板橋区・管理人夫婦殺害事件




【事件概要】

 2005年6月20日夕方、東京・板橋区の建設会社社員寮で突然爆発が起こり、管理人室内から見つかった管理人夫婦(夫44歳 妻42歳)の遺体には切り傷や殴られた跡があったため殺人事件と断定。また、この家の高校1年の長男A(当時15歳)の姿が消えていたため行方を追った。
 22日朝、Aは草津温泉の旅館で発見され、犯行を認めたため逮捕された。


A


【爆発】

 2005年6月20日午後4時40分頃、東京・板橋区の建設会社社員寮で、突然爆発が起こった。当初はガス爆発と見られたが、管理人室内で管理人夫婦(夫44歳 妻42歳)と見られる男女が鈍器と刃物で殺害されているのが見つかり、殺人事件と断定。
 
 爆発は調理用電熱器に時限発火装置が仕掛けられたことによるもので、室内には姿が見当たらない高校1年の長男A(当時15歳)のものとみられる血のついたTシャツとジーンズが残されており、外部から侵入した形跡もないことから、Aがなんらかの事情を知っているものとして行方を追った。

 2日後、Aは草津温泉の旅館で発見され、犯行を認めたため逮捕された。


【家族】

 Aは東京青梅市で生まれた。祖父は仏壇屋を、祖母はお好み焼き屋を、父は電器店をそれぞれ自宅で営んでいた。

 96年、Aが小学1年生の時、店を閉じた両親は建物管理や給食・清掃を受託する人材派遣会社に就職。江戸川区内の社員寮に派遣される。
 
 1年ほどして、今度は埼玉県戸田市の社員寮に移った。Aも掃除など親の仕事を手伝うようになる。5年生になると、賄いをする母親を手伝うようになった。しかし手伝いに時間の多くをとられるため、学校の成績は落ち始めた。母親が天才児を紹介するテレビ番組を観て、「生まれた頃は他の子と違っていたのに、いまはなんでこうなんだろうね」とつぶやくのを聞いて、「手伝いをしてるのに……」とショックを受けた。
 Aは友達が「家族でディズニーランド行ってきた」という話を聞いては、羨ましく思った。Aの家は両親とも毎日仕事があるので、到底不可能だった。
 02年3月、小学校卒業。卒業文集には「転入してきて」という題の作文を書いた。そのなかで「やっと仲よくなったのに(友人と)別れてしまうのでぼくは引っこしが大きらいになった」と綴っている。

 03年4月、両親の転勤に伴い埼玉県戸田市から板橋区内の公立中学校に転入。父親は「もう転校はないよ」と言っていたのに、転校を余儀なくされたことに不満を持った。
 中学になると、土日、夏休みも仕事をさせられていたが、汗だくになって掃除する横で、父親がクーラーの効いた部屋でテレビを見ていることもあった。「ほかの子は遊んでいるのに、どうして手伝わなきゃいけないの」と反発したこともあったが、「バカか、子どもは親の手伝いをするもんだろう」と怒鳴られ、ゲーム機を壊された。

 母親は、Aが中学に入った時から「死にたい」と洩らすようになった。うつ病であったと見られる。Aが「がんばりなよ」と言っても、「うるさい、放っておいて」と拒絶した。父親はそんな浮かない表情の妻を見て、「飯がまずくなる」と1人でご飯を食べるようになった。

 04年12月、近くの空家に友人と何度か侵入、警察から注意を受けた。この頃から、父親が冷たくなったと思いこみ、父子の確執が生まれた。

 05年4月、都立の工業高校に入学。第1志望ではなかったが、家の手伝いのため、部活をやる暇はなかった。学校でのAは「おとなしい」「真面目」という印象を持たれた。クラスメートとは距離を置き、Aの携帯電話の番号を知る生徒はいなかったという。
 
 6月19日日午後11時ごろ、Aが自宅でテレビを見ていたところ、バイクのツーリングから帰ってきた父親が「おまえは工業高校の生徒なんだから、もっと勉強しろ」と怒鳴った。Aは「父さんだって、工業生で中退だろ」と言い返すと、父親は激昂し「お前とおれとは頭の出来が違うんだ」とAの頭をおさえつけた。
 この時、Aは両親殺害を決意した。母親については、「死にたいと言っていたので、楽にしてあげよう」と思ったという。翌朝には鉄アレイを購入した。

 午前8時ごろ、Aは母親不在時に和室で寝ていた父親の頭に鉄アレイを6〜7回振り落とし殺害。Aは部屋に戻ると、台所の流し台に立った母親が振向いたところを包丁で刺した。母親は逃げ惑ったが何度も切りかかり、父の遺体のある和室で絶命した。
 Aは手を負傷したため、血のついた服を着替え、近くのドラッグストアで包帯を買った。
 そして電熱器の上に殺虫剤のスプレー缶を置き、テーブルの下にサラダ油を撒いた。この爆破装置は以前TVのニュース番組で知った。

 タイマーを4時間後にセットすると、家を出て池袋の映画館で「バットマン ビギンズ」を鑑賞。その後、上野駅から電車に乗り軽井沢に向かった。

 20日夜は長野県軽井沢町のホテルに宿泊。
 翌朝、バスで群馬県草津町に向かい、温泉旅館にチェックインしている。従業員には偽名を名乗り、「アルバイトでお金をためて旅行をしている」と話していた。
 旅館の従業員はTVで板橋区の爆発事件を知り、念の為宿帳を確認してみると、住所が一致したため通報した。
 22日午前7時半、朝食をとりに部屋を出たAを捜査員が声をかけたところ、犯行を認めたため逮捕された。逮捕時の所持金は3万円ほどだった。


【親の愛は届かず】

「父親が自分をバカにしたので殺してやろうと思った。母親はいつも仕事が忙しく可哀そうで、『死にたい』と話していたので一緒に殺した。反省している」

「土曜、日曜、夏休みも関係なく食事の準備や掃除など寮の仕事でこきつかわれた」

 犯行は「親に愛されていない」という不満からのもので、事件後もAは両親のことを他人事のように淡々と語っていた。

 ところが6月末、ある捜査員から通帳を見せられ、Aは涙を流す。それは母親がAのために内緒で貯めていたA名義の通帳だった。

 またAは法廷で、おじが「家族として引き取り、自分の子どもと同じように育てたい」と証言するのを聞いて、涙を流した。
 おじ夫婦には子どもが2人いて、1人はAと近い年頃で、祖父母の家で一緒に遊んだことがあった。子どもたちはAのことを心配しているという。

 
【裁判】

 2005年11月9日、東京地裁の初公判で、Aは「16年間ここまで育ててくれたのに恩を仇で返してしまった。大馬鹿なことをしてしまって本当に後悔しています」と述べる。
 
 弁護側は公判で「不適切な親の養育態度」について主張。父親は少年のゲーム機を何度も壊したり、Aを犬と一緒に段ボール箱に入れたりしていた。またある時はAが帰宅すると、机の上に自殺本が置いてあり、父親から読めと言われることもあった。Aは「自殺しろということか」と考えたという。他にもイグアナやヘビを放し飼いにしてAと同居させたりこの父親の”幼稚さ”を物語るエピソードは多い。なお自分より多い労働量をAに命令するなどしており、Aは拘置所暮らしについて「両親と暮らしていたころより自由」だとした。

 2006年8月30日、論告求刑公判で、検察側は「冷酷な両親殺害計画に基づく犯行で、厳罰をもって臨むべきだ」として、懲役15年を求刑。

 9月13日、公判が結審。Aは意見陳述で、「お母さんに対する気持ちはどんどん大きくなって、辛い」「今でもお父さんのやったことは適切とは思わないが、憎しみは氷のように解けた」などと述べた。

 12月1日、栃木力裁判長は「短絡的な動機で計画的に両親を惨殺しながら、内省は深まっていない。被告の健全育成を図るには、犯した行為の重大性を認識させ、責任を自覚させるため、刑罰を与えることが必要」と述べ、懲役14年を言い渡す。

 2007年12月17日、控訴審判決。東京高裁・植村立郎裁判長は「父親の長年に渡る不適切な養育があった。反省を深めており、一審判決は現時点で重過ぎる」として一審判決を減刑し、懲役12年を言い渡した。
 Aは「誰かのために生きたいという気持ちが強い。(社会復帰したら)子供のために仕事をしたい」などと将来の希望を口にしている。


リンク


≪参考文献≫

NTT出版 「親殺し」 芹沢俊介
新潮社 「新潮45 07年1月号」
新潮社 「身内の犯行」 橘由歩
中央公論新社 「婦人公論 06年10月7日号」
文藝春秋 「週刊文春 05年7月7日号」
ミリオン出版 「別冊ナックルズ 昭和三大事件」 


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