民からの人気が高い岡本の政治亡命だけを認め、他4人を国外退去処分とした。3月18日、4人は成田に着いたところを逮捕された。


【重信逮捕】

 2000年11月8日午前、大阪府高槻市に潜伏していた最高指導者・重信房子(当時58歳)が、府警警備部に男2人とホテルから出てきたところを逮捕された。ナポリ事件などで国際手配されていた重信だが、逮捕はハーグ事件に関してのものだった。
 高槻と言えば、70年代に赤軍派の拠点のあった街である(市内の某病院には支援者で固められているという)。
 重信の写真は当時の最新のもので45歳頃のものだったが、唇の右上のホクロが特徴となっていた。だが内偵段階で捜査員はそのホクロを確認することができなかった。化粧で隠していたのである。それでも内偵を続け、特有のタバコの吸い方から重信本人と突き止めた。

 警視庁に移送される途中、マスコミに笑顔で親指をたて手を振る。当然と言えば当然なのだが、若かりし頃の綺麗な顔立ちの面影はなかった。

 重信は偽造旅券から、97年以降、頻繁に中国の出入国を繰り返していたことがわかった。押収した資料からは91年に日本革命及び世界革命を目的とした「人民革命党」を設立していたことが判明した。
 なお重信を2年間にわたって匿っていた府立高校教師の男(当時45歳)、配管工の男(当時53歳)に対し、2001年5月1日、大阪地裁は懲役1年6ヶ月、執行猶予5年を言い渡している。

 2001年4月3日、重信の娘・メイ(当時28歳)が初めて祖国日本の地を踏んだ。
 重信は獄中から、28年間国籍がなかったメイの為に上申書を提出。その上申書により、DNA鑑定の結果、メイの日本国籍が認められ、来日したのである。メイは予備校の講師をしながら、母親の支援活動を続けている。


 重信は公判では「かつても今も、私はテロリストではない」と主張した。また05年10月の月の最終意見陳述で「パレスチナの解放の闘いに連帯したことを今も誇りにしていますが、当事者でない人々を戦闘に巻き込んで苦痛を与えてしまいました」と謝罪。

 2005年9月2日、論告求刑公判で、検察側は「首謀者として必要不可欠な役割を果たした責任は、共犯者のなかでも群を抜いて多い」と述べ、重信に無期懲役を求刑した。

 2006年2月23日、東京地裁・村上博信裁判長は懲役20年(求刑無期懲役)を言い渡した。村上裁判長は「パリで逮捕された元メンバーを奪還するために日本赤軍が主導した事件で、国際テロの面も持つ。重信はPFLP側に武器調達を依頼するなど重要な役割を担った」とハーグ事件の関与も認定した。重信は判決の後、ガッツポーズを見せ、傍聴席に向かって「がんばります」と声をかけた。


【国際テロリストの結末】

 2002年3月23日、テレビ朝日系「ザ・スクープ」で鳥越俊太郎氏による岡本のインタビューが放映される。精神を病んでいたとされる岡本だったが、事件のことについては淡々と話した。(この番組のHPでは、過去の放送分が動画配信され視聴することができるが、「私はなぜ無差別テロを行ったのか 〜その数奇な半生〜」というこの回は、『事情により』観ることはできない)

 同月30日、日本赤軍のテルアビブ事件に計画段階から関わった檜森孝雄(54歳)が、東京・千代田区の日比谷公園「かもめの噴水」広場で灯油をかぶり焼身自殺。

 2003年5月、岡本は共同通信の取材に対し、「早く日本に帰りたい。イスラエルで刑期を終えたので、日本でまた裁判になるのはおかしい」と話した。

 2005年1月25日、有印私文書偽造・同行使罪などで有罪判決を受け、執行猶予中の元メンバー・山本万里子(当時64歳)が、東京・板橋区のスーパーで、サキイカ2点(1200円分)を万引きして逮捕された。
 山本は00年3月にレバノンから強制送還された1人で、奥平純三を出国させるため74年に他人名義で奥平容疑者の旅券を申請、交付させたとして逮捕された。

 同年3月23日、東京地裁・高麗邦彦は、和光に無期懲役を言い渡す。(ダッカ事件では立件されていない)

 2006年10月6日、東京地裁でハーグ事件、ダッカ事件に関与した西川に対する求刑公判。検察側は「市民社会の自由と安全を根底から脅かした国際テロで、わが国の国際的評価を著しく傷つけた」として、無期懲役を求刑。

 2007年3月30日、東京地裁・青柳勤裁判長は「独善的、反社会的な犯行でテロリズムによる法秩序への攻撃は断じて許されない」として、西川に求刑通り無期懲役を言い渡した。西川の公判は75年に始まっていたが、出国により中断されていた。そのため初公判から実に31年目の判決となった。

 同年4月18日、爆発物不法所持事件で米国で服役中だった菊村憂(当時54歳)が刑期を終えて出所。国外退去処分を受け、翌19日午後に成田空港に着いたところを警視庁公安部に偽の国際運転免許証を使用したとして逮捕された。

 同年5月9日、和光の控訴審で、東京高裁・植村立郎裁判長は無期懲役とした1審東京地裁判決を支持、控訴を棄却。


リンク

wikipedia 「日本赤軍」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%B5%A4%E8%BB%8D

wikipedia 「中東戦争」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%B1%E6%88%A6%E4%BA%89

警察庁 「重大事件等を展開した日本赤軍その他のテロリスト」(手配写真など)
http://www.npa.go.jp/kouhousi/biki2/sec02/sec02_05.htm


≪参考文献≫

朝日ソノラマ 「朝日新聞記者の証言3 公安記者の戦後史」 鈴木卓郎
河出書房新社 「文藝 2000年秋号 緊急特集 赤軍 RED ARMY」
河出書房新社 「現代日本殺人史」 福田洋・著、石川保昌・編
河出書房新社 「怒りていう、逃亡には非ず 日本赤軍コマンド泉水博の流転」 松下竜一
河出書房新社 「狼煙を見よ 東アジア反日武装戦線”狼"部隊」 松下竜一
KKベストセラーズ 「法廷絵師は見た!」 大橋伸一 
現代評論社 「日本赤軍を追え 中東記者15年の取材ノート」 高木規矩郎
幻冬舎 「りんごの木の下であなたを産もうと決めた」 重信房子
コアマガジン 「実録戦後女性犯罪史 日本毒女たちの凶状録」
講談社 「昭和 二万日の全記録 第16巻 日本株式会社の素顔」
講談社 「週刊日録20世紀 1972」
講談社 「蜂起には至らず 新左翼死人列伝」 小嵐九八郎 
講談社 「秘密 パレスチナから桜の国へ母と私の28年」 重信メイ 
講談社 「日本警察の解剖」 鈴木卓朗
講談社 「全学連と全共闘 戦後学生運動の軌跡」 高木正幸
講談社 「過激派学生 何が彼らをそうさせたか」 中川友吉
講談社 「歴史エンタテインメント 昭和戦後史 下 崩壊する経済大国」 古川隆久
彩流社 「永田洋子さんへの手紙 十六の墓標を読む」 坂東国男
彩流社 「赤軍派始末記 元議長が語る40年」 塩見孝也
彩流社 「戦中生まれの叛乱譜 山口二矢から森恒夫」 田中清松
作品社 「犯罪の昭和史 3」 作品社・編
三一書房 「過激派壊滅作戦 公安記者日記」 滝川洋
潮出版社 「連合赤軍 この人間喪失」 読売新聞社会部 
時事通信社 「時事ニュースワード2001」
社会思想社 「20世紀にっぽん殺人事典」 福田洋 
序章社 「序章 9 三戦士追悼特集」
新人物往来社 「別冊歴史読本 反逆者とテロリストの群像 謎と真相」
新人物往来社 「銃口は死を越えて 岡本公三裁判全記録」 徳岡孝夫
神泉社 「『赤軍』ドキュメント 戦闘の黙示録」 査証編集委員会編 
神泉社 「新左翼二十年史 叛乱の軌跡」 高沢皓司 高木正幸 蔵田計成
神泉社 「公安警察(マルコー)ナンボのもんじゃ」 丸岡修
新潮社 「週刊新潮 06年2月23日特大号」
新潮社 「週刊新潮 07年1月4・11日号」
新潮社 「消されかけたファイル」 麻生幾
青弓社 「脱獄者たち 管理社会への挑戦」 佐藤清彦 
大洋図書 「日本震撼事件 戦後殺人ファイル100」 日高恒太朗
宝島社 「別冊宝島 実録完全犯罪 暴かれたトリックと意外な『真犯人』」 
宝島社 「別冊宝島 昭和・平成 日本テロ事件史」 
宝島社 「別冊宝島 日本の右翼と左翼」
宝島社 「日本の『未解決事件』100」
立花書房 「極左暴力団・右翼101問」 警備研究会
東京法経学院出版 「明治・大正・昭和・平成 事件犯罪大事典」 事件・犯罪研究会・編 
図書出版社 「増補版 事件百年史」 楳本捨三
図書出版社 「日本テロリストの系譜 暗殺百年史」 森川哲郎
土曜美術社 「新左翼三十年史」 高木正幸
日本文芸社 「歴史を動かした昭和史の真相200」 保阪正康
話の特集 「十年目の眼差しから」 重信房子
芳賀書店 「滝田修評論集 ならずもの暴力宣言」 滝田修
文藝春秋 「『昭和』の瞬間」
毎日新聞社 「シリーズ20世紀の記憶 連合赤軍”狼”たちの時代 1969−1975 なごり雪の季節」
読売新聞社 「赤い雪 ドキュメント総括/連合赤軍事件」 角間隆



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