金閣寺放火事件





【事件概要】

 1950年7月2日午前2時頃、京都市上京区衣笠金閣寺町にある臨済宗相国寺派別格地・鹿苑寺(通称・金閣寺)庭園内の国宝建造物・金閣から出火、46坪を全焼した。
 まもなく逮捕されたのは同寺の徒弟・林承賢(当時21歳)だった。

※金閣寺・・・・正式には鹿苑寺(ろくおんじ)。1397年、足利義満が西園寺公経から譲り受けた邸宅を改築するなどして一新、「北山殿」と名づけて住み、ここで政務をこなした。禅寺とされ、「鹿苑寺」と名づけられたのは義満の死後のことである。応仁の乱では多くが焼失し、再建された。昭和の放火事件後は、55年に再建されている。94年に登録された世界遺産「古都京都の文化財」の1つ。


林承賢


【金閣炎上】

 1950年7月2日午前2時頃、京都市上京区衣笠金閣寺町にある臨済宗相国寺派別格地・鹿苑寺(通称・金閣寺)庭園内の国宝建造物・金閣から出火、おりからの強風という悪条件もあって46坪が全焼した。この火災により、国宝の足利義満像、運慶作の観音菩薩・阿弥陀如来・勢至菩薩、春日仏師作の地蔵尊、中国渡来とされる大元禅師像も同時に焼失した。

 火のないところからの出火であったため、警察は放火と断定。遺留品などから鹿苑寺の徒弟である大谷大学中国語学科1年・林承賢(当時21歳)の犯行とわかり、彼を指名手配した。
 林は2日午後7時頃に、裏山で「カルモチン」を服用して苦しんでいるところを逮捕されている。

※カルモチン・・・・鎮静催眠薬のブロムワレリル尿素の商標名。ブロムラール。

 林は春頃から強い絶望感に襲われ、学校をサボって米の買い出しブローカーをやっていた。こうした行為からの自己嫌悪で、金閣の参観者にも反感を抱き始め、その場で英雄的死をとげるつもりだったという。
「金閣寺の優美さを呪い、反感を抑えきれなかった」
 動機について、林はそう語った。


【妬みの炎】

 林承賢は1929年、舞鶴近くの日本海側に突き出た岬にある漁村・成生(現・舞鶴市)で生まれた。

 林の父は26歳で臨済宗東福寺派の寺の住職となった。檀信徒は村の人だけで、経済的には恵まれていなかったが、生家からの援助もあって、生活に不自由はなかった。

 林は4歳ごろから吃音を気にするようになり、それをからかわれて、友人と親しく付き合うようなことはしなくなった。
 小学校の頃の成績優秀で、大抵1、2番だった。父に従って経文を唱え始めるなど、寺の子どもとして申し分がなかった。

 父は元々病弱だったが、次第に病状は悪くなり、寝たきりの生活を送るようになった。性格的な評判は悪くなかったのだが、そうした住職から村の人々は離れていき、やがて冷たく扱われるようになった。この頃は収入は実家からの援助が主になっていった。

 小学校を卒業した林は41年、府立東舞鶴中学に入学。伯父の家に下宿した。中学でも林は周囲に壁をつくって馴染まず、一方的に「おい、坊主」などとからかわれるようなことがあった。

 1942年、父は自分の死期を悟ったのか、臨済宗相国寺派鹿苑寺住職に突然手紙を送った。承賢を弟子にしていただけないか、という内容のもので、面識はなかったにもかかわらず、住職は快諾している。
 父は以前から鹿苑寺について「あの寺はぜいたくな町寺で、徒弟から傑出した人物は1人もでていない」と批判的な見方をしていた。しかし、一方で寺の金で徒弟を大学に進学させているということも知っており、「息子も大学を出てりっぱな僧侶になって欲しい」という思いから手紙を送ったらしい。鹿苑寺住職から返事をもらった父はまもなくこの世を去った。

 まもなく林は母と京都に移り、44年4月に花園中学4年に編入した。この頃を極端に母を嫌い、「伯父が来たら、金閣を案内してやるけれども、母が来ても昇らせない」というようなことを話していた。
 1945年、林は寺から脱走し、叔父の家へ逃げた。破門になったが、許されている。
 
 中学を卒業した林は相国寺内の禅門学院に入学、47年に大谷大学予科に進学した。1年時には83人中24番と、中の上の成績だったが、2年時には77人中33番と下降、3年一学期には最下位、二学期からは学校を休みがちになり落第点をとった。このことは林が吃音に悩んでいたことや、日頃から「はっきり物を言え」と叱られるなど、鹿苑寺の長老に嫌われていると思いこんでいたことが関係していると言われる。
「鹿苑寺において、自分はもう上がり目はない」
 林は優美な姿で佇む金閣が妬ましく思えた。


【母の死】

「火災報知機が壊れてまっせ」
 ある日、案内人の老人がそう報告しているのを林は聞いた。金閣には当時、最新式の火災報知機が取りつけられており、報告を受けた寺はすぐに修理を依頼した。林はこの機会を逃すことはできなかった。
 7月2日、彼は足利義満の坐像にわらの束を置き、マッチで火をつける。その場で死ぬつもりだったが、炎上しているのを見て怖くなり、裏の大文字山に逃げた。彼はポケットからカルモチンの瓶を取り出して飲み、刃物で手首を切った。

 逮捕された林は次のような告白をしている。
「自分でも現在の自分の心が割りきれないが、火をつけたことは悪いとは思わない。金閣の美しさを求めて、毎日訪れる参拝者の群を見るにつけて、私は美にたいし、またその階級にたいして、しだいに反感を強くしていった。世の中の美は、自分にとって醜いと感じたが、反面、その美にたいするねたみを押さえることができなかった。これは自分たち若い世代のものが、悪い環境におかれているためかもしれない。あるいは、自分のドモリからくる精神的な苦しみからかもしれないが、この考え方が、醜いと感ずると同時にこれは強く打ち消し、これでいいのだという矛盾した考えかたに悩まされた。そのあげく、悩む自己に解決をつけるため、社会革新の立場から実際行動に移るべきだと決意した」


 3日夕刻、面会を拒絶されて家に帰る途中だった母は、息子の行いの責めを負って、汽車から保津川に投身自殺した。死の直前、母は警察官に「あの子は国賊です」と漏らしていたという。

 その翌日、林は拘置所で次のような手記を書いている。


生とは如何、生死なんて全く無意味だ。世の馬鹿面達諦聴せよ!何の意味がある。――こんな事書くのも意味がないが――三度三度飯を食い、又寝ね、泣いたり、笑ったり、怒ったり、毎日毎日くりかえしている。如何に如何に。しかし意味ないと云いながら、やはり自分も意味ないことをやっているんだな。何ものが欺くさせるんだ?敢えて云う、全く意味ない。地球は廻り四季巡行す。一体何だ。人間て何だ。(後略)




 三島由紀夫はこの事件にヒントを受け「金閣寺」という小説を書き、そしてこれは「炎上」というタイトルで映画化(監督・市川崑 主演・市川雷蔵)されている。また水上勉も「五番町夕霧楼」を書いた。


【裁判】

 12月28日、京都地裁、林に懲役7年(求刑同10年)を言い渡す。

 林は加古川刑務所で服役していたが、52年に恩赦で5年3ヶ月に減刑された。
 1953年に精神分裂症と結核の診断を受け、東京・八王子の医療刑務所に送られている。
 1955年年10月に出所したが、翌年3月に肺結核のため、26歳の若さで死亡している。

 現在の金閣寺執事長・江上泰山氏は林の弟弟子だった。江上氏によると、物事の善悪を明確にする禅だが、林は迷いがあり中途半端だったという。


リンク

金閣寺
http://www.shokoku-ji.or.jp/kinkakuji/

大谷大学
http://www.otani.ac.jp/


≪参考文献≫

朝日新聞社 「朝日新聞一○○年の記事に見る(6)奇談珍談巷談 下」 朝日新聞社編
朝日新聞社 「昭和史の瞬間(下)」 朝日ジャーナル編
河出書房新社 「常識として知っておきたい昭和の重大事件」 歴史の謎を探る会・編
ぎょうせい 「裁判からみた百大事件の結末」 真島一男
警察文化協会 「戦後事件史 警察時事年間特集号」 
現代評論社 「現代の眼 78年8月特大号 全特集・戦後犯罪史−怨恨と欲望の社会病理」
講談社 「昭和 二万日の全記録 第9巻 独立-冷戦の谷間で」 
講談社 「週刊 日録20世紀 1950」
講談社 「戦後欲望史 混乱の四、五○年代篇」 赤塚行雄
近藤書店 「NHK報道の50年 激動の昭和とともに」
作品社 「犯罪の昭和史 2」 作品社・編
新人物往来社 「別冊歴史読本 戦後事件史データファイル」
新評社 「別冊新評・臨時増刊 戦後重大事件懇談会」 佐野洋 森本哲郎 熊井啓
筑摩書房 「犯罪紳士録」 小沢信男
東京法経学院出版 「明治・大正・昭和・平成 事件犯罪大事典」 事件・犯罪研究会・編
毎日新聞社 「シリーズ20世紀の記憶 冷戦・第3次世界大戦 1946−1956 ビートゼネレーション」
毎日新聞社 「毎日グラフ別冊 サン写真新聞 ”戦後にっぽん”5 昭和25年=1950・庚寅」
毎日新聞社 「事件の裏窓」 毎日新聞社会部編 
みすず書房 「日本の精神鑑定」 内村祐之・吉益脩夫監修 




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