高橋正彦連続殺人事件





【事件概要】

 1967年から翌68年にかけ、都内の飲み屋の女性3人を殺傷した高橋正彦。彼は10代の頃にも幼女を殺害していたという前科があり、さらに死刑判決を受けた後に獄中で2人の少女殺害を告白する。


高橋正彦


【元旦の渋谷】

 1968年1月1日夜、東京・渋谷の連れ込み旅館で、女性が死んでいるのが発見された。通報を受けて、警視庁捜査一課の刑事たちが現場に急行したが、その中には平塚八兵衛氏もいて、平塚刑事は現場を見るなり「うひゃあ、ひでえ」と漏らしたという。

 女性の死因は出血多量。実に97か所もの刺し傷があった。ミゾオチ部分からへその真下まで縦に切り裂き、乳房もえぐられているという無残な状態だった。

 この被害者はA子さん(34歳)と判明した。早々にわかったのは、この女性が過去に二度、売春容疑で逮捕されていたからである。

 A子さんは渋谷の「のんべえ横丁」にある小料理屋で働いていた。この勤務先から現場の旅館までは200mも離れていない。
 この日、小料理屋は元旦であるが夕方の5時に開店した。この日の客には、おとなしそうな25、6歳の、黒っぽいジャンパーを着た工員か職人風の男がいた。店主によると、顔はあまり特徴がなく、別段様子も変わったところがない男だった。男が6500円の代金を払って店を出ると、A子さんは「ちょっとそこまで送ってくるから」と男の後を追い、そのまま店には戻らなかった。

 現場の旅館の従業員によると、被害者が男と寄り添ってやって来たのが午後9時ごろのことだったという。男は「3時間ほど休ませてくれ」と言った。午後11時15分、男は一人で階下に降りてきて、「連れの女は30分くらいあとで帰る」と言って千円札を出した。男はおつりを受け取らずに宿を出て行き、その30分後に様子を見に行った従業員が遺体を発見するのである。通報は午後11時54分。ちなみにA子さんの死亡推定時刻は午後10時頃である。

 飲み屋でも旅館でも、この男は初めて見る顔だったという。
 この事件の捜査は難航した。捜査本部は4月に解散となっている。


【不能】

 同じ年の7月、新宿区三光町の飲み屋で事件は起こった。
 この店は2階で女将B子さん(当時48歳)と泊まることもできる店だった。B子さんが「上にあがるかえね」とたずねると、客の若い男はうなずき、2人は2階の一室に入っていった。
 2人が室内で関係を持っていると、男は突然B子さんの腹をナイフで刺した。B子さんの「痛いじゃないの!」という声にびっくりした男は裸足のまま逃げ出したが、声を聞きつけた隣の店のママとバーテンが男を追いかけた。さらに通りかかった学生も加勢し、男は3人に取り押さえられた。刺されたB子さんは全治三週間の怪我を負った。

 男は上野の洋服店に住み込みで働いていた仕立て職人・高橋正彦(当時28歳)。元旦に起こった渋谷の女性殺し、さらに前年の夏にあった浅草の女性殺しをも自供、さらに10代の頃には7歳の少女を殺した前科もあった。

(浅草事件)
 1967年8月2日、高橋は浅草寺の境内の方向へと歩いていた。そこにはおでん屋があった。ここの女将C子さん(41歳)とは顔なじみであった。すでに先客がいたが、構わず酒を飲んだ。先客が店を出てC子と2人っきりになると、高橋は話をきりだした。以前から女の世話をしてくれるようにC子さんに頼んでいた件である。しかし良い返事は聞けず、高橋が「じゃあ、あんたでもいいよ」と言うと、C子さんはそれに対して「いいけどさ、今夜はうまくないよ」と答えた。高橋はこの言葉に「馬鹿にされた」と感じ、持っていたナイフでC子さんに襲いかかり、殺害したのである。ちなみに常にナイフを持ち歩いているのは「護身用」だったという。


 高橋が渋谷でA子さんを刺したのは「セックスが弱いとののしられてカッとなった」からだという。高橋は酒を飲むと、「身体がかっと熱くなり、気持ちと身体が別になる」といい、不能となる性分だった。事件当夜も同じで、A子さんに「若いのに、へんねえ」と言われ、メッタ刺しにした。

 1969年10月末、高橋は上記三事件について死刑判決を受けた。判決を受けても高橋は動じず、控訴もしなかった。


【母を求める殺人】

 高橋は1940(昭和15年)、北海道の豊原市(樺太)で生まれている。生後3ヶ月で市内の旅館の養子となった。終戦後、養父母は別居し、高橋は優しかった養母とはなればなれになり、以後厳格な養父に育てられることとなった。

 1947年に函館に引き揚げ、続いて稚内で暮らすこととなった。養父はヤミ商売をはじめて、家を空けることが多くなり、高橋少年は学校から帰ると孤独に過ごしていた。この間、動物をいじめたり、殺したりしていたという。
 1949年頃から養父は旅館の番頭となり、父子は住み込みで働くため稚内から旭川、留萌を転々とした。これは高橋にとって屈辱の日々だったという。学校は嫌いになり、親に対しても不信感が高まっていた。
 
 高橋が自分を養子と知るのは17歳の時のことである。高橋は自分の性格の問題点をよくわかっており、この性格形成のうえで、養母が家を出て行ったことが大きいと考えていた。養母がもっと自分に教育をするべきだったと考えたのである。このことから養母のことは好きだったが、同時に憎くもあった。さらに女性全体に対する嫌悪感も強かった。浅草の事件でも、渋谷の事件でも、新宿の刺傷事件でも、被害者は高橋よりも年上である。これらの殺傷事件は、高橋が母親を追い求めた結果にも見え、「マザコン殺人」とも言われる。

 高橋は常磐中学校を出ると、旅館の雑用をしながら定時制高校へ進む。この年の6月には帳場の金を盗んで、母がいると聞いた仙台に行こうとするが警察に補導された。その後、青森県弘前市の瀬戸物店で住み込みで働いたが、やはり店の金を盗み、上京した。だがまた補導され、当時父が住み込みで働いていた弘前の旅館で同居した。

 高橋と顔なじみのD子ちゃん(7歳)という少女がいた。旅館の近所に住む子で、11月のある日、D子ちゃんが旅館に遊びに来た。高橋はこの少女を3階の部屋に連れ込んで乱暴しようとしたが、言いつけられると困ると思って絞め殺している。D子ちゃんの遺体は押入れに隠し、現金11万円を盗んで再び東京に向かった。しかしまもなく浅草で発見され、翌年青森地裁弘前支部で懲役15年を言い渡された。青森刑務所、盛岡少年刑務所、宮城刑務所で服役した。服役中の評判は良かったという。

 1966年、仮出獄の許可が出る。すでに20代半ばとなっていた。高橋は仙台に住む養母に引き取られ、刑務所で習得した仕立ての技術で、市内の洋服店に勤めた。待望であったはずの養母との暮らしは、空白期間の長さからか、なぜかぎくしゃくした。そして周囲の反対を押し切って、上京したのである。都内でも仕立ての仕事をしたが、職場では無口で真面目な人柄だった。逮捕当時は29歳の美容師の恋人がいたという。

 1951年の築地・八宝亭事件などで活躍した捜査一課のO係長という人物がいた。高橋がD子ちゃんを殺して上京した時、O氏が彼を発見した。O氏は弘前に向かう夜行列車に同乗し、そのあいだ父子のように語り、弁当やお菓子を食べさせた。
 高橋が新宿の三光町の事件で逮捕された後、取り調べ室で久し振りに警部補となっていたO氏と対面した。最初高橋はこの男性がO氏と知らなかったが、気づくと大粒の涙を流しながら「あの時の夜行列車の弁当はうまかった」と話し始め、他の事件の自供も一気に始めた。


【告白】

 1954年5月6日、北海道旭川市である少女が死んだ。
 幸子ちゃん(6歳)という小学1年生の女の子で、ハサミを持って駈け出してきた級友と廊下でぶつかり、医務室に運ばれたものの出血多量により死亡したのである。この出来事は「子供同士の不慮の事故」ということだった。

 この「事故」から17年後、高橋は獄中から突如「あれは自分が犯人だ」と告白するのである。

 「事件」当時、高橋は当時中学2年生だった。高橋の告白手記がある。


 この日、私は学校を休んだ。かばんを持って家を出たが休むつもりであった。学校まで20〜30分かかるが、学校の近くの九条通りを13丁目まで行き、六条13丁目へ向かった。午前9時近くであった。大成小学校の玄関の前を通り、便所の横を通り、遊園地に出ようとしたのです。そのとき、便所の横を通るとき、ガラス戸から中をチラッと見たとき、おんなの子が便所に入るのが目についたので、そのとき私はすぐ殺意が起こり、玄関から便所に入りました

 向かって左側三番目の便所が少し開いており、(中略)子供は用便をおわり、ちょうど出ようとしたのです。私は左手で子供の首を板壁に押えつけ、声を出さないようにしておいて、右手にもった細身のクリ小刀で子供の左上腹部を衣服の上から一回刺したのです。1cmぐらい刺さったように思ったが実際には7cmぐらいである。すぐ抜くと同時に首の手をはなした。血は出なかったが小刀に血がべったりついていた。子供はうめき声をあげ腹をおさえ腰を落とすような格こうになり私の顔を苦しそうな目で見ていた。

 声を出すようならメチャクチャに刺して殺そうと思ったが、苦しくて声も出ないようであった、時間にして一分ぐらいであるが、様子を見ていたが、子どはフラフラしながら出口のほうへ戸をつたうようにして出て行った。私はかばんを持ち便所の出口へ向かった。

 その時、子供は出口のところに寄りかかるようにして、柱につかまっていたのが目についたが、その横を通り玄関から外へ出たのです。左に曲がり、便所の横を取ってグラウンドの端を通って、道路に出て図(地図の絵)のように歩いたのです。便所の脇で小・中学生が3、4人遊んでいたのが目についたが、私の方には気がつかないようであった。

 新聞は夕刊をみました。子供は、出口から7mぐらいはなれた玄関に近い教室の手前で、倒れていたところを発見して医務室へ運んだが、すでに意識がなく死亡したと載っていた。しかし、私を目撃したものがおらず迷宮入りとなったのです。

(平岡正明「あらゆる犯罪は革命的である」より。原典は「ヤングレディ 1971年2月28日号」とのこと)


 第一報によると、幸子ちゃんは1時間目の工作の時間中にトイレへ行った。担任の教諭は幸子ちゃんがいなくなったことに気づいていなかった。そしてまもなく血まみれになっているのを通りかかった6年生担当の教諭が発見した。ハサミを持った同級生とぶつかったという光景は誰にも目撃されていなかったのである。
 幸子ちゃんは暴行を受けた形跡はなく、また工作の時間中の出来事なので、子供同士の過失というのも当然考えられる。幸子ちゃんの両親は「できれば子供同士の過失事故であってくれればと願っています」と談話で述べていたが、同級生の持ち物のハサミから小さな人血の痕が認められたため、過失の方向へ落ち着いていった。子供同士の事故であるから、当事者の将来のことも考えて、この出来事についてさらに詳しく調べられることもなかった。幸子ちゃんにぶつかったとされる同級生は「人殺し」と呼ばれ続け、大人になって重いノイローゼに苦しんだと伝えられる。

 高橋はさらに5ヶ月後の同年10月24日、やはり旭川市内でかおるちゃんという少女を殺害したことを、同じ手記で述べている。


 10月下旬、多分、24日の日曜日か25、6日か、はっきり覚えていない。果物ナイフを持って旭川4の7の映画館の看板を見て歩いたが、東宝劇場の看板を見たら「七人の侍」を上映中であった。歴史物に興味があるので切符を買って入った。入口から入って左側のの席であった。

(中略)

 午後3時ごろ、帰るつもりで席を立ち、後の壁にもたれて15分ぐらい見ていたら、前席の出入口から出た子供の後を追って図説のように婦人用便所に入った。

 向かって左側の便所の戸が開いており、私が入ろうとすると、ちょうど子供が出ようとしたので、私は子供の中に突きとばし、起き上がろうとしたところを左手で首を押え、右手でズボンのポケットから果物ナイフを出して、子供の左側の首を一度刺したところギャッといって泣き出したので、もう一度刺した。さらに刺そうとしたら子供に低い声で『痛いよう』といわれ、私は我にかえり・・・

(中略)

 ・・・ナイフをズボンに納め、そのまま鳴き声を背に聞きながら歩いて玄関から出た。入口に受付嬢が一人いたようだが顔は見なかったし、相手も見ていないようだった。その足で家に帰った。すぐ風呂のストーブの火を炊いた。3時30分過ぎごろと思う。ズボンのポケットがナイフについた血でぬるぬるしていた。私自身、左手の指など3か所ぐらい切っていた。今でも苦痛にゆがんだ、おかっぱ頭の顔を思い出す。

 その日の私の服装ですが青いセーターに黒のズボン、頭は坊主であったが髪は伸びていた。この青いセーターは旅館に出入りしている生花の渡辺という先生に作ってもらったものです。数日後、精薄の12歳ぐらいの少年が調べられていたが犯人でない。

 私は情性欠如といわれる通り、顔色には出ないし、人を殺しても普通人とはなんらかわらぬ態度をしているので犯人とはわからないのです。


 このかおるちゃん殺しでは、14歳の知的障害を持つ少年が逮捕されている。
 かおるちゃんも高橋と同じように旅館の番頭の娘であった。この日は母親と一緒に東宝劇場へ「七人の侍」を観に来たが、上映の途中で「おしっこしたい」と言いだした。母親はかおるちゃんを一人でトイレに行かせたが、場内に戻ってきたかおるちゃんは「青い服を着たおじさんに首を絞められた、痛い」と呟く。母親がかおるちゃんの首筋を触ってみると生温かい。廊下に連れ出してみると多量の出血をしていた。かおるちゃんはすぐに病院に運ばれたが、まもなく死亡した。

 この告白については、新たな事件調べのため死刑執行を伸ばそうとするデタラメのものとする見方もある。この2人の殺害方法は似ており、ともに1954年(幸子ちゃん事件の2週間前)に東京・文京区で起こった鏡子ちゃん殺人事件をモチーフにしていると見られる部分が目立つ。さらに地元で起こった事件ならば、幸子ちゃんやかおるちゃんの事件を知っており、新聞記事を熟読していた可能性が高い。高橋は当時、新聞記事を読み、そのことを強くイメージしたため、妄想の手記で詳細な記述ができたという見方も出来る。

 しかし、あるいは本当にやっていたのかもしれない。旭川がいかに北海道有数の大きな街だといっても、たてつづけに幼い少女がトイレに行った時に刺されて亡くなるというのは不自然である。幸子ちゃんと学校の廊下でぶつかったとされる同級生には返り血はついていなかったというし、小学1年生同士がぶつかって、それが致命傷となるというのは偶然が重なり過ぎている。

 大人になった高橋は都内で3つの事件を起こした。新宿の事件でヘマをして逮捕されたが、あれがなければまだまだ捜査線上には浮かんでこなかったし、また次の殺しをしていた可能性がある。すぐに捕まらなかったのは、おとなしく、目立たず、真面目なその人柄もそうだが、手記で自分が書いているとおり殺しをしても動揺せずに普段通りに過ごせる点が大きい。そんな少年が当時旭川に間違いなくいたのである。そしてその少年は2年後にも幼い女の子を手にかけていた。

 手記は真実か妄想か、真相はわからないまま、1972年8月に高橋の死刑が執行された。


リンク


≪参考文献≫

現代評論社 「あらゆる犯罪は革命的である」 平岡正明 
光文社 「殺人全書」 岩川隆


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