大岡山女優一家殺し事件
千住・醤油屋一家殺し事件





【事件概要】

 1925年(大正14年)9月、東京府下大岡山の女優・中山歌子さん方で、この家に住む姪のオペラ女優・中山愛子さん(25歳)ら3人が殺害されているのが見つかる。翌年、ある青年が逮捕されたが、獄死した。
 1928年8月には千住の醤油屋一家で3人が殺されるという事件が起こったが、醤油屋の知人五味鉄雄(当時37歳)が犯行を自供、共犯の田中藤太(当時42歳)も逮捕された。五味はさらに「大岡山の女優一家殺しも自分たちがやった」と自白した。


五味鉄雄
田中藤太


【女優一家殺し】

 1925年(大正14年)9月5日、東京・荏原郡碑衾町(えばらぐんひぶすままち 現目黒区)大岡山の女優・中山歌子さん(本名山中さだ)宅で、姪のオペラ女優・中山愛子さん(本名山中ぬい 25歳)ら3人が殺されているのが見つかるという事件が起こった。

 この頃の大岡山はまだ田園に住宅が点在するというような町並みだった。中山歌子さんは新劇女優、日活松竹の映画女優としてかなり有名であったが、当時は胸を患い、鎌倉で静養していた。そのため大岡山の家には姪の中山愛子さん、その内縁の夫で電気看板の注文取をしているSさん(23歳)、歌子さんの養女英子ちゃん(9歳)の3人が住んでいた。

 中山歌子邸は大きくはないものの周囲に生垣のある瀟洒な2階建ての家だった。
 9月5日の午後3時ごろ、人の出入りがなく、戸締りの様子も前夜のままであるのを怪しんだ近所の人が連れ立って中に入ってみると、3人は蚊帳の中の布団の上で死んでいた。枕元には線香が立ててあった。

 3人は寝衣でもなく普段着であった。愛子さんの足裏には土がついており、薬の空瓶らしいものが転がっていた。無理心中とも考えられたが、解剖から3人とも絞殺されていたことがわかった。

 翌日、鎌倉から歌子さんが呼ばれ、三菱銀行本店の1600円余の定期預金通帳、東京貯蓄銀行目黒支店970円の当座預金通帳、それに印鑑や財布などもなくなっていることがわかった。東京貯蓄銀行目黒支店では9月5日午前10時半ごろに520円が引き出されていた。銀行員によると、引き出したのは40歳ぐらいの洋服の男で、左目に眼帯をしていたという。

 事件現場には「だるま薬局」の便箋に何か鉛筆で図面のようなものが書かれた紙屑がまるめて捨てられていた。「だるま薬局」という店は当時東京に170もあったが、刑事がそれらの店にあたってもめぼしい情報は出てこなかった。

 この惨劇のあと、傷心の歌子さんの病状はますます悪くなり、1928年(昭和3年)4月、犯行のあった家で一人さびしく亡くなっている。わずか36年の生涯であった。


【1年後に事件動く】

 1926年(大正15年)9月末、日暮里署ではT(当時28歳)という青年を検挙している。
 東京貯蓄銀行に金を引き出しに来た男に酷似し、筆跡もよく似ているし、また1年ほど前、つまり事件直後からあごひげを生やすなどして人相を変えようとしていたことが認められた。

 海軍一等機関士の経歴があるTは荏原郡平塚町小山に住んでおり、盛岡工業を2年で中退した後はペンキ看板の注文取をしていた。
 日暮里署に検挙されたのはある人物を150円ばかりの詐欺罪で告訴したときである。告訴する側であったのに、警察官の方を正視できず、おどおどして様子が変だったので詳しく取り調べられた。すると、10月6日になって女優一家殺しを自白した。

 注文取りの仕事で歩いているあいだに目星をつけておき、当夜12時ごろ雨戸をこじあけて中山さん宅に侵入、3人が寝ているところを順番に絞め殺した、という自白だった。

「夢を見る。寝汗をかく。子供が夢枕に立つ。女が首をしめに来る。恐ろしくてこの頃は夜に眠れない」
 Tはそう訴えていた。
「以前、Tが裸で押入れに隠れて中から戸を押さえていたことがあった」と証言する人もあり、Tに尋ねると、怖い夢を見たくなくてそうしたのだという。Tは他に「子供の供養のために線香をあげた」といった答弁をした。

 10月5日、Tは検事局へ送られ、その2日後には女優一家殺しについて起訴された。予審第三回まで自白内容をそのまま主張したが、その後は否認に転じている。

 Tは昭和2年11月頃から膀胱カタルを病んで、その翌年6月27日に危篤となり、獄中にて死亡した。


【2件目の一家殺し】

 大岡山事件から3年後、1928年(昭和3年)8月、京成電鉄千住大橋駅近くの東京府南足立郡千住町の醤油商Yさん(50歳)方で事件は起こった。

 8月20日、商売熱心でいつも朝も早いはずのこの「Y味噌醤油店」が定休日でもないのに、いつまでも店を開けないのを近所の人は不審がった。人の気配もないし、飼っていたエスという名の犬もどこか元気がなかった。近所の家は町内に住む親類の薪炭商に知らせに行き、そこの店員2、3名が醤油屋で留守番をすることになった。

 21日になっても醤油屋の誰も戻らないため、茨城の下館から実兄が呼ばれた。
 この日の午後11時過ぎ、寝ようとした兄が押入れから布団を出そうとしたところ、妙な匂いがする。布団と一緒にドサっと落ちてくるものがあった。Yさんの妻(43歳)の死体だった。妻は手ぬぐいで絞殺されていた。1階六畳間だけでなく、2階の八畳間の押入れからも主人Yさんが絞殺されているのが見つかった。やはり手ぬぐいが巻かれており、顔は布で覆われていた。

 醤油屋一家は夫妻の他、番頭をやっている養子(当時30歳)、それから雇人の少年W君(16歳)が暮らしていており、姿の見えない養子の仕業かとも考えられたが、後の調査で海軍の簡閲点呼のため新潟県の本籍地へ帰省していたことが判明した。W君の方は事件前夜から姿が見えないという。

 Yさん方は味噌醤油の店の経営以外にも借家を4軒持ち、さらに小金を貸して利息を得ていた。裕福に暮らしており、強盗に襲われたものと見られた。

 22日、荒川放水路の総武線新中川駅鉄橋下流で、大きな行李が発見された。竹製のもので、麻縄で十文字に縛ったうえ、焦茶色の軍隊毛布に包まれていた。中からは死体が出てくる。口はふんどしで猿轡され、右の脇下、右背部に数ヶ所の刺し傷があった。年齢は50歳前後で、立派な金歯が入っていた。金貸し風の姿に見え、呉服店の名が書かれたマッチ箱のほか「中渋谷九五四 和多利」と書いたものが出てきた。この筆跡がYさんのものとそっくりであったため、この死体は先日の醤油屋殺しと何らかの関係があるものと見られ、3つの死体が帝大医学部に運ばれ解剖に付されたが、3人とも死亡が同じ頃ということがわかった。

 郷里の新潟から戻った養子が遺体を確認してみると、行李詰の死体は驚くべきことにYさんのものだった。金歯はYさんが前年に入れていたものである。では醤油屋自宅で発見されたYさんの遺体は誰のものなのかということになるが、これが雇人のW君であった。真夏の時期で2日経過していたため、腐乱死体となり、法医学者すら少年の遺体と気づかず解剖を了していた。
「頭部は腐敗臭皮露出す、殆んど水平に周囲を一周する変色部分あり、窒息死なれども絞頚部に因るや否や不明」
 とあるから、実際に腐敗が進んで判別ができなかったのだろう。
 Yさんの葬儀はすでに行われていたが、これは結果的にはW君の葬儀となってしまっていた。そこでもう1度Yさんの葬儀がやり直されることとなった。

 3人は19日夜に殺されたらしい。主人のYさんだけは別の場所で殺害されたらしく、刺し傷と手ぬぐいで絞めた形跡から犯人は2人以上と見られた。
 Yさんは事件当日の足取りを追うと、午前10時ごろ、千住大橋のそばのポストに葉書を入れに行き、正午頃までは親類がYさん方に来て夫妻と談笑している。午後3時ごろ、Yさんは大橋を渡っているのが目撃されて以降、彼の姿を見た者はいなかった。

 マッチ箱を所持していたYさんだが、このマッチは千住の呉服店の名前が入っていた。この呉服店の主人によると、確かに19日夕方に50歳ぐらいの男の人にマッチをあげたのだという。Yさんは呉服店の店先でタバコを1本吸っている。発見されたマッチ箱には48本が残されていたから、2本目をどこかで吸った後に殺害されたらしかった。


【2人組】

 Yさんとつながりのある知人300名余が調査されたところ、一人の自動車運転手が浮上した。杉並区馬橋に住む五味鉄雄(当時37歳)である。
 五味は大岡山女優一家殺し事件の被害者Sさんの姉を妻にしていた。大岡山の家からは五味の名刺が出てきて、五味も参考人として呼ばれたこともあるが、それ以上進展することはなかった

 1925年頃、五味はYさん所有の借家に入っており、200円ほどの借金があった。のみならず事件当日19日から21日までの行動が不明であり、妻に「留守中に人が来たら、友人のところに遊びに行ったと言え」と命じていたことがわかった。

 五味宅の家宅捜索をされてYさんの金の時計が発見された28日、五味はあっさりと醤油屋一家殺しを自白した。
 さらに共犯者がいたことも発覚している。南葛飾郡の自動車運転手・田中藤太(当時42歳)である。

 かねてより借金返済に困っていた五味は、Yさんに「借金を返しますから深川のABC自動車の車庫へお出で下さい」という手紙を送っていた。場所が場所だけにYさんは怪しみ、直接五味の家に向かったが、五味の妻から「借金を返すあてなどない」ということを伝えられ、怒って帰った。

 計画が狂った五味がYさん宅を訪ねたのが8月18日である。「親友の田中が自分の借金を返してくれることになった」と話すのである。翌日午後3時ごろ、2人は京成電車の駅で合流し、田中の家に向かった。
 午後5時ごろ、田中宅で3人が話し合っていた時、五味はトイレに立つふりをして、うしろからYさんの首を手ぬぐいで絞めた。4円ほどの現金と時計を奪ったうえ、死体を行李に詰めた。あらかじめ外に出るように言われていた田中の家族が戻ると、2人は家を出て、浅草で酒を飲んで日が暮れるのを待った。

 Yさん方へ向かう途中、2人は手ぬぐい2本と晒木綿1枚を購入している。
「今日Yさんと会う予定で、待っておりましたが、見えませんので私の方から伺いました」
 五味の言葉をYさんの妻は疑わず、家でしばらく待つように言った。
 雇人W君が2階へ寝に上がるのを待ち、五味は妻を絞め殺し、押入れに死体を入れた。さらに2階のW君も口封じのために殺害、同じように押入れに入れた時午後11時ごろとなっていた。その後2人は家にある金品を物色して、金の時計と現金50円を奪った。2人は吉原の馬肉店で朝酒を飲み、遊郭に繰り出したが、これですでに20円を浪費している。

 五味にとって残る気がかりは田中宅に残してきたYさんの死体である。
 翌21日、五味は奥戸村で舟を手に入れ、田中の住む本田村まで漕いで行き、田中宅裏から行李詰死体を舟に乗せ、中川を下って四つ木橋付近で棄てた


【裁判】

 1929年(昭和4年)2月頃、共犯者の田中が「まだ他に犯罪がある」と言い出した。田中は「五味が知っている」と言うが、五味の方は「知らない」と答えた。

 大岡山女優一家殺し事件で、五味が参考人として呼ばれていたことがあることについてはすでにふれたが、実はこちらの事件も五味と田中による犯行だった。醤油屋一家殺し事件の予審中にそのことは発覚している。田中は次のように述べている。

「聞けば先日自分の母は自殺を図ったそうだ。私の取調べが長引くので、否認でもしているのであろう、あれだけの事件をやりながら男らしくもなく、否認などしてお上に手数をかけては家の者は世間に顔向けが出来ない、といって自殺しかけたんだそうです。私はほんとうに申し訳ない、実は私はまだ外に隠していることがあったのです。この方が後からばれて、また別に刑を受けるようなことになったのでは、本当に母が自殺してしまうでしょう。今まで隠していて申訳なかったが、大岡山の方も私等がやったのです」

 田中にすべてをバラされた五味もまた自白した。その頃の2人は失業中の運転手で、金に困っていた。女優宅なら金があるだろうと思っての犯行だった。

 中山愛子さんの内縁の夫Sさんは電気看板の注文取をしていたが、義兄にあたる五味はSさんに「電気看板をつけたい」と言うだるま薬局主人に扮した田中を紹介した。2人は隙を見て殺そうとしていたが、最初に訪れた時(9月2日)は断念した。
 ワルの五味であっても、義理の兄弟を殺すのは気がひけたのだろう。9月4日であれば、Sさんが用事で出ていて帰りが遅いことを知って、再び大岡山の中山宅に向かった。ここで2人はSを待つふりをして機会を窺った。しかし良い機会はいっこうに訪れないように思え、そろそろSさんが帰ってくる時間になったので2人は帰ろうとした。愛子さんは送ろうとして、靴を直そうとした。その時、五味が後ろから細紐をかけて殺害した。愛子さんの足裏が土で汚れていたのは、土間に降りたためである。続いて泣き叫ぶ幼い英子ちゃんを田中が押さえて殺害。2人の死体を押入れに隠そうかと話し合っていた時にSさんが帰宅。Sさんは2人がかりで殺害した。この家で飼われている黒猫が死体にまとわりついていたので、2人は面倒だと思い、猫が押入れに入った時に戸を閉めて閉じ込めた。発覚後に捜査員が押入れを開けた時に猫が飛び出してきて驚いたことがあるが、これも2人の自白と一致する。

 2人の犯行を見ると、策謀し、積極的に犯行に関与しているのが五味で、年上の田中はそれに引っ張られるように犯行に加わっているが、田中の酒の席での強がりを信じて、五味は田中を頼りにしていた。

 大岡山女優一家事件ではまったく別の男性Tさんが逮捕されていた。冤罪である。しかも獄死している。ではTさんのあの錯乱ぶりと答弁は何だったのかということになるが、検事達の間では「あの男、大岡山の事件の犯人ではないにせよ、何か大きな事件をやっていたのではないか」と伝説になったらしい。(彼が住んでいた近くには迷宮入りした桐ヶ谷6人殺しを慰霊する地蔵尊があったが、Tさんはそこへ30回ほどもお参りしている)
 後に五味はこのTさんに対して次のように書いている。
「さぞかし口惜し泣きに泣いて憤死したことと思ひましたが、私はそれを気の毒に思ふよりも、何とへまな馬鹿野郎だらうと思ひ、又つらつら考えてこれも運命だと考へましたから、別に自分の心を痛めることもありませんでした・・・これもそれも皆宿命ですから」

 1931年(昭和6年)4月20日一審判決、同年9月26日二審判決、翌年4月5日の上告棄却を経て、2人の死刑は確定した。

 2つの一家殺し事件、都合6人を殺害していながら、2人は自分たちが死刑になるとは考えていなかったらしい。大岡山事件自白については、「2度も裁判をやられては時間がかかるから、1回にしてもらって早く出獄したい」という理由からのものだったという。

 1933年(昭和8年)3月、市ヶ谷において、五味と田中の死刑が執行された。


自分の意思によって、その生れ場所を選むことが出来ないやうに
我々人間は死に場所をも死に様をも選り好みすることは出来ません

(五味の小野弁護人あての手紙より)


リンク


≪参考文献≫

思想の科学 「思想の科学 1983年6月号」
社会思想社 「20世紀にっぽん殺人事典」 福田洋
清風書房「死刑囚の記録」 日本犯罪心理研究会編
大学書房 「昭和犯罪史正談」 小泉輝三郎
東京法経学院出版 「事件犯罪大事典」
日本評論社 「史談裁判 第三集」 森長英三郎



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