成田闘争




【事件概要】

 1962年11月、池田内閣は第二国際空港建設を閣議決定し、その場所は最終的に千葉県成田市三里塚地区に決定された。これに対し、反発した地元の農民らが「三里塚空港反対同盟」を組織し 新左翼活動家もこの闘争に加わった。”抵抗”と”排除”の衝突は繰り返されたが、78年5月に成田空港はついに開港。ただその後も闘争は終らなかった。


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【迷走 〜新空港建設〜】

 高度経済成長によって航空輸送の需要は国際線、国内線ともに急増すると予測され、羽田空港が手狭となり、大空港建設が余儀なくされた。
 そこで池田勇人内閣は62年11月、第二国際空港建設を閣議決定したが、建設予定選択に関しては難航した。63年12月には、霞ヶ浦、千葉県富里村が候補地として選定された。

 1965年11月、ボーリング調査の結果、霞ヶ浦は「不適当」となる。このため佐藤栄作内閣は候補地を富里村に内定したが、村議会は「絶対反対」と満場一致で可決、友納・千葉県知事も「事前の相談がない」とこれに反発した。佐藤首相は改めて成田市三里塚を候補地に挙げた。

 1966年2月7日、富里・八街新空港反対同盟のデモ隊1500人が千葉県庁に突入。この後も反対派の集会などがあった。
 同年6月、自民党の空港問題協議会は、木更津沖の新空港建設を促進。しかし中村運輸大臣は「富里案」にこだわった。中村大臣は「木更津案」は航空管制上困難であることを説明した。そして成田市三里塚地区が新たな候補地として浮上、川島副総裁は友納知事にこの案を提示した。

 7月4日、三里塚地区に「新東京国際空港」を建設することが閣議決定された。そして同月30日には「新東京国際空港公団」が発足した。新国際空港の開港予定は71年6月をめざし、 が始められた。
 こうした動きについて三里塚の農民達にはなんの相談もなく、早速反対運動の狼煙が上がった。6月28日に「三里塚空港反対同盟」(委員長・戸村一作)が結成された。同組織はピーク時には1000世帯、3000人を動員した。委員長の戸村氏は敬虔なキリスト信者である画家彫刻家だった。

 一方で「条件次第では賛成だ」という農民131人は、9月に「成田空港対策部落協議会」を発足させている。

 8月、「一坪運動」が始まる。

 9月12日、公団は用地買収価格を畑地10アールあたり110〜60万円」と正式決定。

 10月2日、三里塚、芝山の農民を中心とした4000人が「三里塚新国際空港撤回・公団撃退総決起大会」を開く。
「われわれは、あらゆる困難や不当弾圧に屈せず、政府・県・公団が空港建設を破棄するまで闘い抜く」

 11月16日、佐倉簡易裁判所は、一坪運動に対して、即決和解手続きを認可。

 農繁期、農閑期ともに闘争は続いた。「老人決死隊」「婦人行動隊」「少年行動隊」も結成され、高齢者、女性、少年らも闘争に加わった。


【抵抗 〜立ち上がる農民〜】

 1967年8月15日、千葉市内で、三里塚空港反対、強制測量実力阻止8.15平和集会」の後、反対派農民が県庁に座りこんだ。少年行動隊が副知事に作文を読み上げ、婦人行動隊も「戦災に遭い、夫に死なれた三里塚にやっと土地を見つけたんだ」と叫んだ。

 10月10日、空港公団は外郭線の杭打ちを、2000人の警官に守られ強行。反対派1万2000人が初めての座りこみ闘争を行なった。この時、「敵前逃亡」したとされる日本共産党・民青が絶縁されている。

 11月3日、空港粉砕総決起集会。初めて全学連が参加した。自分たちが開拓した土地と生活を守る闘いは、この学生運動家の支援により、長期化するなかで反権力・反体制闘争にその姿を変えていった。


 1968年2月26日、三里塚・芝山連合新国際空港反対同盟、反代々木三派全学連共闘の「三里塚空港実力粉砕、砂川基地拡張阻止二・二六現地総決起集会」が市営球場で開かれ、約1600人(反対同盟700人、学生900人 成田署調べ)が参加、午後3時25分から市内デモに出発した。農民団体が、反代々木系全学連と共闘したのはこれが初めてだった。この衝突で155人の負傷者。学生を助けようとした戸村一作氏も警棒で頭を殴られ重傷を負った。
 学生側は公団分室の実力封鎖を目的としており、警備隊はこれを阻止しようと、激突。双方に約40人の負傷者を出した。

 3月10日、市営球場で反対集会。三派系全学連が、公団事務所前で警官隊と激突した。報道陣を含む約500人が負傷し、逮捕者198人。
 さらに31日、公団分室のある成田市役所にデモ隊の一部が突入をはかり、警官隊とぶつかった。

 4月6日、公団と、空港用地買収の条件賛成派4団体の調印式が行なわれ、中曾根運輸相もこれに立ち会った。これで用地の86%が買収可能となった。


 1969年7月、公団は手紙による説得作戦を開始。

 10月24日、空港建設工事にブルドーザーが搬入されたが、11月にはブルドーザー阻止で戸村委員長ら13人が逮捕された。


【排除 〜強制収用代執行開始〜】

 1970年2月14日、新東京国際空港公団は、空港建設に反対し続けている三里塚・芝山連合空港反対同盟農民の土地に対し、土地収用法に基づく立ち入り調査の通告書を電報で送ると発表した。なんとか1973年4月開港にこぎつけようとする強制的な手段であった。
 対象となった土地は4000m滑走路予定地北側の約1500u。この土地は一坪運動共有地で、前年12月26日の県の土地収用委員会から権利取得、明け渡し採決が出ていた。

 強制収用代執行は22日午後0時55分に開始された。約200人のガードマンに守られた県と国際空港公団職員の行進。警視庁、千葉県警、神奈川、埼玉の関東管区の各隊計2900人が調査守護に動員された。
 反対同盟は丸太でバリケードを築き、もんぺ姿の婦人行動隊は「公団が木を倒すなら人間も一緒に」と、立ち木に2人ずつ抱き合う様に鎖で身体を縛りつけて死守していた。
 代執行は3月25日に終了。この間に警官含め1000人以上が負傷、487人が逮捕された。

 10月7日、公団は用地取得に「特別措置法」を適用すると発表。


 1971年1月13日、小川反対同盟副委員長が心筋梗塞のため死去。

 1月23日、反対同盟と友納知事が第1回会談を行なう。

 2月24日には少年行動隊がガードマンと衝突し、ガードマンが子どもに警棒で怪我をさせたので問題になったりもした。

 2月27日、友納知事は”休戦”を発表。

 7月26日、農民放送搭などの撤去作業が行なわれ、投石などで抵抗した学生179人逮捕。


【衝突 〜東峰十字路警官殺害事件〜】

 1971年9月16日、成田空港建設地の第2次強制執行で、「日大」「BUND(ブント)」などと書かれた旗、垂れ幕、看板の立てられた砦にブルドーザーが迫った。

 東峰十字路付近で警官隊と反対派、過激派学生が衝突。神奈川県警・福島誠一警部補(47歳)、柏村信治巡査部長(35歳)、森井信行巡査(24歳)が、火炎瓶や鉄パイプで攻撃され死亡した。12月、この事件に関して一斉検挙が始まる。121人が逮捕された。

 この事件について戸村委員長は次のように言明した。
「きょうの学生たちの行動は、決してわれわれ反対同盟の方針から跳ね上がったものではなく、われわれと一体となって戦ったものである」

 強制執行の方は、20日に”最後の砦”小泉よねさん(当時63歳)宅も排除。よねさんは機動隊員に抱えられ外に連れ出された。民家に対する強制執行は初めてだった。

 10月1日、反対同盟青年行動隊の男性(22歳)が、自宅近くの山林で首吊り自殺。


【撤去 〜岩山大鉄塔を守るたたかい〜】

 1972年3月15日、着工滑走路南端に岩山大鉄塔が、4月には4000m滑走路が完成した。


 1973年3月23日、成田空港近くの吉倉橋梁が爆破され、付近の民家も被害。
 同年12月17日、成田空港反対派のシンボル的存在だった小泉よねさん(66歳)が死去。


 1977年はじめ、福田首相は成田空港の年内開港を関係当局に強く指示。
 1月19日、当局は機動隊は使い、岩山に反対同盟と支援党派が建設した大鉄塔破壊のための本格的な道路建設作業に着手。

 4月17日、鉄塔撤去粉砕集会に約23000人が参加。5月6日に岩山大鉄塔は撤去された。

 5月8日、空港周辺で機動隊と反対派が衝突。反対同盟支援のタクシー運転手・東山薫さん(27歳)が頭部に重傷を負い、10日に死亡した他、警官130人、反対派327人が負傷した。
 東山氏の死因については、反対同盟・弁護側の主張する「機動隊のガス銃水平撃ち」と、警察側の「反対派の投石が後頭部にあたり死亡」というもので争われた。千葉地裁は反対同盟側の機動隊員に対する告発を不起訴とした。

 5月9日、芝山町長宅前臨時派出所が襲撃される。全身に火傷を負った岡田巡査部長(30歳)が21日に死亡、5人が重軽傷を負った。この事件は、犯人が特定されず、1992年に時効が成立した。

 11月25日の閣議では、「年内開港――1978年3月30日を開港日」と決定。

 12月27日、第1期工区内でただ一つ残っていた小泉英政さん所有の農地を、一家の座りこみを排除して強制収容。
 

 1978年2月6日、千葉県警などは早朝から成田空港第二工事区内にある反対派の鉄塔、「要塞」の撤去を始める。この作業は、反対派から火炎瓶、投石などの激しい抵抗にあり同日深夜までもつれこんだ。
 午後10時頃、クレーン車のアームで要塞の壁を破って突入、立てこもっていた反対派の学生、農民ら41人を逮捕した。しかし、翌朝になっても3、4人が鉄塔にはりつき抵抗を続けた。


【開港 〜管制塔ゲリラ、開港延期へ〜】

 同年3月26日、過激派が空港内14ヶ所で一斉蜂起。第四インターをはじめとする戦旗・共産同、プロ青同などのゲリラ20名は威嚇射撃をくぐって、空港地下排水溝から空港内に侵入し、管制塔の管理ビルに突入した。そして10人が中央管制塔を占拠した。ゲリラは無線など機器などを破壊し、115人が逮捕された。
 逮捕者の内訳は公務員・公共企業体職員25名、労働者96名、残りが高校生を含む学生だった。うち1人は火炎瓶トラックで突入した際の火傷が原因で後に死亡している。また逮捕者14名は航空危険罪を初適用となった。
 
 管制塔事件により開港延期が決定。

 5月5日午前3時半頃、千葉県酒々井町の京成電鉄操車場で、空港特急スカイライナー4両が放火され全半焼。

 5月13日、「新東京国際空港の安全確保にかんする緊急措置法(成田新法)」が施行される。

 5月20日午前0時、ついに開港。開港のセレモニーは一切とりやめ、ターミナルビル内で関係者52人だけの簡素な式典を行って祝った。
 ところがこの日、所沢市の東京航空交通管制部に通じる電電公社の地下ケーブルが3ヶ所にわたって切断され、同管制部の対空通信や管制用レーダーなどの通信機能がストップ。被害は他の空港にまで及び、国内の主要空港は午前中いっぱい発着不可能となった。

 21日午前8時34分、成田空港にロサンゼルス発日航貨物便が無事着陸し、業務を開始した。旅客一番機はフランクフルト発日航便で、午後0時4分に到着した。出発一番機は22日のサイパン・グアム行きであった。
 だが空港周辺はまだ反対派が赤旗を振るなど不穏であり、このため「新空港を使わずに海外旅行をする方法」というのがマスメディアでよく取り上げられた。

 成田空港は当初予定されていた3本の滑走路のうち、完成していたのは4000m滑走路だけ。2500mの平行滑走路と3200mの横風用滑走路は土地の買収が進まなかった。ただこの4000m滑走路もアプローチエリア750mを含むため、実際は3250mしかなかった。しかも首都圏から66km離れているという立地の悪さに、一部では評判が悪かった。

 6月4日、成田市は市内48ヶ所で行なった騒音測定の結果をまとめる。最高103ホンを記録した。

 6月10日、空港反対派を支援した過激派が妨害用気球3個を打ち上げたため、空港当局は約20分空港を閉鎖。

 9月16日、反対派約800人が、「たいまつデモ」を行ない、着陸体勢に入った航空機に花火を命中させる。

 9月17日、反対同盟は7200人(うち新左翼活動家4700人)を集めて集会を開く。



 1979年10月10日、国鉄成田線のジェット燃料輸送電車が、千葉県下総町で過激派に襲われ、機関車の計器が破損して運転不能となる。

 11月2日、成田闘争のまとめ役であった反対同盟委員長・戸村一作氏が悪性リンパ腫のため死去。享年70。戸村氏は国立ガンセンターに移る10日前にも「根底から空港をぶち壊していくまで、三里塚闘争は決して消え去りませんよ」と闘志を見せていたという。


 1980年9月1日午前、成田空港内の給油タンク近くの駐車場で、車4台が燃えているのが見つかった。発見直前の9時45分頃、空港に「空港中心部に爆弾をしかけた。1時間後に爆発する。すべての航空機の発着を中止しろ」という電話があった。空港内でのゲリラはこれで3件目。

 
 1982年3月28日、総決起集会に6500人と最大の参加者。開港しても闘争は鎮まるどころか、新たな盛り上がりを見せた。
 だが政府側の裏交渉や、運輸省、空港公団との接触の表面化で、2月に石橋政次委員長代行、内田寛一行動隊長、石井英祐事務局長、11月には島寛政事務局次長がそれぞれ役職を辞任している。いずれも反対同盟を代表する農民のリーダーだった。


 この役職辞任の問題をめぐり、反対同盟と支援党派、とくに青年行動隊と中核派の対立が深刻なものとなった。
 1983年3月8日、反対同盟は熱田派(第四インター、戦旗・共産同、プロ青同など支援)と、北原派(中核派、解放・狭間派など支援)に分裂。
 また同日午後11時20分頃、葛飾区高砂、京成電鉄高砂車庫脇の跡地で、トラックが燃えているのをパトロール中の警官が見つけた。
 まもなく火はけしとめられたが、車庫のスカイライナー前面ガラスが3枚割れた。燃えたトラックのホロには「中核」と切りぬかれたトタン板があり、管制塔事件から毎年開かれる「3.27〜」におけるゲリラと見られた。13日、警視庁公安部は本拠「前進社」を家宅捜索。

 6月7日未明、千葉県四街道市の東鉄工業千葉支店物井営業所事務所が時限放火装置により全焼。作業員2人が焼死、1人やけど。一般人の巻き添えは初めてだった。この会社は航空燃料用パイプライン敷設工事中だった。


 1984年4月、中核派が、成田空港と羽田空港に迫撃砲弾を撃ちこむ。弾は重さ6kg、飛距離1km以上あり、弾道を安定させるための羽が4〜8枚つけられていた。

 9月10日未明、成田空港改稿の見かえり事業である成田用水事業の施行業者3社の事務所、資材置場に放火、汚物が撒かれる事件があった。
 八日市場市の建設会社資材置場が放火され全焼。佐原市の建設会社にはバキュームカーが乗りつけられ、ホースで汚物がまかれた。また残る1社の資材置場でも放火があり、報道機関に「共産同 戦旗派」をを名乗る男から犯行声明があった。

 9月13日、芝山町の土建会社倉庫に不審なリュックが置かれているのが見つかる。名かには乾電池と布きれがはいっていた。また佐原市の別の会社にもショベルカー、ブルドーザーの運転台に時限発火装置のようなものが置かれているのが見つかった。
 
 9月19日、自民党本部炎上事件。二期工事開始発言に対しての攻撃であったとされる。


 1985年4月12日午後8時ごろ、成田空港の西側農道に駐車中の普通貨物自動車の2台から空港に向けて、10発の爆発物が発射され、約1km離れた旧工事局駐車場に発射して、駐車中の車両が大破した。

 9月29日、芝山町で成田空港反対のデモ隊が機動隊と衝突。女性15人を含む75人が逮捕された。

 10月4日、警官3名が死亡した東峰十字路事件で、千葉地裁は傷害致死、凶器準備集合、公務執行妨害などに問われていた反対同盟55名のうち52人に執行猶予付の2〜3年の有罪判決を言い渡し、2人を「当日の行動を認める証拠がない」と無罪にした。 被告も反対同盟分裂を受けて、北原派3人、熱田派52人にわかれていた。北原派は控訴したが、熱田派は控訴を取りやめた。


【10.20成田闘争事件】

 1985年10月20日、三里塚芝山連合空港反対同盟北原グループ、中核派が、三里塚第一公園に「10.20全国総決起集会」を開き、約4000人が参加した。当初は集会後にデモ行進するだけであったが、海上内にはダンプカー3台分の火炎瓶などの凶器が運び込まれた。
 その後、中核派、戦旗・両川派など約600人が、鉄パイプ、丸太棒などで武装し、三里塚十字路で警戒に当たっていた警視庁機動隊と衝突。過激派活動家241人が逮捕された。これは開港後では最も激しい武装闘争となった。

 11月4日付の中核派機関紙「前進」には次のような文が掲載された。
「10.20決戦の勝利によって労働者階級人民の総決起を機軸に、革命軍の革命的ゲリラ・パルチザン戦争と大衆的武装闘争を相乗的に発展させるたたかい、先制的内戦戦略の高次段階(フェーズU)の真価を発揮する過程に突入したということである」


【終りなき闘争、さらなる過激派の暗躍】

 1986年11月26日、建設予定のもう1本の滑走路の二期工事開始。


 1987年3月14日、千葉、埼玉、茨城各県と東京都内の成田空港工事請負会社の事務所や作業員宿舎など5か所で時限式爆発物による同時爆破事件が起こり、建物、窓ガラスを破壊した。中核派が犯行声明を出す。新型飯盒を使った爆発物だった。

 同年5月22日、埼玉県大宮市(現・さいたま市)の大成建設機材センターの更衣室ロッカーで爆発。天井などを壊した。時限式爆発物によるもので、中核派が犯行声明を出した。

 同年9月4日、反対同盟の北原派から小川派が分裂。最終的に反対派は三派に分かれたことになる。

 同年11月27日、木の根団結砦、撤去される。成田新法、初の適用だった。


 1988年3月17日午後8時7分ごろ、千葉県千葉市の新東京国際空港燃料パイプライン第4バルブ保安設備室南側金網フェンスに消火器爆弾が仕掛けられ爆発。金網フェンスや、簡易トイレなどを破壊した。
 この事件について革労協(挟間派)が、「わが革命軍は成田ジェット燃料輸送パイプライン保安設備室に対して革命的攻撃を敢行し、徹底爆破した。ジェット燃料輸送パイプラインは、成田空港機能の維持にとって、決定的戦略的生命線である。日帝・公団による三里塚二期強硬攻撃に対する本格的武装による革命的回答である」というビラを配り、犯行を自認した。

 同年9月21日夜、千葉市内の路上で、帰宅途中の千葉県収用委員会会長で、弁護士の小川彰氏がフルフェイスのヘルメットをかぶった数人に襲われる。小川弁護士は全身を鉄パイプで殴られ、両足と左腕を骨折するという重傷を負った。
 2日後、中核派からの犯行声明が報道機関に届く。
「デモ、手紙、電話を集中し、辞任させよう。収用委を実力で解体せよ!」

 この後、中核派の機関紙「前進」に委員、予備委員の氏名、住所、電話番号が掲載され、彼らへの脅迫が始まる。「家族ともども死刑台に乗っていると思え」という手紙が届いたこともあった。
 小川弁護士襲撃事件から1ヶ月後、委員、予備委員は全員が辞任した。県知事も新たな委員を任命する意思のないことを表明し、収用委は事務局だけとなった。


 1989年7月、収用委事務局員の自宅が放火される。

 1990年4月2日、神奈川県鎌倉市の「日本飛行機梶v専務宅が放火され、夫人が死亡。未解決。

 同年5月2日、成田市内の有料駐車場で車両が放火される。

 1991年11月21日、政府と反対派がはじめて話し合う。

 1992年2月、元収用委員宅に時限発火装置。

 1995年4月、一坪運動での国会議員最後の地主、小川国彦氏が「空港建設推進」を掲げて成田市長選に出馬、当選した。

 1997年2月25日、千葉県八千代市の芝山鉄道社長宅で爆発音。怪我人はなし。社長は公団の元審議役だった。中核派が犯行声明。

 同年4月8日午前3時20分頃、習志野市の運輸省航空局技術部運航課長(当時50歳)方で爆発が起こる。乗用車と車庫の天井が破損したが、怪我人などはなかった。中核派が犯行声明。

 1998年1月22日、芝山町長の相川勝重町長は、全国約1250人の空港の拡張予定地1坪共有者に対し、共有解消を訴える声明を発表。相川町長は、元反対同盟熱田派の中心メンバーである。

 1999年5月10日、運輸省は目標の2000年度平行滑走路完成の断念を正式発表。
 12月3日に平行滑走路の暫定滑走路工事に着手。

 2000年12月、扇千景運輸・建設大臣は、「国際線は成田、国内線は羽田という原則は国民もおかしいと思っている」と発言、これに対し千葉県側は「死者も出した成田の歴史をどう思っているのか」と猛反発した。


 2001年1月23日午前3時25分頃、千葉市稲毛区の新東京国際空港公団職員(当時46歳)方の車庫から出火。25分後に消しとめられたが、軽乗用車が全焼した。中核派による声明があった。

 同年4月18日、流山市の県幹部(当時56歳)方の玄関から出火、ドアが焼けた。さらに近くの駐車場に止められた幹部の車も燃えた。


【総括】

 成田闘争は「25年闘争」とも呼ばれる長い闘いだった。
 この闘争では、1971年の「東峰十字路事件」で3人、1977年の「臨時派出所襲撃事件」で1人、83年の「東鉄工業千葉支店」で2人、1990年の「関連業者専務宅放火事件」で1人など、計9人の反対派・警官・民間人が犠牲となっている。うち2つの事件に関しては、犯人の検挙にも至っていない。

 ドイツのミュンヘン空港は、成田闘争を研究、参考にして、反対派の人を充分説得したうえで作られた。他にも、新空港を建設する自由主義国では、「ノー・モア・ナリタ」を合言葉に話し合いを重点に置いているという。


リンク

成田国際空港株式会社
http://www.naa.jp/jp/index.html

wikipedia 「成田国際空港」

wikipedia 「成田空港問題」


≪参考文献≫

朝日新聞社 「戦後再考」 上野昂志
朝日ソノラマ 「朝日新聞記者の証言3 公安記者の戦後史」 鈴木卓郎
岩波書店 「『成田』とは何か ―戦後日本の悲劇―」 宇沢弘文
エール出版社 「死に急ぐ若者たち 青春の光と影を追って」 佐藤友之
御茶の水書房 「三里塚と共に三十年 淡路島住民の成田・関西空港闘争」 永井満 
警察文化協会 「戦後事件史 警察時事年間特集号」
講談社 「昭和 二万日の全記録 第14巻 揺れる昭和元禄」
講談社 「昭和 二万日の全記録 第16巻 日本株式会社の素顔」
講談社 「ビジュアル版・人間昭和史 昭和の事件簿」 扇谷正造監修
講談社 「蜂起には至らず 新左翼死人列伝」 小嵐九八郎 
三一書房 「三里塚 反権力の最後の砦」 朝日ジャーナル編集部
三一書房 「闘う三里塚 執念から闘志への記録」 朝日ジャーナル編集部
状況出版社 「状況 74年10月号 虚構と作為 70年代フレームアップの構造」 
新人物往来社 「別冊歴史読本 戦後事件史データファイル」
新人物往来社 「別冊歴史読本 反逆者とテロリストの群像 謎と真相」
新潮社 「新潮45 98年2月号」
神泉社 「新左翼二十年史 叛乱の軌跡」 高沢皓司 高木正幸 蔵田計成
神泉社 「爆弾事件の系譜 加波山事件から80年代まで」 荻原晋太郎
新潮社 「真相はこれだ! 不可思議8大事件の核心を撃つ」 祝康成
新評社 「別冊新評 ルポライターの世界〈全特集〉」
立花書房 「別冊治安フォーラム 過激派事件簿40年史」
立花書房 「別冊治安フォーラム あばかれる過激派の実態」
立花書房 「極左暴力団・右翼101問」 警備研究会
柘植書房 「三里塚野戦病院日記」 郡山吉江
柘植書房 「管制塔ただいま、占拠中」 三里塚管制塔被告団編著
東京新聞出版局 「ドキュメント成田空港 傷だらけの15年」 東京新聞千葉支局 大坪景章編
東京法経学院出版 「明治・大正・昭和・平成 事件犯罪大事典」 事件・犯罪研究会・編
土曜美術社 「新左翼三十年史」 高木正幸
日本放送出版協会 「死体からのメッセージ 鑑定医の事件簿」 木村康
扶桑社 「戦後史開封 昭和50年代以降編」 産経新聞「戦後史開封」取材班・編
文藝春秋 「戦後40年 日本を読む100の写真」
文藝春秋 「衝突 成田空港東峰十字路事件」 伊佐千尋
文彩社 「三里塚東十字路裁判 青年行動隊は北へ行ったか」 葉山岳夫 青柳晃玄
毎日新聞社 「1億人の昭和史 8 日本株式会社の功罪」 
毎日新聞社 「シリーズ20世紀の記憶 1968年 グラフィティ バリケードの中の青春」
毎日新聞社 「シリーズ20世紀の記憶 高度成長 ビートルズの時代 1961-1967」
毎日新聞社 「シリーズ20世紀の記憶 連合赤軍”狼”たちの時代 1969−1975 なごり雪の季節」
毎日新聞社 「シリーズ20世紀の記憶 かい人21面相の時代 山口百恵の経験 1976-1988」
毎日新聞社 「1968年に日本と世界で起こったこと」 毎日新聞社編
友人社 「一冊で昭和の重要100場面を見る」 友人社編 


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