栗田源蔵事件




【事件概要】

 1952年1月、千葉県検見川町の民家で、女性(63歳)と姪(24歳)が殺害されているのが見つかる。まもなく栗田源蔵(当時26歳)が浮上、逮捕される。栃木県の主婦殺し、千葉県のおせんころがし母子殺害事件など、5年間で8人を殺害していた。


栗田源蔵


【はやぶさの源】

 1952年1月13日夜、千葉県千葉市の北郊・検見川町(現・千葉市)の民家で、主婦(63歳)と義理の姪(24歳)が殺害された。発見者は14、15日のあいだ、戸が開かず、話声も聞こえないのを変に思った裏隣の人だった。

 主婦は腹部を鋭利な刃物で刺され、上から布団がかけられてあった。姪の方は、10畳間で手拭で絞殺されており、強姦された形跡があった。こちらも上から毛布がかけられていた。家からは衣類数点が紛失していた。
 侵入口は鍵のかかっていない裏の勝手口である。勝手口からは迷路のような路地に出るため、地元の地理に明るい男が犯人と見られた。

 その頃、現場付近では盗難事件が続発していた。
 当局が目をつけたのは、付近にたむろしている不良グループのリーダー格で、通称「はやぶさの源」こと栗田源蔵(当時26歳)だった。窃盗の前科2犯。殺人未遂1犯、秋田での窃盗容疑で全国指名手配中だった。

 16日、義弟の家にいた栗田を逮捕。捕まえられた時、布団綿にくるまって寝ていたが、これに血がついていた。また血のついたアジ切り包丁もみつかり、調べた結果、それは検見川の事件で殺された姪が当夜敷いていたものだとわかった。

 栗田は犯行を否認していたが、警察は17日には真犯人と断定。
 逮捕後、栗田は高熱を出して寝こんだが、これは「生まれて初めて人を殺したからだろう」と見られたのだが、実はそうではなかった。


 検見川での事件が公表されると、警察に全国から手口が類似する事件の問い合わせが相次いだ。栗田の関与が疑われたのは、栃木と千葉で計4人が殺害された事件だった。

(小山事件)
 51年8月8日、栃木県下都賀郡小山町(現・小山市)で、乳児を寝かしつけていたF子さん(24歳)が強姦され殺害された事件。乳児は無事だった。照合の結果、栗田の指紋と一致した。

(おせんころがし事件)
 51年10月10日、千葉県安房郡小湊町(現・天津小湊町)の通称「おせんころがし」と呼ばれる海に面した断崖上で、天津町の主婦(29歳)が強姦されたうえ殺害された。一緒にいた長男(5つ)、長女(7つ)、次女(2つ)も首を絞められたり、断崖から投げ落とされて、長女を除く母子3人が死亡した。「おせんころがし」というのは、断崖絶壁かつ、足場が狭い岩道で、それが4kmほど続いている。かつて”おせん”という娘が足を踏み外して転がり落ちたことから、この名前がついた。

 殺害されたのは行商人の妻で、この日は館山方面で行商中の夫を尋ねて、興津駅まで来ていた。ところが午後11時頃、終列車は出てしまい、宿に泊まる金もない。駅前のベンチで途方に暮れているところを、自転車を押した若い男に声をかけられた。
「子どもを自転車に乗せてやるから、一緒に行こう」
 こうして母子は男について行くことになった。男は長男を自転車の荷台に乗せ、次女を背中に、長女の手を引いて歩いた。
 おせんころがしの入り口の山小屋でひと休みした時、男は主婦に襲いかかってきた。妊娠9ヶ月だった主婦はそのことを理由に断ると、男はいったん身をひいた。

 午前1時ごろ、5人がおせんころがしの断崖にさしかかった時、男はいきなり自転車を倒し、長男を25m下に投げ落とした。さらに長女も同じように投げ、主婦がショックでその場に座りこむと、男は衣類をはぎとり、強姦した。その時に首を絞め、彼女も崖下に投げ落とした。その後で、眠っていた次女も同じように放り投げた。
 長女は闇にまぎれて1人だけ崖下にすべって軽傷で済んでおり、草むらから男の方を見た。崖下に下りた男は、石で頭を殴ってとどめをさし、なぜか3人の遺体を積み重ねて立ち去ったという。

 この事件は長女以外に目撃者はなく、遺留品もない。何人かが容疑者として浮上したが、いずれもシロとされた。


【2つの死刑判決】

 栗田は秋田県の、とある村に生まれた。父親は網づくりや小魚採りで低収入のうえ、兄弟が12人いるという極貧の家庭に育った。おまけに父親が病弱なため、母親が出稼ぎに行っており、村でも一番の貧しさだったという。
 栗田は幼い頃から内気な少年で、学校ではいじめられたりもした。小学校3年ぐらいからは学校をさぼって、1人山で遊んでいた。また幼い頃から寝小便の癖があり、18歳までいくつかの農家で下男をしていたが、尿臭が嫌われすぐクビになった。
 18歳で弘前の歩兵連隊に入り、敗戦後は北海道・美唄炭坑で坑夫をしていたが、肉体労働に従事するうちに、粗暴な性格を持つようになり、体格もがっしりしたものとなった。この後、各地を転々としているうちに、46年に窃盗、物価統制法違反、食糧管理法違反容疑で逮捕された。48年には酒に酔っての殴り合いで殺人未遂、傷害で懲役2年の判決を受け、1年で釈放されるものの、再び空き巣狙いで逮捕されていた。


 52年8月13日、検見川事件について、千葉地裁で死刑判決。

 その2ヶ月後、栃木本部と小山地区警察の捜査課は、小菅刑務所の栗田を訪ね、小山事件を追及。12月までに自供を得ることに成功した。

 おせんころがし事件の方も、犯行直後に秋田に逃走した栗田が、10日夜同県沼館町で知人がはたらいた窃盗事件を聞き、身代わりを約束、みずから犯人をかってでていたことがわかった。

 さらに栗田は、48年2月に結婚を約束していたY子さん(20歳)、同じくH子さん(17歳)を殺害していたことも自供した。

(2女性殺害事件)
 これは、ヤミ米ブローカーをやっていて金回りの良かった47年頃に知り合ったH子さんと夫婦約束をしたが、H子さんの友人であるY子さんとも夫婦約束のうえ関係を持っていた。
 ある日、栗田はしつこく結婚を迫ってきたY子さんを性交後に絞殺。
 また静岡県駿東郡原町(現・沼津市)の浜辺の松林の中で、Y子さんとの関係を知ってやきもちを焼いたH子さんからY子さんの所在をきかれ、「好きなのはお前だけだよ。Y子は殺した」と言ってしまい、H子さんが「それは大変。急いで警察に知らせなきゃ」と言ったのであわててH子さんも絞め殺した。この後、殺人未遂や窃盗などで、逮捕された栗田だが、この殺人はバレなかった。


 他にも51年10月に青森県蔵館温泉での類似事件も自供したが、これはウソということで、今度は「おせんころがし事件」「小山事件」「2女性殺害事件」の3件6人殺しで起訴され、53日12月21日には宇都宮地裁から2つ目の死刑判決を受けた。


【拘禁ノイローゼ】

 拘置所での栗田はわがもの顔にふるまい、看守にも暴言や暴行を繰り返した。房内の報知器を1日に40回、50回とおろして看守を呼んだ。典型的な凶悪死刑囚だったわけだが、この頃にも寝小便の癖は治らなかったという。

 しかし54年に入ると、そのうち体調の不良を訴えはじめ、ガラスなどを割って自傷行為をするようになった。拘禁ノイローゼの症状だった。

 54年10月21日、「早く楽になりたい」と、栗田は突然控訴を取り下げ、死刑が確定した。

 59年10月14日、死刑執行。死の前は、かつて凶暴な面影はなく、やせ衰えて気弱な男になっていたという。


リンク


≪参考文献≫

アスペクト 「特集アスペクト38 実録 戦後殺人事件帳」
三一書房 「日本死刑白書」 前坂俊之
潮出版社 「殺意は看護婦を抱きながら 昭和猟奇情痴事件簿」 草野唯雄
ジャパンミックス 「異常‐SEX‐殺人のカタログ50」 CIDO・プロ編
新潮社 「日本の大量殺人総覧」 村野薫 
青林工藝社 「日本の殺人者」 蜂巣敦
大洋図書 「日本震撼事件 戦後殺人ファイル100」 日高恒太朗
中央公論社 「死刑囚の記録」 加賀乙彦
宝島社 「別冊宝島 身の毛もよだつ殺人読本 血と精液にまみれた殺人鬼たち」
宝島社 「戦後死刑囚列伝」 村野薫
東京法経学院出版 「日本犯罪図鑑 犯罪とは何か」 前坂俊之 
パロル社 「ドキュメント連続少女殺人 孤高の鬼・吹上佐太郎」 蜂巣敦


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