甲山事件




【事件概要】

 1974年3月19日夜、兵庫県西宮市の社会福祉法人甲山センター内精神薄弱児施設「甲山学園」敷地内の浄化槽から行方不明になっていた男女2人の園児の遺体が発見された。浄化槽周辺は園児たちの遊び場になっていたことから当初は事故と見られたが、兵庫県警は殺人によるものと断定。同学園の保母・E子さん(当時22歳)を逮捕した。
 裁判は知的障害を持つ園児の目撃証言が焦点となった。99年にようやくE子さんの無罪が確定。事件から25年が経過していた。


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【園児の死】

 1974年3月17日午後4時30分頃、兵庫県西宮市の六甲山系甲山の山麓にある社会福祉法人甲山センター内精神薄弱児施設「甲山学園」の園児・横畑光子ちゃん(12歳)が行方不明となった。続いて19日午後8時頃には藤原悟君(12歳)も姿を消す。同日午後9時30分、職員らが捜索をしていたところ、中・軽度の障害児が暮らす青葉寮裏の第1浄化槽から2人の水死体が発見された。
 
 兵庫県警は遺体発見直後から、同学園の全職員に対し任意出頭を求め、個別に事情聴取を行なった。園児に対しても、御菓子を与えるなどして事情を聞いていた。
 このトイレ浄化槽周辺は日頃から園児たちの遊び場となっており当初は事故と見られたが、遺体が発見された時には浄化槽の蓋(約17kg)が閉まっていたことから、20日から殺人事件として捜査開始。園内に取調室を設けて捜査。当初から「知的障害の子どもが犯行を犯すはずがない」として事故の可能性も含めて園児の関わりを排除、園児が行方不明になった両日に園内にいた職員による犯行と決めつけた。「職場のなかの誰かが犯人」という脅しが、やがて同僚への猜疑心を生んだ。事件から2週間が過ぎたあたりから「E子さんが怪しいと思う」という調書が出来ていた。さらに4月4日には園児(女児 当時11歳)の目撃証言でE子さんの名前が出てきた。現場の保全もずさんだった。
 
 4月7日午後2時ごろ、悟君殺害の容疑で同学園の保母E子さん(当時22歳)が逮捕される。


【逮捕された保母と犯人視報道】

 逮捕されたE子さんは富山県魚津市生まれ。その後愛媛県新居浜市に移り、市立新浜商業高校を卒業後、徳島短期大学(現・徳島文理短大)保育科に入学。1972年3月に卒業し、同年4月より甲山学園に勤務していた。


▽E子さんが疑われたのは次のような点が挙げられる。

(1)捜査員に「刑務所のご飯はどんなやろ」と不自然なことを口走った。
→事情聴取の時に捜査員が食堂の食券を持っていたのでE子さんにおでん定食をご馳走した。その時の会話でE子さんの何気ない疑問からそういう発言があった。

2 遺体の発見される前から「光子ちゃんは死んでいるはず」と話していた。
→園児が行方不明となった状況でなにかしらの不安を持たないわけがない。万が一の最悪の結果を想像してしまっても不自然ではない。

(3)普段から園児にせっかんを繰り返しており、光子ちゃんにも「いうこときかないとここへ落とすよ」と浄化槽の蓋を開けて見せていた。
→E子さんは「せっかんしたことなど1度たりともない」と証言。

(4)園児が行方不明になってから遺体が発見されるまで、異様に取り乱していた。「光子ちゃんが死んだ」と職員にわめき散らしていた。葬儀の際も号泣し、霊柩車を追いかけた。
→これは学園の職員としてなんらおかしくない行動であると言える。しかし、この時新聞記者の間で「彼女は一体誰なんだ。あの娘が怪しいんじゃないか」という話が出た。つまりこれを捜査を撹乱するための演技ととられたわけである。同じように1993年に起きた甲府信金女子職員誘拐殺人事件でも、娘を殺されて号泣していたことから父親が疑われるということがあった。

(5)日記に「私の不注意からこんなことになって、2人に済まないことをした」と綴っていた。
→マスコミはこれを「ざんげの日記」という見出しで報道した。

(6)光子ちゃん行方不明時と、悟君殺しの時間にアリバイがない。
→あの状況でアリバイを証明できたのは何人もいない。

(7)女子園児が「E子先生が悟君を部屋から連れ出した」と証言
→浄化槽付近での目撃ではない。

(8)事件当時、E子さんはアパートで男性と同居し、学園内外の複数の男性と交際。また同僚が次々と結婚していくので気持ちがあせってイライラしていた。
→これは全くの誤報だろう。E子さんには当時、短大時代に知り合った恋人はいたが、彼は三重に住んでおり同居はしていなかった。複数の男性との交際もなく、同僚の結婚にあせる理由などなかった。恋人とは犯人視報道により別れている。


 4月17日夜、E子さんは犯行を自供。この日の供述調書には次のように書かれていた。

「今夜は本当のことを申し上げます。光子ちゃんと悟君をやったのは私に間違いありません。(中略)ほんとうのことを言う気持ちになったのは、光子ちゃんと悟君があのマンホールの冷たい中で、どんなに苦しんだか、こわかったか。その苦しみを考えるときに私の苦しみなどはそれに比べるとなんでもありません」

 ところが、これは激しい取り調べに追い詰められたE子さんが「Eちゃんは悟君と光子ちゃんを殺したんだね」と聞かれ、降参して「はい」と答えただけのものが、なぜか上記のように書き上げられていた。
 絶望的になったE子さんはその晩、留置場の中でハイソックスを首にまきつけ自殺を図るが死にきれなかった。

 翌日、捜査本部が会見を発表すると、マスコミはE子さんが犯人と決めつけ報道。「父親の再婚相手になつかず、暗い青春時代を過ごす」「異性問題でノイローゼ気味」「以前から厳しいせっかんをしていた」などと書きたてた。
 
 ところがE子さんはそれから一貫して犯行を否認する。
 4月28日、処分保留のまま嫌疑不充分で釈放。尼崎市の自宅に戻ったE子さんは同僚が保管していた多数の中傷の手紙に目を通した。そこには予想していたとはいえ「人殺し、死んでしまえ」「おまえのような女は殺してやる」「ぬけぬけと釈放されおって。よく平気な顔をしていられるものだ」と書かれていた。
 7月30日、E子さんは国と県を相手取って国家賠償請求を起こす。

 1975年9月23日、神戸地検尼崎支部は証拠不充分として不起訴とした。

 悟君の推定死亡時刻は19日午後8時とされているが、E子さんは午後7時30分頃より午後8時15分頃までの間、学園管理棟内の事務室で園長や他の保母らと光子ちゃん捜索のための相談をしていた。また約17kgの蓋は園児らに決して開けられないこともなかった。事故死という説でも2人とも12歳であったし、他の園児による他殺という点でも20代前半までの園児がいたことから無理はない。その後の捜査で槽内から爪きり、歯ブラシ、鍵などが発見されるなど、日頃から園児らが物を投げ入れて遊んでいたことが明かにされた。


【再逮捕】

 釈放された後、E子さんは普通の生活を取り戻し、支援メンバーだった高校教師の男性と結婚、女児をもうけていた。しかし、彼女に対する疑いの目は納まったわけではなかった。行く先々で白い目で見られ、相変わらず中傷の電話や手紙があった。さらに検察審査会が新たな動きを見せていた。

 1976年10月28日、神戸検察審査会は「不起訴不当」を議決。これを受けて、神戸地検は再捜査に着手した。
 検察審査会とは陪審員制の精神を生かして、1948年に発足した制度で、審査員は選挙人名簿から無作為抽選で選んだ11人で構成される。よって職業や年齢は様々な人達の集まりなのだが、E子さん犯人視のテレビ報道を見ていただけに、「せっかんをしていた保母」「性格に問題のある女性」といった印象が拭えていなかったのではないかと言われる。

 1978年2月27日、「園児の目撃証言など新証拠を得た」としてE子さんを再逮捕。さらにE子さんのおこした国歌賠償請求訴訟でアリバイ証言をした元園長・保母を偽証罪で再逮捕。
 この新証拠とは青葉寮で生活していた数人の園児の「E子先生が青葉寮から悟君を連れ出した」「悟君がE子先生と一緒のところを見た」という証言だった。だが、「二人が浄化槽の近くにいた」という証言は皆無だった。
 逮捕されたE子さんは黙秘を通す。園長らも容疑を全面否認した。だが、この再逮捕で再びマスコミ各社の報道が暴走を見せる。

 3月17日、光子ちゃんの両親がE子さんを殺人容疑で告訴。(1985年に不起訴となる)
 3月24日、園長と指導員が保釈。
 
 6月5日、公判が始まる。検察は「遊んでいるうちに誤って浄化槽に転落した光子ちゃんをE子さんが目撃。自分への監視責任が問われるのを恐れ、蓋をしめて現場を立ち去った。つづいて自分への疑いをそらすために悟君も殺害」という主張をした。
 悟君とE子さんを見たといった園児に対して証人調べが行なわれたが、ある園児の場合には証言前にリハーサルが行なわれていたことも発覚し、誘導されたものか、否か、あるいは思いつきのものか、証言を判断するのは難しかった。

 1980年5月20日、女子園児の証人調べで衝撃的な証言が飛び出す。それはこの女子園児が光子ちゃんと2人で浄化槽付近にいる時に、手を引っ張ったら光子ちゃんがマンホールの中に落ちたというもので、この女子園児がマンホールの蓋を開け、転落後には閉めたというのである。

 1985年10月17日、神戸地裁は「園児証言は何らかの事情で事実に反する証言をしている疑いが濃厚」として、E子に無罪を言い渡す。しかし地検は控訴。

 1990年3月23日、大阪高裁、「一審判決を破棄し、審理を神戸地裁に差し戻す」という判決を下す。無罪破棄の根拠は、「目撃内容は単純で、園児でも充分識別できる。捜査での誘導なども認められず、園児証言の信用性は否定できない」というものだった。

 1992年4月、最高裁は二審判決を支持し、上告を棄却。

 1993年2月19日から神戸地裁での差し戻し審が始まった。公判では検察側が光子ちゃんの死亡について「他の園児の関与もあり得る」と初めて認め、具体的に園児2人の名前を挙げた。

 1999年9月29日、地検控訴第二次差し戻し審で無罪判決。検察もようやく上告を断念し、E子さんの無罪が確定した。


リンク

冤罪甲山事件
http://www.jca.apc.org/kabutoq/


≪参考文献≫

あさを社 「甲山報道に見る 犯人視という凶器」 木部克己
解放出版社 「劇画 無実の叫び -差別と冤罪-」 作画・平口広美 木山茂
学習研究社 「歴史群像シリーズ81 戦後事件史 あの時何が起きたのか」
河出書房新社 「記憶の闇 ―甲山事件[1974→1984]―」 松下竜一 
近代文芸社 「少年Aの時代 ニュースらいだー’97〜’98・6」 黒田清 

現代評論社 「現代の眼 79年9月号 特集獄舎に無実を叫ぶ人びと」 
三一書房 「英雄から爆弾犯にされて アトランタ五輪爆弾・松本サリン・甲山事件」 浅野健一・編
三一書房 「留置場 女たちの告発」 手塚千砂子・編著 
三一書房 「日本迷宮入事件」 森川哲郎
市民評論社 「ドキュメント甲山事件」 丹治初彦 幸田律 
社会思想社 「20世紀にっぽん殺人事典」 福田洋 
青春出版社 「情報操作 あなたは騙されている」 丸秘情報取材班・編
宝島社 「別冊宝島 戦後未解決事件史 ―犯行の全貌と『真犯人X』―」
宝島社 「日本の『未解決事件』100」
東京法経学院出版 「明治・大正・昭和・平成 事件犯罪大事典」 事件・犯罪研究会・編
日本評論社 「法学セミナー増刊 日本の冤罪 シリーズ[新・権利のための闘争〕」 
日本放送出版協会 「<うそ>を見抜く心理学 『供述の世界』から」 浜田寿美男
批評社 「学校の中の事件と犯罪 1」 柿沼昌芳・永野恒夫 編著


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