雅樹ちゃん誘拐殺人事件




【事件概要】

 1960年5月16日朝、東京世田谷区の鞄会社社長の長男で、慶応義塾幼稚舎2年の雅樹ちゃん(6歳)が登校途中に何者かに誘拐され、昼頃になって身代金300万円を要求する電話が自宅にかかってきた。
 警察はその後、犯人らしい男を追跡するが、逃げられ、乗り捨てられた車の中に殺害された雅樹ちゃんの遺体が発見される。

 7月17日、大阪府布施市で、工員として働いていた元歯科医・本山茂久(当時32歳)が逮捕される。


本山茂久


【都民農園へ行け】

 1960年5月16日朝、東京世田谷区玉川等々力町のカバン製造会社社長の長男で、慶応義塾幼稚舎2年・尾関雅樹ちゃん(6歳)は制服制帽姿にレインコートを着て登校した。自宅から200m離れたバス停「等々力二丁目」でお手伝い・A子さん(当時21歳)に見送られ、目黒行きバスに乗車した。いつもと変わらない朝だった。

 ところが午前11時10分頃、雅樹ちゃんの家に男の声で電話が入った。
「メモを用意してください。お宅の息子さんを預かっています。お金を持って来てください。女中さんに200万円を包んだ風呂敷包みだけを持たせて、午後3時頃信濃町駅に来させ、神宮外苑を一周し、千駄ヶ谷駅に出て、タクシーで池袋に出て、それから西武線に乗って大泉学園駅で降り、都民農園行きのバスに乗って終点で下車し、バス通りを川越鉄道まで出てから、都民農園まであともどりさせてください。
女中さんの顔は写真で知っていますからね。わかっているでしょうが、警察に届けないこと。約束さえ守れれば、金を受け取って1時間以内に子どもを返します。200万円は新しい札ではだめです」

 突然の脅迫電話に雅樹ちゃんが学校へ行っているものだとばかり思っていた母親は慌てふためく。念の為に学校へ確認してみると、やはり雅樹ちゃんは登校していなかった。

 午後0時30〜50分頃、学校側と父親がそれぞれ警察署に届け出。捜査は渋谷警察署が行なうことになり、秘密裏に開始された。

 午後2時30分頃、男から2度目の電話。
「お金は用意できましたか。子どもさんは大丈夫ですよ。なにもひどいことはしていないし、女の人がそばにいるから大丈夫。約束さえ守れば、今日中に子どもさんを返します。子どもさんは今眠っています。睡眠剤を飲ませましたから」

 午後3時頃、捜査員が張りこむなか、A子さんが現金に見せた新聞紙入りの風呂敷包みを持ち、信濃町駅に向かった。そして、犯人の指示通りに練馬区大泉学園町の都民農園までやって来たが、犯人は現れなかった。その夜も犯人からの連絡はなかった。

 翌朝、幼稚舎に勤務している栄養士から、「目黒駅前のバス停付近で、雅樹ちゃんが1人の男に連れられて、学校とは反対方向に歩いていくのを見た」という目撃証言が得られた。
 雅樹ちゃんは普段、渋谷区恵比寿の慶應幼稚舎にはバスで目黒駅まで行き、そこから地下鉄に乗って広尾駅で降りるのだが、この乗りかえたあたりで(午前7時45分頃)に男に連れさられたと見られた。

「三百万円持チ午後一時ヨリ新宿地球座デ連絡マテ。約束ヲ守ラヌト取引キヲ打チ切ル」
 犯人からの電報が届いたのは同日午前11時30分頃だった。
 早速、捜査員が発信局である新宿電報局を調べ、頼信紙を差し押さえると、発信人は新宿区柏木3の201の「太田芳男」という男で、9時57分に発信されていたことがわかった。

 午後1時ごろ、電報の通りに、A子さんが現金入りの風呂敷包みを持って、歌舞伎町の映画館「地球座」で待ってみたが、今度も犯人は姿を見せなかった。

 午後7時ごろ、3度目の電話。
「約束を破った。警察官がついていた。今度は絶対に約束を守ってください。午後8時30分、大泉学園からバスに乗り、大泉風致地区で下車し、左に折れ、突き当たったら、戻って下さい。そこで取引をする。子どもは家から金を持って出てから1時間以内に帰します」

 A子さんはやはり風呂敷包みを持って、指定された場所に行ってみた。警察は今度も尾行、張りこみを続けた。結局、午後11時ごろになっても、男が現れなかった。

 午後11時20分頃、男から4回目の電話が入る。
「尾行させていた。今度、金を取引する場所、時間はあとで連絡する」

 しかし、犯人からの連絡はなかった。雅樹ちゃんと犯人の居所は依然つかめないままだった。


【工員・山田正五の正体】

「5月16日の午後3時半頃、近所の本山さんのお宅に伺ったところ、玄関のドアに鍵が差しっぱなしになっているので、不用心だと思い、裏手の家主さんの奥さんに連絡し、2人で本山さんの家に入ってみました。すると、玄関に子ども用のレインコート、白襟のついた上衣や紺色のフェルト帽が放りっぱなしになっており、奥の四畳半に7歳くらいの男の子が寝ていたので、どうしたのと尋ねると、『病院のおじちゃんときた。目黒から来た』などと言っておりました。今日の朝刊を見ると、児童が誘拐されたという記事が出ているので、ひょっとすると誘拐されたのは、その男の子かもしれない」

 杉並区上荻窪に住む女性が近くの派出所にやって来て、そう証言したのは5月18日の朝のことだった。この重要な証言を受けて、捜査員は早速、杉並区の本山方を監視してみた。

 同日夜、本山方に乗用車ルノーが停まっているのが認められた。家を離れていた本山が帰ってきたと見られたが、午後8時30分頃になって、ルノーは猛スピードで発進、捜査員が乗用車で追跡したが見失ってしまう。

 翌日朝、杉並区上高井戸の路上にルノーが放置されているのを近くの主婦が見つけた。後部座席には米俵のようなものが置かれていたが、死体らしきものが入っているように見えたので、彼女は警察に届けた。
 遺体は高井戸警察署に移され、お手伝いのA子さんが確認に出向いたところ、雅樹ちゃんということがわかった。事件は最悪な結果を迎えた。

 指名手配されたから2ヶ月近くが経った7月13日、大阪府布施市内の住みこみで働く工員・Hさんが、「同居する男が指名手配されている本山に似ている」と最寄の交番に届け出た。
 Hさんにハンドバッグの口金製造業者に勤めていたが、「山田正五」と名乗る工員が彼にそっくりだというのである。
 本山には盲腸の手術痕があり、本署の刑事課長はHさんに山田にもそれがあるか確認してほしいと依頼した。
 14日、Hさんは山田を誘って浴場へ行ったが、手術痕の有無は確認できなかった。

 17日、Hさんは今度は山田の所持品を調べてみることにした。彼のジャンパーのポケットをさぐると手帳があり、それをめくってみると、「誘拐事件に荷担した」というようなことが書かれてあった。山田こと、元歯科医・本山茂久(当時32歳)が逮捕されたのはその日の夕方だった。


【本山茂久】

 1928年、新潟県東頚城郡大島村の農家に長男として生まれた。一家は広大な土地を持ち、非常に裕福であった。
 
 小学校時代の本山の成績は常にトップクラスだったが、おとなしく、友達と遊ぶということはあまりなかった。

 高田中学へ進学。3年時に陸軍兵器学校に合格、神奈川県相模原市に移った。終戦後には再び高田中学に戻っている。

 1947年、東京歯科大学に入学。北区の知人の家に下宿した。
 大学時代の彼の成績は目立つものではなかったが、真面目な学生として過ごした。
 大学在学中にダンス助教師の妻と出会い、その後2人の男の子をもうけた。(籍を入れたのは1958年)

 1954年、歯科医師試験に合格。豊島区高松町の歯科医院に勤めた。
 翌年、杉並区下井草の医院に移り、1956年には実家から金を借りて、念願の「本山歯科医院」を下井草で開業している。
 ここまでの本山の人生は何の問題もなく、これから先も順調に行くはずだった。

 本山は愛人を作り、その愛人にも子どもが出来た。2重生活を続けていくうちに、家計は苦しくなる。借金180万円をこしらえた。結局、開業して5年ほどで、歯科医院を閉鎖することになった。
 妻とは離婚し、しばらくは慰謝料を送っていたが、そのうちに送られてこなくなった。当時の本山は自身の家賃の支払いにも困るようになっていたからだった。

 1960年4月14日、本山は新聞記事で、フランスの自動車王プジョーの孫「エリック坊や誘拐事件」を知る。金に困っていたため、誘拐事件を企てるきっかけとなった。

※エリック坊や誘拐事件・・・・60年4月12日、フランス・パリのカントリークラブで、プジョー自動車工業会長ジャン・ピエール・プジョーの孫であるエリック君が遊んでいたいたところ、犯人は保母と運転手が話しこんでいる隙に連れ去った。14日、パリ市内で泣きながら歩いている、エリック君を通行人が発見、無事保護された。父親は犯人に莫大な身代金を支払ったとされている。
 
「狙うなら、金を払いそうな金持ちの家の子どもが良い」
 本山は雅樹ちゃんを連れ去る前に、慶應幼稚舎の子どもを狙い、学校に2度電話をかけていた。そして多くの児童が乗り換えで利用する国鉄目黒駅周辺で連れ去ることも計画した。

 事件当日、本山は目黒駅で「お母さんに頼まれて病院に行こう」と雅樹ちゃんに声をかけ、車で連れ去った。雅樹ちゃんは睡眠剤で眠らされたという。
 その後、雅樹ちゃん方に電話をかけ、お手伝いに練馬区の都民公園へ行けと指示した。この場所は前日に念入りに下見しており、逃げやすそうな場所に車を停めておいて、A子さんがバスに乗ってやってくる頃、逆行のバスからA子さんと追尾する警官を確認したため、その日は受取をやめた。
 
 翌日は指定場所でA子さんを待っている間に足をすべらせて肥溜めに落ちてしまうというハプニングがあった。糞尿のついたズボン、サンダルを脱ぎ捨て、そそくさと家に戻った。計画は狂いつつあった。

 18日、前日から使用していた麻酔薬で衰弱していた雅樹ちゃんをどうしていいものか迷い、殺害を決意。口にゴムホースでガスを注入、そのうえ首を絞めて殺害した。
 自宅を監視されていることを察知した本山はあわてて遺体を乗せた車で逃走。だがパトカーとすれ違ったため、区内で車を乗り捨てた後、横浜へ逃げ、さらに大阪に向かい、住みこみ工員として働いていた。


【救えた命】

 この事件、早期解決できる要因はいくつかあった。しかし、警察は解決の糸口を自ら無視し、雅樹ちゃんを死なせるという最悪の結果を招くこととなった。

 まず第1。
 17日に本山宅のお手伝いが「雅樹ちゃんらしい子どもがテレビを見ている」と通報があったが、捜査陣は不確実な情報として、これを相手にはしなかった。
 子どもを誘拐して身代金を要求するという犯罪は、金に困っている人間のすることで、とてもルノーを乗りまわしている歯科医によるものとは思えなかったのである。

 3度目の電話で、犯人が「約束を破った。警察がついていた」と言ったため、家族は「警察は手をひいてくれ」と懇願していたが、警察はそれでも尾行と張りこみを続けた。
 もちろん事件解決のために「張りこみするな」とは言わないが、簡単に察知されるような張りこみ方をするべきではなかった。

 また、その時雅樹ちゃんはすでに殺害されていたとは言え、杉並区の本山方を監視した時に、なぜ事件は解決することはできなかったのか。

 本山が逮捕されて1ヶ月後の8月17日、捜査本部280人は地元のデパートの食堂で打ち上げ式を行ない、非難を浴びている。

 「雅樹ちゃん事件」の失策は、いずれも慎重過ぎた点だった。
 誘拐事件での警察の不手際はこの後も続く。
 1963年3月の「吉展ちゃん事件」の失策へとつながり、同年5月の「狭山事件」で功を焦る別件逮捕につながってゆく。


【裁判】

 1961年3月31日、東京地裁で死刑判決。

 拘置所での本山は死刑を逃れるためか、精神異常者の真似事をしたりしたという。
 精神鑑定でも「犯行時は心神耗弱」という結果が出て、一時公判も中断したが、1966年8月26日、東京高裁は控訴を棄却。

 1967年5月25日、最高裁で原審支持。死刑が確定した。

 1971年、死刑執行。享年43。


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≪参考文献≫

グリーンアロー出版社 「事件記者スクープにかけた30年」 佐々木武雄
警察文化協会 「戦後事件史 警察時事年間特集号」 
講談社 「戦後欲望史 黄金の六○年代篇」 赤塚行雄
社会思想社 「20世紀にっぽん殺人事典」 福田洋 
新潮社 「スクープ音声が伝えた戦後ニッポン」 文化放送報道部・編 
宝島社 「別冊宝島 死刑囚 最後の1時間」
立花書房 「凶悪犯罪とその捜査 本部事件係検事覚え書」 村上久
中央公論社 「検事の現場検証」 村上久
東京法経学院出版 「明治・大正・昭和・平成 事件犯罪大事典」 事件・犯罪研究会・編
徳間書店 「実録・大物死刑囚たち さらばわが友」 カービン銃ギャング事件主犯・元死刑囚=K・O
徳間書店 「殺人百科V」 佐木隆三
図書出版社 「増補版 事件百年史」 楳本捨三 
日本文芸社 「捜査四課元刑事が見た昭和事件史」 渡辺忠
二見書房 「公開捜査 消えた子供たちを捜して!」 近藤昭二
文藝春秋 「文藝春秋 2010年12月号」
毎日新聞社 「シリーズ20世紀の記憶 60年安保・三池闘争 石原裕次郎の時代 1957-1960」
毎日新聞社 「事件記者の110番講座」 三木賢治


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