ホテル日本閣事件




【事件概要】

 1960年から61年にかけて、栃木県の塩原温泉郷にあるホテル日本閣の経営者・生方鎌助(53歳)とその妻・ウメ(49歳)が失踪するという事件が起きた。まもなく2人を殺して埋めたとして、同ホテル共同経営の小林カウと雑役・大貫光吉が逮捕された。カウは逮捕後、前夫を毒殺したことも自白、1970年死刑が執行された。戦後初の女性死刑執行者だった。


小林カウ
大貫光吉



【商い】

 1908年、埼玉県大里郡玉井村(現・熊谷市)の農家に生まれた。カウの家は集落の中では旧家だったが、例によって貧窮な家庭だった。カウは7人兄弟の5番目の次女(※)。小学校を4年で終えて、5年ほど家事を手伝い、やがて都会に憧れて東京・本郷の旅館に女中奉公に出た。

※7人兄弟・・・・「戦後女性犯罪史」(東京法経学院出版刊  玉川しんめい著)では8人兄弟とある。

 やがて東京で垢抜けた姿で玉井村に戻ってきたカウは一際目立つ女だった。1930年、カウ22歳の時、熊谷の在に嫁いだ姉の口利きで、新潟県柏崎市出身の林秀之助(当時27歳)と見合い結婚した。秀之助は身長160cmもない貧弱な体格で、青黒いような顔をした青年だった。結婚してみると、秀之助は慢性胃腸病と慢性淋病の持つ主で、カウは性的にも満足が得られなかった。夫婦で熊谷市中で雑貨商を営んでいた1931年、長男が誕生するがまもなく死亡。その翌年には長女が誕生した。

 そのうち商売がうまくいかなくなり、夫婦は熊谷を離れ、東京近辺を転々とした。この間、戦争が本格化し、秀之助も年ながら兵隊にとられるが、体を壊して戻ってきた。以来、秀之助は気力のない中年男になっていた。
 戦争が終わると、夫婦は熊谷に家を建て、自転車のタイヤのブローカーをする傍ら、ゴム、米、砂糖などの禁制品も扱い始める。
 またカウは内職的に菓子の五家宝(※)づくりを手がけた。さらに観光地向けの辛子漬や芋のつるの砂糖漬の土産物製造卸売りを始め、病みがちな夫に代わって、カウの働きで生計が支えられていた。この頃からカウは金を稼ぐ楽しさを知り、物欲が強まっていった。

※五家宝・・・・上野国(群馬県)五箇村の人が初めて製したといわれる〕もち米を蒸して干し、炒ってふくらませたものを水あめで固めて棒状にし、青きなこをまぶした菓子。今は埼玉県熊谷市の名産。

 精力旺盛なカウは愛人づくりもマメであり秀之助はそれに気づいていたが黙認していた、という説もある。

 ある時、近くの交番の若い巡査が戸口調査簿を手に小林家にあらわれる。この男の名は中村又一郎(当時25歳)。独身ですらりとした男前だった。闇物資を扱うカウの家では、この訪問は何か気味が悪い。それまでにも闇物資を警察に取り締まられたことがあった。そこでカウはこの中村巡査に手厚いおもてなしをした。中村は気をよくして、親しくカウの家を出入りするようになった。当初、カウは中村を娘の婿に、と考えていた。ところが欲望が満たされていくなかで唯一性的な満足がなかった40代の女と、おもてなしを好意と受け取った20代の男、そんな2人の関係ができあがってしまうのに時間はかからなかった。14歳で手淫を覚えるものの、秀之助と一緒になってから性的な快感を味わったことのなかったカウは中村に夢中になっていった。後にカウは
「わたしゃ中村又一郎で恋を知った。今でも好きです」
と供述している。恋に夢中になったと言っても、関係した後「今度、取締りの時は教えてね」と中村に言うなど打算的なことも忘れなかった。

 その後も2人の関係は続き、カウは中村と一緒になりたいと考える。秀之助に「財産は何一ついらないから。暇をもらいたい」と頼んだが、聞き入れられなかった。そこで中村が「いっそあんたの実家に逃げ出せば、秀之助も諦めるだろう」と助言すると、本当に兄の家に逃げ出したりもした。
 
 1952年10月2日、秀之助が突然異様な唸り声をあげて死んでしまった。その声にびっくりした隣人が駆けつけると、カウは夫の死に顔を撫でていたという。秀之助のかかりつけの医師は、保健所の医師立会いの元で脳出血と診断した。カウ夫妻はたびたび派手な喧嘩をしていたことから、近所でもその死を疑う噂が流れたりしたが、熊谷署は捜査を打ち切った。(以下、この変死事件を「熊谷事件」とする)

 その後まもなく、カウは中村を家に引き入れて同棲を始める。中村は以前からその行状が上司に知られており11月6日に懲戒免職となった。カウは年下の中村を惹きつけておくためには経済力が必要と、ますます商売に精を出し、翌年中村の家に移り、辛子漬の製造を続けていた。、両人は当時20歳だったカウの娘と折り合いが良くないという理由もあった。しかし、そんな同棲生活も2年で終結する。中村は母親ほどの女性に嫌気がさしたのか、カウを追い出し、若い娘と結婚したのだ。カウは中村の新居の表戸を蹴り続け、新しい妻に毒づき、転げ回って悔しがった。この時、中村はなぜかカウから手切れ金をもらっている。

 一方、カウの方は辛子漬の製造卸を姉の一家との共同事業にしていた。姉の家を製造工場にして、カウは卸の外交を受け持っていた。カウの積極的な気性もあって商売は順調にいったようだ。カウは近県の温泉地をまわり、1954年、本事件の舞台となった栃木県・塩原温泉郷に初めてやってきた。


【日本閣の女主人】

 塩原にやってきたカウは土地の人ともすぐ馴染んで、品物もよく売れた。また、道々で知り合った人の家に泊めてもらう気安さで、宿屋を使う不経済はしなかった。カウは塩原がすっかり気に入った。
 
 1956年春、カウはホテル明賀屋前の小店を一軒、1年分の家賃をポンと前払いして借り、「那珂屋物産店」の看板をあげた。ここでカウは最初の一旗をあげた。カウの商売魂はおさまらず、翌年春には隣りの店を買いとって、小食堂「風味屋」をひらいた。そちらの仕事は姉夫婦にやらせた。カウは店の売上は伸び、銀行預金を増やし、土地も買い、資産300万円ほどになっていた。成功を手にしていながら、カウはさらに上を見る。「温泉宿をひとつ持ちたい」と思うようになった。旅館の仕事ならば女中奉公のキャリアがあるし、女主人はカウの理想であるステイタスだった。
 しかし、古いのれんを誇る塩原に新参者のわりこめるような所はなかった。この時、カウは見ようによっては30代に見えなくもないが、すでに50歳に達していた。カウはあせっていた。
 
 1958年秋、カウは「ホテル日本閣」が安値で売りに出ていることを知る。ホテル日本閣は名前こそ立派だが、実際は三流クラスの小旅館だった。この日本閣が経営不振で3、400万円で投げ出すという噂があり、カウは飛びつくように交渉した。しかし、主人である生方鎌助にまるで売る気はなく、話はいったん立ち消えた。

 生方鎌助は温泉番頭などを経て、1957年春、ホテル日本閣の看板を掲げた。しかし、やや強引に開業してしまったために温泉組合からはじき出され、引き湯の権利がとれなかった。自費で送湯管を敷いたが湯が冷えて、ボイラーで沸かしなおした。当然ながら、経営は厳しく、閑古鳥はなくばかりだった。鎌助はおかげで一時気がおかしくなり、宇都宮の精神病院に入院した。58年夏に退院したが、誇大妄想に悩まされるようになっていた。

 いっそのこと温泉宿は廃業にして出なおそう、と鎌助の妻・ウメは言った。しかし、鎌助は聞かず、創価学会のご利益に頼って、59年春には新館の増築にかかった。だが途中で資金が尽き、未完成のみっともない姿に壊そうにも金がかかり、鎌助は途方にくれることになった。ここで鎌助は前年交渉にきたカウを思いだし、すぐに融資をもちかけた。この時の条件は「妻・ウメに対する手切れ金50万を出してくれれば、後釜に迎えてやる」というものだった。カウは「50万で温泉旅館の内儀さんの座が買える」とこの生方鎌助という男に賭けてみる事にした。しかし、手切れ金を30万に下げたところ、ウメは50万円を譲らなかった。「どうせウメは承知しないだろう、こうなれば一文も手切れ金をだすのが惜しい」とカウはウメ殺害を考えた。

 1960年1月中旬、カウは日本閣の雑役をしていた大貫光吉(当時36歳)にウメ殺害を命じた。「手間賃2万円、成功したら抱いてやる」と言ってカウは大貫の手をとり股にはさんだ。女ッ気のほとんどない大貫は思わずうなずいた。

 2月8日、怖くなり殺害を躊躇しつづけていた大貫に、今度は鎌助が励ましの言葉をかける。
「ウメは体が弱っていて、ちょっと絞めればイチコロだから、今夜は間違いなくやってくれよ」
 そしてこの夜、大貫はひとり寝ていたウメを首を麻紐で締めて殺した。遺体は大貫がさらに手間賃1万円を受けとって、元ボイラー室の土間を掘って埋めた。

 塩原の町では「ウメさんは殺された」という噂が流れ始めた。噂を聞いた大貫はボイラー室の床をコンクリートで塗り固めた。すると今度は「ボイラー室で埋められている」という噂が流れ、3人はうろたえた。3月中旬、3人はコンクリートの床を再び掘り返し、遺体を裏の林の中に運んで埋めなおした。

 そうして何くわぬ顔で日本閣の増築工事は再開された。


【鎌助殺し】

 1960年の大晦日、日本閣の帳場の炬燵で3人はテレビを見ていた。午後5時過ぎ、カウは夕食の仕度で台所に立ち、忍び足で戻ると、背後から鎌助の首を細引で絞めつけた。そこへ大貫が鎌助にとびかかる。カウの持っていた細引がぷつんと切れ、そこで大貫は鎌助を押し倒し首を絞めた。カウが包丁を差し出すと、大貫は必死に抵抗する鎌助の首に刺し、殺害した。そのまま元日がおとずれ、年賀の客がやってきた。カウはこの時、「鎌助さんは東京に金策に行きました」と話した。

 事件前の11月、カウは大貫に鎌助殺害を持ちかけていた。今度は報酬とホテル日本閣の亭主というエサで釣って大貫にやらせた。まず、毒殺と決めて計画し、12月中旬、塩酸を鎌助の食事や酒に混ぜるも、味がきつすぎたのか吐き出して失敗していた。

 そもそもカウが鎌助までを殺すことになったのは、ウメ殺害直後、登記所に行ってみたら自分の名義になってるはずの新館が旧館とともに近々競売にかけられることになっていたからである。増築などで200万を注ぎ込んでいたカウは「騙された」と思い、鎌助への殺意を固めた。

 鎌助殺害後、町では前よりも実しやかな噂が流れていた。新聞もこの旅館経営夫妻の失踪を取り上げ始めた。
 2月20日、ついに小林カウと大貫光吉は逮捕となった。この時、カウ52歳、それでも小太り丸顔でチャーミングなところがあったという。


【秀之助殺し】

 逮捕されたカウは、前の夫・小林秀之助が変死した熊谷事件についても追求された。カウは当時の愛人・中村と共謀して、毒殺したことを認めた。話によると、中村に「亭主をやっちゃおう」と青酸カリをもらい、秀之助に風邪薬と偽って飲ませたのである。(しかし、公判が進むにつれ、カウは証言を翻した。1審の6回公判では「青酸カリは受け取ったが、川に捨てたので殺していない」、20何回目かの公判では「中村に精力剤だと言ってたのをもらい、セックスの弱い夫に飲ませたところ死んだ」と言っている)

 中村がどこで青酸カリを手にすることができたのかも調べられ、あるメッキ工場主が制服巡査に青酸カリを渡したことがある」と証言したが、10数年前のことで、中村かどうかはわからなかった。中村は最初から最後まで容疑を完全に否定した。

 カウは逮捕後も男好きの病気は治らず、取調官に「死刑だけはかんにんしてね」と愛嬌をこめて言ったりしていた。


【裁判】

 1966年7月14日 最高裁、カウと大貫に死刑を言い渡す。中村は証拠不充分で無罪となった。

 1970年6月11日、小林カウは東京の小菅刑務所において死刑執行された。享年61。戦後の女性の死刑はカウが第1号であった。(女性の死刑の確定は3人目だが、前の一人は恩赦を受け、もう一人は獄中で死亡)


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≪参考文献≫

アスペクト 「実録 戦後殺人事件帳」
旺文社 「ドキュメント女たちの殺意」 丸川賀世子
角川書店 「死刑囚の最後の瞬間」 大塚公子
笠倉出版社 「江戸・明治・大正・昭和・平成 日本の女殺人犯101」 日高恒太朗 
河出書房新社 「犯罪専科」 小沢信男
河出書房新社 「図説 現代殺人事件史」 福田洋・著 石川保昌・編
コアマガジン 「実録戦後女性犯罪史 日本毒女たちの凶状録」
作品社 「犯罪の昭和史 3」 作品社・編
三一書房 「毒殺は完全犯罪をめざす ミステリーのための毒殺読本」 和田はつ子
潮出版社 「殺意は看護婦を抱きながら 昭和猟奇情痴事件簿」 草野唯雄
社会思想社 「20世紀にっぽん殺人事典」 福田洋 
春秋社 「<物語>日本近代殺人史」 山崎哲
新人物往来社 「別冊歴史読本 なぜ悪女なのか 毒婦と呼ばれた女たち」 
新人物往来社 「別冊歴史読本 殺人百科データファイル」
新人物往来社 「別冊歴史読本 新・殺人百科データファイル」
新潮社 「週刊新潮別冊 黒い報告書」
新潮社 「新潮45 06年10月号」
清風書房 「死刑囚の記録 明治・大正・昭和・百年の犯罪史」 日本犯罪心理研究会・編
潮文社 「完全犯罪 ある捜査官の記録」 成智英雄
大洋図書 「日本震撼事件 戦後殺人ファイル100」 日高恒太朗
宝島社 「別冊宝島 殺人百貨店 日本人はどういう理由で人を殺すのか?」
東京法経学院出版 「犯罪調書 ●17の事件簿」 笠銀作 
東京法経学院出版 「事件犯罪大事典」 事件犯罪研究会・編
東京法経学院出版 「戦後女性犯罪史」 玉川しんめい 
徳間書店 「殺人百科 part2 陰の隣人としての犯罪者たち」 佐木隆三 
日本文芸社 「元刑務官が明かす 女子刑務所のすべて」 坂本敏夫
富士出版 「秘蔵本 闇の花 戦後の事件史」 小田中潜  風俗資料研究会・編 
二見書房 「日本中を震えあがらせた恐怖の毒薬犯罪99の事件簿」 楠木誠一郎
ライブ出版 「悪女たちの昭和史」 松村喜彦


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