鹿地亘事件





【事件概要】

 1951年11月25日夕方、神奈川県藤沢市の別荘で療養中だった作家・鹿地亘(当時47歳)が散歩中に行方不明となった。
 鹿地はGHQに約1年間にもわたり監禁されていたのだが、米軍施設で働いていた日本人青年が連絡役をつとめ、その事実が発覚した。


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【失踪】

 1951年11月25日夕刻頃、肺結核手術後のため神奈川県藤沢市別荘で療養生活を送っていた作家・鹿地亘(当時47歳)が、夕食後の散歩に出かけたまま行方不明となった。


 鹿地亘は本名を瀬口貢という。東京帝国大学国文科在学中から東大新人会のメンバーとして活躍し、卒業後日本共産党に入り、プロレタリア作家同盟書記長となった。
 1934年に治安維持法違反で逮捕、懲役2年、執行猶予5年の判決を受けた。36年には中国文学研究のために上海に渡り、神田神保町の「内山書店」内山完造氏の紹介で魯迅の知遇を得て、「大魯迅全集」の翻訳に携わった。
 やがて日中戦争が勃発。鹿地は「日本人民反戦同盟」を組織し、抗日運動に明け暮れた。その活動ぶりはよく知られていたという。戦後は日本に戻り、第1回衆院選に出馬するが落選していた。

 年末から年初めにかけて、新宿に住む妻に「安否気遣い無用」の短信が届くが、その後ぷつりと音信は途絶えた。

 1952年2月に入ると、内山氏のもとに、鹿地の行方を知る1人の青年が訪れ、鹿地が米軍の施設で監禁されていることがわかった。

 9月中旬、鹿地の監禁を伝える英語の怪文書が出回り、「週刊朝日」「社外タイムス」らが取材開始。

 11月20日、鹿地の妻・池田幸子さん、日中友好協会理事長・内山完造氏、反戦運動時代の同志・長谷川敏三氏が、衆議院議員会館の左派社会党代議士・猪俣浩三を訪れ、鹿地救出への尽力を依頼した。また数日後には鹿地との連絡役になっていた青年を保護した。

 12月5日、猪俣代議士は斎藤昇国警長官と秘密裏に会見し、救出を依頼するが、不首尾に終わった。

 12月6日、猪俣代議士は幸子さんと相談したうえで、記者会見を開いて拉致監禁の事実を公表した。世論の圧力で鹿地を救出しようと考えたからだった。
 同日の夕刊で鹿地亘拉致監禁事件が報道されると、目論み通りアメリカ批難の声があがった。

 その翌日の午後8時頃、鹿地は突然帰宅した。鹿地は猪俣代議士を通じて、「私は訴える」という声明を発表した。


【コックは見た】

 12月10日、鹿地は国会法務委員会で喚問された。彼の証言によると、拉致・監禁は次のように行なわれていた。


 前年11月25日、散歩中、江ノ島電鉄の鵠沼駅近くの路上で、横づけしてきた軍用車に乗った私服の軍人数人に殴り倒され、車に押しこまれた。その時、助手席にいたのはジャック・キャノン中佐(当時少佐)だったという。
 車内で手錠と目隠しをされて、ある建物に連れこまれた鹿地は「英語はできるか」と聴かれた。内容は言わなかったが、「協力しろ」とだけ言ってきた。スパイ要請である。また日本共産党との関係についてもさぐられたという。

 2日目の夜、横浜市中区の中央外人病院に目隠しをして連れていかれ、レントゲン写真を撮った。

 11月29日、鹿地は米軍が使っていた川崎市下丸子の「東京銀行川崎クラブ(以下東川クラブ)」という所に連れて行かれ、そこで監禁された。東川ハウスはテニス場やサッカー場、野球場などを備える広大な敷地の一画に建てられた十字形の建物である。ここでは駐留米軍にコックとして雇われていた山田善二郎氏(当時24歳)が看護と監視にあたっている。鹿地の世話をする役で、衛生兵あがりである光田軍曹が、結核患者の面倒を見るのを嫌がり、すべて信頼する山田氏に見させていたことも関係がある。

 山田氏は1928年新潟生まれ。海軍甲種飛行予科練習生として見え海軍航空隊に入隊し、敗戦により除隊。川崎埠頭の将校クラブのウエイターをしたのち、3年間キャノン中佐邸で住みこみコックを務め、キャノンからたいへん可愛がられていた。
 50年6月25日、横浜市内でキャノンが朝鮮人と銃撃戦をして負傷したことにより、自分の家族を本国へ帰すと、彼の口利きで川崎市の別基地「東川ハウス」へ移された。

 12月2日未明、ベッドの脚と足を縛った鎖をはずしてもらった鹿地は、シャンデリアに帯を引っ掛けて首を吊った。ところが死に切れず、今度はトイレにある消毒用クレゾールを飲んだが一命はとりとめた。自殺未遂後、機関の人間らは態度を一変させ、厳しい監視を緩やかにし、紳士的に接するようになったという。
 山田氏は鹿地の書いた紙片に「内山様」(内山完造氏)、時計は一時を 鹿地 看守の方に ご迷惑をお詫びします」と書かれてあるのを目撃した。それは鹿地の遺書だったのだが、山田氏は彼への同情心から外部との連絡役をつとめるようになった。

 山田氏は2月中旬からにわか仕込みのスパイ学で、隠密活動を開始、神田にいる鹿地の知己、内山氏と3度会い、3度目に鹿地から受けとった1冊のノートを渡した。鹿地は山田に迷惑をかけまいと、詳しい場所などは書かなかった。

 3月上旬、鹿地は茅ヶ崎市菱沼海岸のUSハウス「C-31号館」など、数ヶ月おきに監禁場所を移された。鹿地担当となっていた山田氏も、ここに移り、ここには彼も知っていたキャノンに縁のある人物がいた。この施設では、東川ハウスの時より鹿地と接近することができた。そのことを光田軍曹たちに怪しまれるということもなかった。
 4月、占領体制が解除され、キャノン機関は解散したが、鹿地の身柄はCIA・ガルシェ大佐に引き継がれた。山田氏も解散を機にやめようと考えていたが、

 5月、「C−31号館」にいたアメリカ国籍のロシア人に、怪しまれ始めた山田氏は、わざとそのロシア人とトラブルを起こし、辞めようとした。光田軍曹らは必死に慰留しようとしたが、山田氏は施設を出て行った。
 6月10日に再び「C−31号館」を訪れ、送別会をやってもらい、施設の人間や鹿地と別れを惜しんだ。山田氏は怪しまれないように、秘密の組織から去ったのである。

 だがそれでも山田氏の追っ手に対する不安はおさまらず、家族の住む伊豆近辺にいることをやめた。そこで「米軍の近くにいることで怪しまれることはないだろう」と、横須賀の米軍基地の会計事務員の試験を受け、採用された。この頃にも鹿地に託されたノートを内山氏に渡しに行っている。

 7月中旬、山田氏により、事件の真相が知られ始めると、代官山の猿楽小学校前にあるUSハウスに監禁場所は移された。ここでは光田軍曹の他に、ジャック高橋(二世だと思われる)、ジミーというロシア人らしい男に監視されていたという。山田氏が鹿地が「C−31号館」から移されたと知ったのは、様子を見に茅ヶ崎まで行った8月頃のことである。

 10月、鹿地は目隠しされて羽田空港まで運ばれた。機関の特殊輸送機で沖縄まで連れて行かれたのである。しかし、1週間後には再び代官山の基地に戻されている。

 11月、「社外タイムス」「週刊朝日」で鹿地事件が報道され、記事の中に山田氏の名前が出た。組織の疑念を巧妙にかわしつづけてきた山田氏も、下宿を引き払って逃げ、社外タイムスの記者や、内山氏に匿われることとなった。

 12月7日、代官山から連れ出された鹿地は、ジープに乗せられ、神宮外苑辺りで放り出された。金を渡そうとしてきたが、鹿地はこれを断り、タクシー代だけをもらって帰宅したという。


 鹿地は治療を受けさせてもらっており、また1年間数人の男に監視されていた。かなりの費用と手間がかかっている。それほどまでに長期間監禁しておいたメリットはなんだったのだろうか。
 また鹿地亘はなぜ狙われたのか。それは当時、朝鮮戦争で戦っていたアメリカ軍が、中国に精通した人物、また日本共産党幹部の情報を欲していたからと見られた。


【第2のスパイ登場】

 事件は鹿地の解放では終わらなかった。

 12月11日、アメリカ軍は衆院法務委員会を受けて、鹿地拉致を「鹿地がソ連のスパイと自白したため、身柄保全のために保護していた」と回答したのである。
 鹿地は「私はソ連のスパイである」という内容の自供書を書かされていたが、それは自殺未遂直後の憔悴した状態で、「釈放の条件として書かされた」と反論した。

 さらに12月12日、鹿地と関連のある男が立川署に留置されているという報道があった。男は三橋正雄(当時39歳)という名で、「鹿地釈放によって自分の命が脅かされているので保護してくれ」と同署に自首しており、スパイ防止法は存在しないため電波法違反容疑で逮捕されていた。 

 三橋は元々、東京・小石川の帝国電波株式会社の技術課長をしていた。終戦後はシベリアで捕虜生活を送っており、当然のことながら、電波に精通しており、収容所でもラジオ修理をしていたという。


 捜査本部は三橋の自供から実地検証の上、裏付を行なって1つの報告書を作成した。それらは次のようにまとめられている。

 


 報告書


◇その1

「日本に帰ったその月の17日に上野公園西郷隆盛銅像下、乃木大将が書いた忠義碑の裏に『着』と書け。もしその字が消えていたらその翌月の17日に同公園不忍池畔を歩け。そこでカバンをかけたソ連人にあったら合言葉を使え。そのソ連人がお前の日本での第1回目のれポだ。この男の命令には絶対服従せよ」

 帰国の直前この指令を受けた三橋、48年1月17日に指示を守り、そのソ連人から現金3000円を受け取った。


◇その2

 さらに1月上旬、復員者を監視していた在日米軍CIC本部から、本郷の旧岩崎邸に呼び出され、米軍に対するスパイの役割を誓い、現金1万円を受け取った。


◇その3

 49年8月頃、国電信濃町駅前で日本人レポと会い、現金2万円をもらった。この男は後で元駐ソ日本大使館付武官・佐々木克己大佐(当時45歳)とわかった。


◇その4

 51年8月上旬、ソ連代表部に呼びつけられ指令を受けた。
「江ノ島電鉄鵠沼駅付近をぶらついている男が『本鵠沼はどちらですか』と聞くから、『それは私の付近です』と答えよ」
 三橋は指令通りに白ズボンと登山帽という格好でその場所に行き、男からレポ用紙をもらい、練馬区豊玉のT方から発信した。


◇その5

 ↑で会った男とは、鵠沼の同じ場所で3回、大船町の山の手街で3回、藤沢市柳小路で3回、文京区白山近くで1回、計11回会った。その都度、1〜2万円の報酬を受け取っていた。


◇その6

 その男が「鹿地亘」であると知ったのは、鹿地事件が新聞に載るようになってからだという。



 衝撃的な内容だった。
 三橋に情報を流していたのが鹿地とされたのだ。だが鹿地は三橋との関係を全面否定した。
 一方の三橋はソ連のスパイをしていたがアメリカ軍に捕まり、それからは二重スパイとして両国から謝礼をもらっていたことを供述した。


【裁判】

 鹿地と三橋の両名は電波法違反で起訴された。

 1953年3月20日、三橋は懲役4ヶ月の実刑判決。

 同年8月4日、衆院法務委員会に鹿地、三橋が証人として出席した。
 しかし、ここでも「8回会っているのだから、まちがいない」「この人は知らない」という水かけ論で終わった。

 この事件に対する人々の見方はわかれた。
 鹿地は事実を言っており、米側が彼の証言をぼかし、自己正当化をはかるために三橋を出してきたという説と、やはり三橋の言うように鹿地もスパイである、というものである。

 1958年11月25日、鹿地に懲役2ヶ月、執行猶予1年の判決。

 1969年6月26日、二審では鹿地に無罪判決。
 これは、三橋がウラジオストックとの交信に使っていたとされる送受信機が関東周辺までしか届かなかったり、ソ連からの暗号電報を理解できなかったりしたためだった。

 鹿地を救出した山田氏は事件後、「日本国民救援会」の事務局次長となった。これは政治犯の援護組織で、狙われている可能性のある山田氏の身辺を守った。


【トピックス 「キャノン機関」】

 鹿地事件によって初めてその存在が明るみに出たのが「Zユニット」だった。
 同機関はジャック・キャノン中佐を長とし、一般に「キャノン機関」と呼ばれていた。GHQ・G2(諜報)のウィロビー局長直属の秘密機関として創設され、東京・湯島の旧岩崎別邸・本郷ハウスを拠点としていた。機関員は25〜30人とされ、大半は日系二世で、白人将兵もいた。彼らは巧みに日本語を操っていた。さらに戦犯免責と引き換えに、日本人の元軍人や、右翼大陸浪人などのグループを組織し(「柿ノ木坂グループ」「矢板機関」など)、エージェントとして使っていた。
 キャノン機関とその傘下機関が1949年夏の下山国鉄総裁殺害や松川事件に関わったとされる説も根強い。

 山田氏の著書によると、51年4月頃、鹿地の前に東川ハウスに監禁されていた男の記述がある。その男は”小林秀雄”と名乗っていたが、訛りなどから朝鮮人らしい。数ヶ月間そこで過ごした後、500円ほどの金を受け取って軍の乗用車で出て行った。だが数日後にまた戻ってきたが、「俺は日本共産党の書記長だ」「この間、モスクワにいって、レーニンの墓参りをしていた」などとおかしなことを口走って、暴れ回った。53年にキャノン機関が閉鎖され、東川ハウスは別の秘密情報機関が使用するようになったのだが、その男は手錠をかけられて連れ出され、二度と姿を現さなかったという。

 他にも樺太出身で、戦争で家族を失なった16歳の少年もいた。彼は進駐してきたソ連軍の将校にかわいがられ、将校がモスクワに帰る際、北朝鮮に渡ったが、日本に帰りたい一心で海岸に立っていたところ、「日本に帰りたいのなら、俺たちの船に乗れ」といわれ、帰国。以後、密輸船と見られる船の乗組員となり、ある時「青森県の三沢基地のある場所までこの風呂敷包みを持って行け」と、使いに出された。彼は途中、電車のなかで好奇心から風呂敷包みを開けようとしたが、同じ車両に乗っていた男が近寄ってきて、無理やり次の駅で下車させられ、暴行を受けた。彼は線路沿いに歩き、ふらふらになって倒れたところを鉄道員に発見され、新潟家裁に送られた。6ヶ月の保護観察処分を受けて、家裁を出たところを、待ち受けていた米軍の乗用車でハウスに連れて来られたのである。この少年はピストルを突きつけられて、「ソ連軍のスパイじゃないか」と責め立てられていたという。この少年はこの後、キャノンの指揮下にある船の乗組員となり、鹿地事件を調査した衆議院法務委員会で自身の数奇な運命を証言したが、その直後に行方不明となった。

 キャノンの開くパーティーには、田中清玄といった大物右翼、それから神奈川県知事、映画俳優、国家警察長官、警視総監など、名士が多く参加していた。

 キャノン機関はCIAに組み込まれるかたちとなり、キャノン自身もその後CIAに身を置いたが、まもなく離れた。
 そして1981年3月、自宅で血まみれになって死んでいるのが発見された。自殺したとも言われている。


リンク


≪参考文献≫

雄鶏社 「迷宮入り事件の謎」 井出守
学習研究社 「歴史群像シリーズ79 実録日本占領 GHQ日本改造の七年」 
警察文化協会 「戦後事件史 警察時事年間特集号」
現代書林 「戦後ってなんなんだ!? 風俗+事件+人物でさぐる」 いいだもも 武谷ゆうぞう 
講談社 「昭和 二万日の全記録 第9巻 独立-冷戦の谷間で」 
講談社 「戦後秘史――4 赤旗とGHQ」 大森実 
講談社 「戦後秘史――7 謀略と冷戦の十字路」 大森実
講談社 「歴史エンタテインメント 昭和戦後史 上 復興と挑戦」 古川隆久
光陽出版社 「決断 謀略・鹿地事件とわたし そして国民救援会」 山田善二郎
作品社 「犯罪の昭和史 2」 作品社・編 
新評社 「別冊新評・臨時増刊 戦後重大事件懇談会」 佐野洋 森本哲郎 熊井啓 
宝島社 「陰謀のニッポン100年史 歴史の陰で隠されてきた真実」 
宝島社 「別冊宝島Real 謀略の昭和裏面史 特務機関&右翼人脈と戦後の未解決事件!」 
筑摩書房 「その時この人がいた もうひとつの昭和史」 井出孫六
東京法経学院出版 「明治・大正・昭和・平成 事件犯罪大事典」 事件・犯罪研究会・編
図書出版社 「占領軍の犯罪 鹿地亘監禁事件とキャノン機関」 猪俣浩三
番町書房 「キャノン機関からの証言」 延禎
扶桑社 「戦後史開封 社会・事件編」 産経新聞「戦後史開封」取材班・編 
文藝春秋 「日本の黒い霧 下」 松本清張
毎日新聞社 「毎日グラフ別冊 サン写真新聞 ”戦後にっぽん”7 昭和27年=1952・壬辰」 
毎日新聞社 「シリーズ20世紀の記憶 冷戦・第3次世界大戦 1946−1956 ビートゼネレーション」
「新聞・雑誌にみる 戦後スパイ事件のすべて」 スパイ防止法制定促進国民会議




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