奈良・母子3人放火殺人事件





【事件概要】

 2006年6月20日早朝、奈良県田原本町の医師宅から出火、一家3人の遺体が発見された。この家には高校生の長男がいたが、行方がわからなくなっていた。22日、京都市内でAは発見され、放火を認めた。


A


【一家3人の死】

 2006年6月20日午前5時頃、奈良県田原本町の医師Yさん(当時47歳)方から出火。6時頃に鎮火したものの家屋は全焼し、高齢者保健施設施設長の医師であるYさんの妻(38歳)、小2の次男(7つ)、保育園児の長女(5つ)が死亡した。死因は一酸化炭素中毒だった。
 
 Yさんは三重県伊賀市の病院に当直勤務中で、駆けつけた時には我が家の変わり果てた姿に呆然と立ち尽くした。
 遺体が発見された後、この家の長男A(当時16歳)の姿が見えなくなっていることが判明した。火災の報道を見て、彼の友人が携帯電話に「大丈夫?」とメールを出しても返信はなかった。
 Aは前日剣道の部活の後、近鉄高の原駅で友人を別れ、午後9時前まで大和郡山市内の英会話教室で受講。その後、通学に使う自転車が自宅に置かれていたことなどから、帰宅したものと見られた。また玄関は鍵がかかっており、勝手口も施錠されていた。

 22日午前8時過ぎ、京都市左京区の路上で、自転車に乗っていたAが、京都府警下鴨署員に職務質問され保護された。Aは放火を認め、逮捕された。


【少年の孤独】

 89年、泌尿器科の病院勤務医の父と、大阪の開業医の娘だった母親が見合い結婚。翌年、Aが誕生した。Aが3歳の時には妹も生まれている。
 一家4人は奈良市内のマンションで暮らしていたが、父親は妻にたびたび暴力をふるう一方、息子には1歳から幼児教室に通わせるなど、かなりの期待をかけた。幼稚園に入ると、学習塾、スイミング、サッカーなどの教室に通わされ、夜には父から足し算・引き算・ひらがななどの勉強をさせられた。父親は私立の医科大卒であり、そのことにコンプレックスを持っていたと見られている。

 やがて暴力などにより両親は別居。妹は母がひきとり、Aは田原本町の父親の実家で暮らし始めた。Aは母親とはそれから1度も会っていない。

 Aが小学校に入学した年、離婚調停を経て、両親の離婚が成立。実母は「Aとは会わない」という条件を呑むことになる。
 その半年後に父親は再婚した。相手も医師で、職場の総合病院の同僚だった。やがて弟、妹も産まれ、田原本町の燃えた家で、一家5人の生活が始まった。Aは継母とは仲が良く、弟妹たちの面倒もよく見ていた。

 小学校の卒業文集、Aは「将来は医師になりたい」と書いた。同時に父への憧れも記した。

 明るく活発だった少年は、中学、高校に進むにつれておとなしくなった。中学生の頃、「成績が下がると父親はすぐ殴ってくる」と友人に洩らした。常日頃から父から「医者になれ」と言われていたのだが、重荷に感じるようになった。
 またAはサッカーが好きで、サッカー部に入り、上手かったが父親に辞めさせられている。父が代わりに選んだのは自分が学生時代にやっていた剣道だった。庭でAが「面!」「胴!」の声とともに竹刀を振り、父が腕組みをしてその様子を見ているのを、近所の人が目撃している。高校でも剣道部に所属。腕は2段にまでなった。

 1年の3学期の期末テストですべての科目で平均点を下回ったことがあった。医学部に進学させることを決めていた父親は理系に進むための理科・数学・英語を重視しており、Aは成績表のその3教科の点数をコピー機で改竄した。改竄は担任教師から自宅に電話が入ったことで発覚するのだが、それがバレた夜、父親は「なんでこんなに成績が悪いんや!」と怒り狂い、Aを滅茶苦茶に殴った。
 中学2年の3学期には、理科のテストで「公式が思い出せないから」とカンニングをした。それらはすぐに教員にバレた。その日の夕方、父親は勤務先からテストの結果を聞くために電話をかけてきて、Aは正直に話し謝った。だがその夜、書斎に呼ばれて顔や頭を殴られた。

 Aは県内にある関西でも有数の私立進学校T学園に入学。仏教系の高校で、毎年多くの東大・京大合格者を出す。しかし中学までトップクラスだった成績は半ばに落ち着き、なかなか伸びなかった。伸びない、と言っても、この高校で半ばほどであれば、どこの大学でも狙える位置にある。とはいえ、成績が伸びないことについて、父は苛立ったのか、さらに厳しく勉強をさせるようになった。A自身もこのままでは父の希望にかなう志望校には入れないと感じるようになった。

 塾や英会話学校がない日、Aは夜7時半から12時頃まで自室ではなく父親の書斎で勉強をした。目の前には父親が黙って座っていて、問題を解くのが遅かったり、間違えたりすると、父親は こぶしで殴ったり、髪の毛を引っ張ったり、殴り倒してから足蹴りするというような暴力である。ある時にはシャープペンシルを頭に突き刺したこともあった。Aの前歯2本は殴られたためか差し歯だが、折れた時のことは覚えていないという。
 またテレビゲームをしているのが発覚して以来、Aは2階の自室ではなく、1階にある父の隣りの部屋で寝るようになった。

 もちろん父は多忙であり、常にAにつくことはできない。このため継母が学校の成績などを報告していた。母は知人や近所の人に「長男が最近テレビゲームばかりして、勉強しないので困っている」「憧れの進学校に行けたのに、なかなか上に行けない」などとも洩らしていた。


【父親殺害計画】

 6月5日、5月に行われた中間テストの英語の答案が返ってきた。平均点より20点も下回っていたことにAはショックを受ける。テストの点数を正直に話したら殴られるし、「今度嘘をついたら殺すぞ」とも言われていた。こうしたなかでAは父親を殺害して家を出ようと考える。供述を借りれば、「ゼロからやり直したかった」という想いのものである。高校進学の前後から父親になんとなくの殺意は芽生えていたが、具体的に考えたのはこの時だった。
 7日、Aは英語のテストについて「平均点より7点良かった」と父に嘘をついた。20日には保護者会が予定されており、その時に嘘はバレる。Aは追い詰められた。もう父親を殺す以外にないと考えるようになった。

 最初、包丁で殺害することを考えたが、武道の実力者でもある父親相手をこれだけで殺害できるとは思えず、逆に取り押さえられる恐れがあった。次にバットやゴルフクラブで殺すという考えに変わったが、それらも同様であり、新たに買うにしてもわりと高価だった。結局、Aが凶器に選んだのは、素振り用で錘入りの竹刀だった。

 6月9日夜、Aは竹刀を1階の自分の部屋に持ち込み、父親の寝こみを襲うため、携帯電話のアラームをセットしておいた。
 午前3時過ぎ、目覚めたAは隣室の父親の様子を窺った。父親はいびきをかいて寝ていたのだが、殺すことが怖くなった。それでもAが父親の部屋に入ろうとすると、父親は目を覚まし、「何してんねや」と尋ねてきた。Aは適当にごまかして部屋を出て、その日の殺害は断念した。

 父殺害計画が失敗に終わったAは、次に自宅放火を思いついた。
「この家にはイヤな思い出しかないし、家を燃やせばイヤな思い出も灰になる」
 Aは灯油を探したが、見当たらなかったので仕方なく父親の寝室を中心にサラダ油を撒こうと考えた。18日の日曜日に実行することにした。
 18日夜、家族でサッカーワールドカップの日本対クロアチア戦をテレビ観戦。Aはその後、就寝したが未明のアラーム音に気づかず、そのまま寝てしまったので、計画はまたしても失敗に終わった。保護者会のある20日までに何かしらの手を打つ必要があったが、タイムリミットは迫っていた。


【「暴力、許せない」】

 19日午後10時、英会話学校から帰宅したAは、継母から父親が同僚の送別会で今晩は帰らないということを聞かされた。もう保護者会までには父親を殺すことができなくなったことを悟った。だが父親がいなくても家に火をつけようと考えた。
 20日午前4時15分、Aは目覚める。アラームは午前2時40分にセットしていたのだが、1時間以上過ぎていることに気づいて焦った。貯金箱から金を取り出し、連絡がとれないように携帯電話を破壊、逃走後のための身支度をした。
 台所に入ってサラダ油2本があるのを確認したAは、それを撒いていき、ガスコンロでタオルに火をつけてそれを台所脇の階段に置いた。さらに傍にあった封筒や布の袋も火の中に投げ入れた。そして火が燃え広がるのを確認しないまま、家を出た
 Aは放火を計画した際、2階で寝ている3人が逃げ遅れては大変だと、脱出ルートの確認をしている。継母たちの寝室の窓の下には倉庫の屋根があり、ここに跳び移って逃げるだろうと高を括っていた。

 自宅を離れたAは近い田原本駅ではなく、近鉄線橿原線の大和八木駅まで歩いて行った。自転車を使えば、すぐ駅に行ったことがバレてしまうからである。午前6時半頃に駅にたどり着いたAは、よく眠っていなかったためタクシー乗り場のベンチに横になっている。
 2時間ほどして同駅から京都行きの電車に乗り、しばらくその周辺をうろついたり、休んだりした。そのなかでなんとなく北を目指そうと思ったという。
 さらに地下鉄で烏丸御池駅を向かうが寝過ごしてしまい、駅員に起こされた時には国際会館駅を折り返して奈良駅に戻って来ていた。再び烏丸御池に戻ってきた時には夕方になっていた。その晩と21日は公園で野宿した。滑り台で寝ているのを近所の人に目撃されていた。
 22日午前0時頃、修学院駅近くの公園で寝ていたAはあまりの寒さに起きてしまう。近くに停まっていた軽自動車に乗りこむが、それでも寒かった。Aは寒いのと、お腹がすいたのと、楽しみにしていたW杯日本・ブラジル戦(Aの勘違いで行われたのは23日だった)を観たいので、目の前にある民家に入ろうと考えた。
 午前0時頃、所持していたペーパーナイフで網戸を切り侵入、さらに電話線も切断している。冷蔵庫の中のジュースなどを飲み、ソファに寝転がってサッカー中継を観ようとしたが、疲れのためかすぐに眠りに落ちる。翌朝、家の人に「誰?」と声をかけられ、あわてて玄関から逃げ出した。そのあとずっと逃げ続けていたのだが、大事になってないか気になって、侵入した家の方に戻った。この時に警官に声をかけられ、連れて行かれた下鴨警察署で保護され、母親や弟妹が死亡したことを知らされると、涙ながらに放火したことを話し始めた。

 逮捕された直後、Aは家族に対して次のような供述をしている。
父  →「暴力が許せなかった」
継母 →「父親に告げ口するので頭に来ていた」「恨んではいなかった」
弟妹 →「たまに腹は立つけど、恨みはなく、かわいそうなことをした」


【裁判】

 10月13日、Aの精神鑑定の鑑定書が奈良家裁に提出された。Aは広汎性発達障害と診断され、幼少期からの父親の暴力により持続的抑うつ状態だったとした。

 10月26日、奈良家裁・石田裕一裁判長は「殺意はあったが、程度は低い。父親の暴力を受けた成育環境が非行に走らせた要因の一つで、広汎性発達障害の影響が強く現れている。保護処分によって、矯正、改善の見込みがある」として、中等少年院送致とする保護処分を決定した。収容期間について「相当長期の処遇が必要である」とする意見を付けた。


【父と子】

 8月2日、奈良家裁での第2回審判で、弁護士は父親がAと事件後初めて面会した時の様子を記したメモを提出した。


 7月13日、事件後、初めてAに面会してきました。そのときの様子を報告します。
 まず、会ってすぐ、Aは、直立して、「ごめんなさい」と謝ってくれました。話の途中からは、泣きじゃくって謝ってくれました。 Aはやはり表現、言葉も顔の表情もうまく出せないようです。 
 事件を起こしたときも、捕まった後も、人生をほかして(捨てて)いる様な感じです。 捕まった後、何をしてももう一緒、もし外に出てもパパにしかられるし、自分は外ではもう生きられないと、自分から望みを絶ったのかもしれません。 
 でも、しっかり反省していました。面会の後、鑑別所の職員が、「まだ1日見ただけですが、お父さんの前で、急に子どもらしい感情表現をしましたね」と言っていました。 
 Aは父である私の愛情に非常に飢えている様子です。また、友達の友情にも心を動かされるようでした。私はできるだけ頻回にAに会って、少しでも心を開かせたいと思います。

              大まかな話の内容です。参考までに。



父「パパが悪かった。おまえに度々暴力をふるって悪かった。家にいてもずっとパパに監視されていて、家にいるのがつらかったやろ」

A(だまってうなずく)
 
父「暴力ふるったパパを許してくれ」
 
A(うなずき、少し涙)
 
父「今、何か困っているものあるか? 何でも言いや。服のサイズはあれで合っているか?」
 
A「サイズは合っているし、今は、何も欲しいものはない」

父「ママらも死んでしまった。自分が何をしたかわかるやろ」
 
A「ごめんなさい」(泣きながら謝る)
 
父「3人とももう帰ってこない。罪を償わなければならない。原因をつくったパパも、罪を償う」

A「ごめんなさい」(泣きじゃくりながら謝る)

父「Aが牢屋に入っていることだけでは償いにはならないと、パパは思う。それは法律上の償いでしかない。3人への本当の償いは、A自身がちゃんと更生し、人生をもう一度やり直すことだと、パパは思う。Aも自分でどうしたら3人に謝れるのか、罪を償えるのか考えて欲しい。Aが出てきても、もうパパは勉強しろと言わない。パパは、死ぬまでAと一緒になって、罪を背負って生きていくつもりやし、できうる限り、Aをサポートする。けど、A自身が、自分で考え自分で道を決めていかなければならない。ゆっくり考えなさい。自分で考える道を歩むためには、まず、今現在どうすればよいかを考えなさい。まず、今は一層反省して謝罪をすること。それが償いの始まりや」

A(泣きじゃくりながら話を聞く)

父「Aは友達多かったということを、今回の事件後よく分かった。みんなAのこと思って、嘆願書を書いたり、手紙くれたりしたよ。〇〇君本人と、〇〇君のお母さんがパパに直接メールくれたよ。
〇〇君『Aは何があっても一生の親友です』
お母さん『Aが京都から帰ってくるとき、〇〇君と△△君がAを迎えに行くと言って警察まで行き、Aが帰ってきても、少しでもAのそばにいたいと言って、雨の中夜遅くまで警察の前で立っていた』
 そうや。パパより遥かに友達多い。みんな待ってるで。Aが更生して出てくることを。親友の為にも頑張らないとあかん」

(A、一層、強く泣き出す)

父「もしAが20歳以上なら、3人死亡しているので、間違いなく死刑。しかし、Aは16歳だから、少年法で裁かれる。少年法は将来のある子どもを少しでも更生させようとする法律や。パパは、Aがもう一度やり直せる可能性があると信じてる。おまえはまだ若いから、まだまだやり直せる」

(A、泣きじゃくりながら聞いている)

父「Aは俺そっくりなんや。おれの悪い癖そっくり受け継いでいるんや。だからパパにはおまえが何を考えているかよくわかる。でもな、他の人には全くわからへんで。今は涙もろくなったけれど、パパは、心の内を表情に出さないのや。学生のとき、先生に怒られたら、必ず言われた。何笑っているんや、叱られているのに何をニタニタしているんや、とさらに先生に叱られた。自分では何も笑っていないし、先生を馬鹿にしているわけではない。反省しているのに、そんな表情しか出せなかった。Aも同じや。おまえ、パパに似て口下手やろ。おべんちゃらなんて絶対言えない。でもな、警察でも調書取られたやろ。口に出して言わないと、調書に書いてもらわれないんやで。わかるやろ。心の中でどんなに反省してても、口に出して言わないと他の人はわかってくれないよ」

父「3人に対し、今はどう思ってるんや」

A(泣きながら)「ごめんなさい。ほんとにひどいことしてしまったと思ってる。僕の代わりに、毎日花供えたって」
 
父「わかった」

父「〇〇(亡くなった母の実家の地名)のお爺さん、お婆さん、わかっていると思うけどAとは血がつながっていない。でも、こんな事件を起こしても、おまえのこと孫やと言うてくれているで。夏、山登りに連れて行って欲しかったんやろ。毎年、アユ釣りや山菜採りに行きたかったが、パパが許さなかったんや。もっと〇〇に遊びに行きたかったんやろ。パパが悪い、おまえの楽しみをすべて取り上げていたんや。ごめん」

父(職員に向かって)「手紙のやりとりはできますか」

職員「できます」

A「パパにちゃんと手紙書きます」

父「パパも出すよ。〇〇と△△(父方の実家の地名)の両方の爺ちゃん、婆ちゃんに手紙書いたり。安心するよ」

父「また会いに来ていいか」

A「会いに来て欲しい」
(Aは鼻水垂らしてずっと泣いていた)

                        ※06年年8月2日付asahi.com記事より




父親は事件後、医師を辞めた。判決後、次のような手記を公表している。


 長男のしたことは決して許されることではありませんが、その原因をつくり追い詰めたのは紛れもなくわたしです。大人の都合で幼少時より複雑な家庭環境に置き、いい大学に入って医者になることが幸せにつながるという価値観を暴力に訴えてまで押し付け、知らず知らずのうちに精神的な極限状態に追い込んでしまいました。そのことで妻や二男、長女は命を失い、長男も罪を償うことになり、今までの人生で築き上げた何もかも失ってしまいました。

 どうしてよく話し合って本当の気持ちを聴き出そうとしなかったのかと後悔ばかりです。結局は親のエゴを押し付けただけだったと思います。3人だけではなく長男もわたしの被害者でした。

 長男には多くの嘆願書や励ましの手紙をいただきました。わたしへの怒り、おしかりのメッセージだと心に刻み、まずわたし自身が更生するために人の生き方など一から学び直す所存です。

 長男も深く反省しています。鑑別所で面会を終えて帰るとき、握手を求め「また面会に来てほしい」と言い、審判で「一緒に生活してもいい」と言ってくれたことが、せめてもの救いです。

 父子関係の本来の在り方を一生懸命学び、長男の更生に今後の人生をささげ、2人で死ぬまで罪を背負って生きていくことが、3人に対する唯一の償いだと思います。

 皆さまには多大なるご迷惑をおかけし本当に申し訳ありませんでした。

 


リンク


≪参考文献≫

NTT出版 「親殺し」 芹沢俊介
講談社 「週刊現代 06年11月4日号」
講談社 「週刊現代 06年11月11日号」
新潮社 「週刊新潮 06年7月6日号」
文藝春秋 「こんな子どもが親を殺す」 片田珠美




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