島原・遺産相続殺人事件




【事件概要】

 1970年2月1日未明、長崎県島原市の酒造会社常務O(32歳)が、自分の家族、叔父、叔母ら6人を次々と殺害、その後猟銃自殺した。犯行の動機は遺産争いによる内紛であったとされる


O


【一族惨殺】

 1970年2月1日午前1時45分頃、長崎県島原市の酒造販売会社「O合資本店」で火災が発生。石垣と白壁に囲まれた立派な家屋敷は、みるみる燃え盛り、火災に気づいた向かいの家の人は、「Oさん!Oさん!」と叫んだが中から返事は無かった。

 当時、この店には一族の本家・O(32歳)の一家5人が住んでいた。Oは本店の代表社員であり、「雲仙酒造」常務でもある。
 本店は清酒「紅白梅」の醸造元として、この地方では古くから名の通った酒屋だったという。当時は市内の同業者と酒造会社を共同設立して、この本店は販売専門だった。

 まもなく火災現場から100mも離れていない、Oの叔父で、本店代表社員の1人・Sさん(53歳)方から銃声が聞こえた。Sさん方では、Sさんが猟銃で腰や腹を撃たれて重傷を負っていた。

 午前2時半頃、地元の消防団員が、O方の火災を知らせるため、約3km離れた彼の叔母であるM子さん(49歳)方を訪れた。
 消防団員が玄関の戸を開けると、土間にM子さんと夫のIさん(51歳)が折り重なるように血まみれで倒れているのを発見した。Iさんはまだかすかに息があり、「鉄砲で、やられた・・・」と繰り返した後、息をひきとった。
 家人の証言では、2人を撃ったのはOであったという。OはすでにIさん方からも逃走しており、行方がわからなくなっていた。このため警察は市内から雲仙山中にかけて、大包囲網を敷いた。午前3時半のことである。

 この頃には、O本店の火事もほぼ鎮火していた。鎮火と言っても敷地内の全家屋への延焼をまぬがれただけで、一家が生活する母屋、酒の倉庫、物置小屋などは全焼した。
 まもなく焼け跡から、Oの妻E子さん(30歳)、長男(3つ)、次男(1つ)、母親(52歳)の黒焦げの死体となって発見された。警察は近くの人の「出火直前に屋敷の中から銃声がした」という証言で、Oが家族を射殺したものと断定している。


 同日朝、有明海に小さく突き出した岬に止められたライトバンの運転席で、Oが猟銃自殺しているのが発見された。Oは銃口をくわえ、銃弾は後頭部を突き抜けていた。


【闇に駆ける猟銃】

 Oは死んでしまったが、目撃証言などから次のような犯行の状況が浮かんだ。


 午前0時から午前1時半頃、Oは寝ていたであろう妻、長男、次男、母親を次々と殺害。当初射殺とされたが、長崎大学法医学教室による司法解剖の結果、銃弾は見つからず、絞殺とされた。
 室内に油を撒いて火をつけたのは午前1時40分頃。炎上を見計らって、近くのSさん方に向かった。

 Sさん方では家族全員がすでに就寝していた。
「火事だ!火事だ!」
 O表戸を激しく叩いて、火災を報せた。手に猟銃ウィンチェスターを握っていた。
 出てきたSさんが声をかけようとした直後、OはSさん目掛けて発射。家族が銃声を聞いて表に出てきた時にはすでにOの姿はなく、逃走していた。

 それからライトバンを運転して、約3km離れた叔母夫婦の家へ向かい、午前2時過ぎに2人を射殺した。

 そしてIさんから400mしか離れていない岬に車を止め、自らの喉に向けて銃口を向け自殺したのであった。


【内紛】

 事件当日の正午過ぎ、警察がOの動機などについて記者発表した。
「O本店の経営権、遺産相続の争いに敗れたOが将来に絶望し、家族との無理心中をくわだて実行、さらに本店の経営権、資産を継ぐことが決まったSさんと、Sさんの相続を強く推した叔母夫婦を憎んで凶行に及んだ」


 事件のちょうど1年前、Oの祖父で、Sさんの父であるXさんが92歳で老衰のため亡くなった。
 Xさんは地元名門の造り酒屋の跡取として、大正時代から本店の経営に手腕をふるってきた人物である。重役すべてを親類縁者で固めた同族会社である本店の経営を完全に牛耳っていた、言わば一族の長だった。61年には市内の酒造業者3軒と共同出資して「雲仙酒造」を設立している。

 Xさんは本店の経営権、また山林、田畑、家屋敷など時価数億円の資産を子どもに分配することなく亡くなった。このため一族のあいだで「誰が相続するか」が話し合われたのだが、長男は62年にすでに死亡していたので、話がややこしくなった。

 Oは「自分こそが祖父の跡を継ぐ男」だと考えていた。祖父と同居していたし、父の死後は祖父の片腕として経営に関わってきたという自負があったからだ。
 ところが49日の法要の時、Xさんの遺言状が出現した。叔母M子さんが見つけてきた物で、Sさん宛てで、こう書かれてあった。
「財産は次男Sに遺贈すること」

 遺贈目録には、当時Oが住んでいた本店屋敷も含まれており、叔父と叔母は「屋敷を明け渡せ」と要求、またSさんを無限代表社員に就任させるように一族みんなに要求した。Oはこれを拒み、いがみ合いが始まった。たびたび親族会議が開かれたものの、話は平行線のままだった。そのあいだ、社長は空席のまま、1年間の期限付の仮営業免許を受けた。

 5ヶ月後、Oは長崎地裁島原支部に「遺言状無効確認」の訴えを起こしたが、このことでさらに両者のミゾは深まる。この頃からOは一族の間で「やっかい者」扱いされ、孤立するようになっていった。また裁判沙汰になったことで、この内紛は多くの市民の知るところとなった。

 タイムリミットが目前に控えた70年1月、Oのもう1人の叔父が、内紛の収拾に乗り出す。次のような折衷案を出した。
「Sさんが本店の経営にあたり、Oも代表社員として酒造会社の方の常務を続ける」
 1人代表制から2人代表制への移行だった。
 Oも「これで家を追い出されずに済みそうだ」とほっとしていたようだった。

 1月31日夜(事件当夜)、親族会議が開かれた。だが折衷案の提案者である叔父夫妻は欠席していた。風邪をこじらせたということだが、実際のところはよくわかっていない。ただ1人の理解者である叔父がいないことは、Oにとって何よりの不幸であった。
 この席で、OはSさんとM子さんから厳しい非難の言葉を浴びせられたと見られる。一族のなかで「除け者」にされていることを実感したOは、その夜遅く家族を殺害し、猟銃を手に取ったのである。


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≪参考文献≫

新潮社 「日本の大量殺人総覧」 村野薫
現代評論社 「現代の眼 78年8月特大号 全特集・戦後犯罪史−怨恨と欲望の社会病理」


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