開成高校生殺害事件




【事件概要】

 1977年10月30日未明、東京都北区に住む飲食店経営のA(当時47歳)が、進学校として知られる開成高校2年生の長男・健一君(16歳)を、寝ている間に帯で首を絞め殺害。その後、心中を図ろうと妻(当時44歳)と2人で浜名湖に行くが果たせず、31日に自首した。家庭内暴力を苦にしての犯行だった。


A


【父親Aについて】

 栃木県・宇都宮生まれ。2歳のとき、小学校の教師だった父親が亡くなる。母親が再婚した際、当時6歳だったAとその弟は父方の実家に預けられることになった。

 1951年、上京して米軍の横田基地の中にある食堂でコック見習を2年ほどやる。
 1953年、銀座のバーでバーテンを始める。
 その後、上野に喫茶店と貸事務所を開く。この時、貸事務所の電話担当係をした後の妻・B子と出会う。この喫茶店はのちに手放している。

 1959年、B子と結婚。B子の両親とともに生活を始める。
 1961年2月、健一君誕生。

 1966年、神田神保町に大衆酒場を開く。商売は順調にいっており、十分な稼ぎがあった。ただ自営業の悲しさか、正月以外は日曜日も働き詰めだった。午後2時ごろ家を出て、午前1時ごろ帰宅する。妻も店の手伝いに来ていた。


【健一君と家庭内暴力について】

 1961年2月、誕生。前述した通り、共働きの両親とはすれ違い気味で、祖父母に接することが多かった。内向的なおとなしい子どもで、叱られるようなことも決してしなかった。

 私立の星美学院小学校時代、成績は常に上位。試験、勉強が好きという子で、「また1番だよ」と答案を持って帰ってくる子どもだったという。あまり「勉強しろ」とは言わなかったという両親だが、自分でも気づかないところで一人息子の教育に熱心なところもあったのだろう。5、6年生時には有名な進学塾「四谷大塚」に通い、家庭教師もつけられた。

 小学校の時から友達ができず、本人も欲しいというようなことはなかった。家に友人を連れて来たり、友人と一緒に遊びに行くということもなく、祖母が「友達がいないのでしょう」と聞くと、「友達はある。20人くらいある」と嘘をついた。健一君は鼻が小さいことを気にしており、同級生にそのことをけなされると、仕返しとして靴やノートを隠すことがあった。父兄会で「性格が悪い」と言われる。
 小学4年生ごろから、父親・Aを嫌うようになる。健一君は母親は非常に好きだった。

 私立開成中学に300名中56番という上位の成績で合格。2年の夏ごろまでクラスで10番前後の成績を保っており、両親も「東大も夢ではない」と期待していたが、2年の終わり頃から成績が下がり始めて健一君自身もすごく気にするようになった。中学3年ごろ、部屋にこもって本を読みふけるようになる。Aの持っていたスタンダールの「赤と黒」を手に取ったのを皮きりに、サルトル全集、フッサールといった難解な哲学書を好んでいたという。この頃の成績は約300人中236番と下位に低迷するようになった。
 この頃、家族に「口を聞いてくれるな」と言ったり、母親に対する態度や言葉遣いが乱暴になるようになった。家族旅行に出かけるある朝、原因はわからないが、健一君が興奮して「殺してやる」と母親を追いかけた。4泊5日の旅行中に、父親が家族は仲良く生活するようにと話す。この後、健一君は母親に反抗的な態度をとる一方、父親に対しては口も聞かず、問題にしないという態度をとっていた。

 私立開成高校入学。高校に入ってからはほとんど最下位に近い成績だった。
 
 2学期辺りから、母親にきつくあたり始める。鼻のことを気にして、「自分の鼻が低いのは父親が鼻の低い母親と一緒になったからだ」と言う。1976年の暮れになった頃、「鼻を整形手術したい」と打ち明ける。しかし、医者に「18歳以上にならないと、骨の成長がとまらないからだめだ」と教えられ、考え直す。
 1977年2月、「(鼻が)低い原因は母親に似たからだ。そんな低い鼻でよく外を歩けるなあ」という言葉を母親に対して浴びせる。母親がそのことで、Aの職場に電話をかけてきたので、Aが注意の電話をかけると、この時初めて健一君が父親に対して反抗的な言葉で怒鳴り返した。
「それは命令だ。親でも俺に命令することは許せない。俺は今まで、注意されてきた時耐えてきたが、もう許せない。お前が悪いのだ。あんな女と結婚したから、俺みたいな鼻の低いのができたのだ。お前ら夫婦は教養もないし、社会的地位もないし、そんな奴が一人前の顔して説教できるのか。夫婦ともバカだ」
 この一件以来、健一君とAは鼻のことで端を発し、言い合うようになった。健一君は口喧嘩が終わると、口も聞かない態度をとった。

 4月、2年生に進級。当時の担任教師によると、授業中に一人笑いをしているなど異常な様子だったという。健一君は5月にあった修学旅行にはただ1人参加しなかった。

 5月26日、健一君の尊敬していた祖父が亡くなる。健一君のショックは相当だったということは想像に難くない。

 夜になると、健一君は自室の柱や畳を拳で殴り、ふすまに穴をあけ、家族の睡眠を妨害するようになる。これを父親が注意すると、再び言い合いが始まった。たまりかねたAは健一君にこう言い放つ。
「家の中で親子喧嘩しても仕方がないし、おれたちはお前と一切口をきかないようにするから、お前も母さんに乱暴したりして干渉しないようにしてくれ。もし母さんに今後手を出すことがあったら、そのときは父さんも許さないぞ。お前を殴るから承知しろ」
 これに対して健一君は口を開かず、黙って聞いてるだけだった。その後も自室で暴れて睡眠妨害をやめなかった。両親だけでなく祖母にまで言葉遣いが荒くなり、家族は健一君の顔色を気にしてあまり口がきけなくなった。

 8月1日、母親が機嫌良さそうにしていた健一君に「勉強しているの」と一声かけたところ、突然殴りかかってきた。母親は逃げ回るが、それでも1日中暴れ続けた。これはそれまでとはケタ違いの暴力だった。その日の夜、Aは帰宅後、健一君を注意すると「お前ら社会的な地位も名誉もないくせに何を言うか。お前らみたいな夫婦が俺を生んだから俺の人生は破滅だ」と怒鳴り、家中を暴れ回り、物を投げたりした。この日から翌年6月の殺害の日にいたるまで、激しい暴力が繰り返されることになった。
 健一君は学校から帰るなり、家の玄関で泣いていることがあったという。祖母が「どうしたんですか」と尋ねると、「外で殴ったり殺したりしたい気持ちをやっと押さえて家まで来るので、悔しくて泣くのだ」と言って、泣き終えると暴れたりした。
 この頃、近所でもA宅から聞こえてくる物音や怒鳴り声に家庭内暴力があることを気づき始める。だがA夫妻は近所の人に相談するようなことはなく、近所の人も「余所様の家庭の問題」として話を聞こうとすることはなかった。
 
 暴力を振るう健一君は顔つきも異常になり、Aは家庭用の医学事典を開いて調べてみたところ、「これは精神分裂病ではないか」と思い始めた。
 8月中旬、両親と健一君は北区にあるN病院へ行き、K医師の診療を受けた。K医師は「これは精神病ではない。わがまま病である」と話す。両親は医師に入院をお願いするが、「入院の必要はない」と断られる。それからの治療は通院で行なわれ、週に2〜3回健一君を病院に連れていって注射をしてもらったり、薬をもらうなどした。しかし、健一君の様子は変わることはなく、むしろ家庭内暴力は悪化していった。

 健一君は休みの日には朝から晩まで怒鳴り散らし、襖や窓ガラス、障子、ドア、家具などを叩き壊した。一方で1日中泣きじゃくることもあったという。「俺の青春を返せ」と叫び、「8月1日に『勉強しなさい』って言ったね」と母親に殴りかかった。勉強もせず、集中して何かをすることもできなくなっていたので好きだった本を読むこともなくなったという。
 8月の終わりにはAは、健一君に殴りかかられノイローゼ気味になっていた義母を2〜3日旅館へ避難させた。

 8月下旬〜9月初め、Aは「やはり息子は精神病ではないか」と、今度は四谷にあるS病院に連れていく。しかしここでも、「自己中心的なわがまま病だ」と診断される。帰り道、他の通行人がいる前で健一君は両親に対して大声でわめき散らし、暴力をふるった。この際、Aの着ていたシャツがズタズタに破れ、Aは途中の店でTシャツを買って着替えた。

 8月31日、母親は初めて担任教師の家での有り様を連絡した。2学期に入って担任教師が健一君に「大学はどこに行かねばならないということはないのだから、もっと気楽に1年くらい学校を休んでみてはどうか」と言ったが、「勉強に対する不安はない」と言った。しかし成績は下がり続け、50人中40番くらいだった成績が、2学期後は進級・進学には難しいものとなった。

 9月、健一君は「ぶち殺してやる」と両親を蹴ったり、金属バットを取り出してきて祖母の前で仏壇を叩き壊したりした。

 9月中頃、「このままでは殺されるかもしれないし、私がいなければ暴力もおさまるかもしれない」と、Aは板橋区・中宿にアパートを借りて、しばらくそこで暮らしていた。しかし、健一君の暴力はおさまらず。家のなかに水を撒き散らして水浸しにしたり、押入れの中の布団を池の中に放りこむなどしていた。このアパートは以後、祖母や母親も避難しに来たりした。

 その後も健一君の家庭内暴力はおさまらなかった。ましになる、ということもない。祖母や母への暴力、家中の時計を壊す、本や洋服に火をつけるなどした。母親は耐えられず、K医師に電話したが「やりたいだけやらせなさい」という返事だった。そして、事態は最悪の方向に進んでいった。

「俺の人生は破滅だ。お前たちを道ずれにして殺してやる。俺は犯罪者になって、その辺の人間を無差別に殺してお前らを一生困らせてやる」
 10月、健一君は家族に対してそう怒鳴った。Aは健一君を荒川の土手に連れていき、気の済むまで殴らせたりした。交番に連れていき、警官に説教してもらったこともあった。警官は精神病院への入院を勧めた。この頃、母親は完全にノイローゼになった。祖母も睡眠薬がないと眠れなくなるほど弱っていた。

 9月から通院を続けていたN病院では、電気ショックによる治療を行なっていた。治療を受けると健一君は赤ちゃんのようにおとなしくなり、母親に「お母さんと一緒に寝る」と言ったりしていた。だが、ショックの効果がきれると再び荒れた。
 10月22日に電気ショックを行なった次の日の朝には、健一君は父親に怒鳴って釘のついた襖の枠で殴りかかり、包丁を取り出すと「俺の人生は破滅だ。どうしてくれるんだ。青春を返せ」と怒鳴り、Aに刺しかかってきた。Aはなんとかよけカスリ傷ですんだが、今度は皿を持ち出してきて、それで頭に振り落とした。Aは流血し、救急車で運ばれた。一方、健一君はパトカーに乗せられ、N病院に連れていかれた。
 翌日、両親はN病院に健一君の様子を見に行き、鍵のついた独房に入れてもらった。独房で2日間過ごした後、母親が「かわいそうだ」と泣くために、Aは病院に頼んで独房から出してあげた。

 10月29日、N病院で治療。Aは息子の病気について尋ねたが、K医師はやはり「一種のヒステリーだ」と答える。自宅に帰ると、健一君は台所にあったご飯、砂糖、塩を家中にばらまいたり、庭に出て植木鉢を叩き割ったりした。家族がご飯を食べていると、どんぶりをひっくり返し、満足に食事もさせないような有り様だった。特に母親を追い駆けまわし、母親が逃げ回るとしつこく殴りかかっていた。母親が納戸に隠れると、健一君はあきらめて眠った。

 事件の直前、健一君は「さびしい」「落ちつかない」とよく話したので、両親で手や足を触ってやって、落ちつかせて眠らせていたという。


【殺害】
 
 10月30日、この日もやはり暴力があり、健一君は「青春を返せ!人生を返せ!メチャクチャにしたのは親なのだ」と叫んで暴れたのち、眠りについた。1階では祖母が午後10時半ごろ睡眠薬を飲んで眠っており、母親はやはり2階の納戸に隠れていた。Aは息子が精神安定剤を飲ませ続け、ショック療法をやっていたのでは治らないのではないかと思った。

「こんなことが続いたら、本当に家族が殺されるかもしれないし、息子が犯罪者になるかもしれない。そうなればかわいそうなのは息子だ」
 そう考えたAは息子の殺害を決意した。
 午前0時ごろ、Aが1階の8畳間を通りかかると、義母が眠っているそばにあったタンスが目に入った。タンスの中にある長さ1m半ほどの帯を手に取ると、それを持って2階の健一君の部屋に向かった。息子の枕元に座ると、どうしても手を出すことができずに、しばらく寝顔を見下ろした。だがこれまでの壮絶な家庭内暴力を振り返ると、あお向けで眠っている健一君の首の下に帯を通し、帯を交差させて締めた。

 健一君殺害後、部屋に母親が入ってきた。Aが泣きながら「俺は健一を殺してしまった。死のうと思う」と言うと、妻も「私も死にます」と言って、そこで30分ほど2人で泣き続けた。
 Aは義母を驚かせないようにと、健一君の遺体を押入れの奥に隠しておき、両手を合掌させ、タオルをかけた。夫婦で自殺する時に遺書に息子の遺体のありかを書き示すことで、義母の悲しみが1度で済むと考えたからである。

 夫婦は明け方まで泣き続けると、午前4時頃家を出て、タクシーを拾い東京駅に向かった。八重洲口でAはズボンのポケットに殺害に使った帯を入れっぱなしにしていたのに気づき、地下道のゴミ箱に捨てた。夫婦はここでタクシーに乗って、横浜に行った。横浜から電車で新横浜、新幹線で浜松にやってきた。浜松からタクシーに乗り、館山寺という所で降りた後はしばらく死に場所を探して湖の周りを2人でさまよった。だがこの日は適当な場所が見つからず、市内のホテルに1泊した。ホテルでは夫婦は泣いたり、健一君のことや祖母のことを話し合ったところ、Aは自首することに決め、翌日タクシーで東京に戻り、妻に付き添われながら赤羽署に自首した。


【裁判】

 78年2月16日、東京地裁は8年の求刑に対して、懲役3年・執行猶予4年という温情判決を下す。検察控訴。

 一審後の78年7月2日、健一君の母親が息子の部屋で首吊り自殺。「主因は自分の教育」と書かれた遺書が見つかった。自殺の前にはAに対して「健一を返せ」と激しくなることもあったようだ。
 
 79年2月28日、東京高裁は検察の控訴を棄却。刑が確定した。


リンク

開成高校                           
http://www.kaiseigakuen.jp/ 

星美学園小学校
http://www.el.seibi.ac.jp/     


≪参考文献≫

朝日新聞社 「子供たちの復讐」 本多勝一・編
講談社 「戦後欲望史 転換の七、八〇年代篇」 赤塚行雄
作品社 「犯罪の昭和史 3」 作品社・編 
社会思想社 「20世紀にっぽん殺人事典」 福田洋 
集英社 「うちの子だから危ない 犯罪学博士の教育論」 藤本哲也 
春秋社 「子どもの犯罪と死」 山崎哲 芹沢俊介 
春秋社 「<物語>日本近代殺人史」 山崎哲
青年書館 「戦後殺人事件 謎の真相記」 社会問題研究会
宝島社 「別冊宝島 殺人百貨店 日本人はどういう理由で人を殺すのか?」 
東京法経学院出版 「明治・大正・昭和・平成 事件犯罪大事典」 事件・犯罪研究会・編
批評社 「学校の中の事件と犯罪 1」 柿沼昌芳・永野恒夫 編著
平凡社 「『犯罪』の同時代史」 松本健一・高崎通浩


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