三鷹・女性検事子息の弟殺害事件




【事件概要】
 
 1964年7月15日朝、東京・三鷹市の大学教授宅で、慶大付属志木高校1年の次男(16歳)が殺害されているのが見つかる。まもなく長男A(当時18歳)が行方をくらまし、2日後保護、弟を殺害したことを認めた。


A


【雨に濡れてた・・・】

 1964年7月15日午前6時半頃、東京・三鷹市下連雀の東京経済大学教授Kさん(当時53歳)宅で、別棟の8畳間に次男H君(16歳)が血まみれで死んでいるのを、母親(当時49歳)が発見した。

 H君は慶大付属志木高校1年。布団の上で頭部をナタで20数カ所メッタ打ちにされていた。隣りにいた同校3年の長男A(当時18歳)は「眠っていてまったく気づかなかった」と証言した。

 その後、井戸の中から血のついたナタが発見され、このナタの所有者であるAに尋ねたところ、「これは僕のものではない」と言って行方をくらませた。
 Aはすぐに重要参考人として手配され、17日夜、自宅から7km離れた小金井市の公園脇で雨に濡れてうずくまっているところを発見・保護された。家出当時は4000円ほど持っていたが、わずか22円しか残っておらず、他に雑誌「週刊ベースボール」、睡眠薬42錠などを持っていた。


【兄と弟】

 兄弟はそろって番町小学校→麹町中、慶応高校と「エリートコース」と言われる学校を進んでいたが、そこでの成績はビリに近かった。もともと仲は良くなかったという。

「弟は普段から両親に反抗し、母親の金を無断でくすねたり、何かにつけて怒鳴り散らして、暴れるなどし、母親を泣かせていた」(Aの供述)
 Aはそんな母親への乱暴をみかねて、1ヶ月前に計画。強盗犯に見せかけるために古い運動靴を履いて物置から侵入、熟睡する弟を殺害したあと、カメラを持ち出して窓ガラスから外に出て足跡をつけ、凶器とカメラを井戸に捨てたのだという。

 犯行動機と言えそうなものは他にもある。
 2人は少年野球チームに所属していた。2人ともこの4月に落第が決まり、野球に熱を入れ始めたのである。チームは兄が編成したが、H君の方がAより信頼され、子ども達から人気があった。Aはエラーをすると棒で殴るなどのスパルタ式であり、ワンマンであった。それは主力選手の脱退などにつながり、そのことに反発するH君とは仲がますます悪くなり、選手の前でも取っ組み合いの喧嘩をすることがあった。

 ちなみに母親は女性検事第1号(東京地検)で少年問題のベテランだったが、この事件の責任をとって検事は辞表を提出している。
 母親は東京地検婦人少年係への検事就任の際、次のように語っていた。
「私自身が円満な家庭の幸福を身に感じていなかったら、こんな仕事をやってみようなどとは思いません」


【裁判】

 Aの弁護人には、母親の司法修習生時代の教官や同僚弁護士がついた。

 精神鑑定で「犯行時、心神耗弱状態だった」という結果が出たが、一審では懲役4年以上6年以下の不定期刑が言い渡された。A側は控訴し、二審で懲役3年執行猶予5年という判決。刑が確定した。


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≪参考文献≫

講談社 「戦後欲望史 黄金の六○年代篇」 赤塚行雄
新潮社 「新潮45 06年8月号」
大洋図書 「日本震撼事件 戦後殺人ファイル100」 日高恒太朗
宝島社 「別冊宝島 殺人百貨店 日本人はどういう理由で人を殺すのか?」 
東京法経学院出版 「明治・大正・昭和・平成 事件犯罪大事典」 事件・犯罪研究会・編


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