二俣事件





【事件概要】

 1950年1月6日、静岡県磐田郡二俣町(現・天竜市)で一家4人が殺害されるという事件が起こった。
 同年3月、二俣に住む少年S(当時18歳)が窃盗罪で別件逮捕される。同時にこの殺人事件についても取り調べられ、その結果Sは自白した。一審、二審とも死刑を言い渡されたが、最高裁では原審を破棄、1957年差し戻し審で無罪が確定している。


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【二俣の一家4人殺し】

 1950年1月6日、静岡県磐田郡二俣町二俣(現・天竜市)、国鉄二俣駅西方500mのところにある無職Oさん方で、4人が殺害されるという事件が起こった。

 7日の午前6時頃、長男のT君(当時12歳)が目を覚ましていたところ、同じ6畳間で寝ていたOさん(46歳)、その妻(33歳)、長女(4歳)、二女(2歳)の4人が血だらけで死んでいるのを発見、Oさんの兄方に急報、二俣署に届け出た。

 亡くなったOさんは短刀で右頚部を8回刺されており、妻は左頚部と後頭部に10ヶ所の刺し傷、長女は絞殺、二女は母親の下敷きになっての窒息死だった。夫妻殺害の凶器は匕首と思われたが、現場からは発見されなかった。押し入れ内は散乱しており、強盗殺人の疑いが強かった。

 殺害現場の部屋にはT君の他、次男(当時9歳)、三男(当時7歳)が寝ており、隣室には老母(当時87歳)が眠っていたのに、誰もその凶行に気づかなかった不思議な事件だった。
 Oさんは戦争中菓子職を辞め、日本楽器佐久良工場の守衛となり、前年人員整理のため退職していた。それからは事件当時まで無職の状態である。おまけに同家は3年前の大火で、焼失して1階のバラック建てという粗末な家屋である。商店街に面したにぎやかな所にあるが、近所でこの惨劇に気づいた人はやはりいなかった。怨恨の線にしても、Oさんは酒好きだが、温和な人物であるということが近所の人の証言で出た。

 この当時、警察は自治体警察(町警)と国家地方警察(国警)の二系統あり、二俣の町警はこんな重大な事件の捜査にあたった経験が乏しかった。そこで町警は国警に応援を要請、その日じゅうに紅林麻雄警部補、松島順一部長などベテラン刑事数人が配置されることになった。紅林警部補は浜松事件捜査で表彰された実績があり、幸浦事件(1948年)、小島事件(1950年)、島田事件(1954年)なども手がけ、「オニ警部」の異名があった人物だった。


【推理材料】

 残された手がかり、現場の状況、家族や近所の人の証言は次のようなものだった。

(1)犯人は裏口から侵入したものと見られた。というのも、裏手10坪ほどの空地に雪に残った地下足袋、あるいはズック靴の足跡が勝手口に向かって6、7歩分あり、内部から外部に向かったものには見えなかったからである。

(2)O家から西の農業協同組合の板塀の上に、手袋の中に匕首を差しこんだものが発見される。この場所は逃走経路と見られ、匕首は刃渡り5寸7分、日本刀を切りつめて改造したもので、牛皮のさや部分には「K」と「A」という文字が刻まれており、血液も付着していた。この事件の、犯人が残していった貴重な手がかりだが、この出所はわからなかった。

(3)遺体の解剖は警察医・鈴木完夫氏、岸本英正氏が行った。
 Oさんの死亡推定時刻は6日午後7時20分から翌午前0時20分までの間、二女は午後11時頃(以上鈴木鑑定)、妻は午前0時頃、長女は午後10時から11時(以上岸本鑑定)という結果が出た。つまり午後10時から翌0時までの間、平均して11時頃に犯行が行なわれたのではないかと見られた。

(4)傍で寝ていた次男の証言
「事件の夜、夜警の音で眼を覚ますと、若い男が母の枕もとであぐらをかいて新聞を読んでいた。顔は新聞の影になっていて見えなかった。そのうち立ち上がって裏口から出ていったけど、こわくなって泣き出したら、兄(長男T君)にうるさいと言われたのでそのまま眠った」
 当時、Oさん方近くでは毎晩11時過ぎ自警団が鈴を持って夜警に廻っていた。次男が聞いたのはこの音であった。さらに死体鑑定の結果から、次男の見た男は犯行後、午前2時半まで現場にとどまっていたことがわかる。これは犯人が夜警を恐れたものと見られた。夜警は自治会のもの、消防団のもの、商店街のものなどがあり、午前4時頃まで続いていた。

(5)ベニア板一枚で仕切られた隣家の人の証言。
「隣りの子どもが2時半頃起きる音が聞こえた」
「Oさんの家の音は、夜中便所に起きる音も聞こえるほど壁は薄い。けれど大きな声や音は聞こえてこなかった」

(6)現場の6畳間の柱時計は11時2分で止まっていた。この時計には、犯人のものと思われる親指の血染めの指紋が付着していた。

(7)この指印と同じ血のものが祖母の枕にも付着していた。

(8)台所の土間に、手拭のような布の燃えかすがあった。

(9)隣家の人は、事件当日9時にOさん方で時報が鳴るのを聞いており、ラジオのダイヤルは900キロサイクルを指しており、スイッチはONになっていた。


 この事件はあまりにも不思議な点が多すぎる。
 強盗犯だとすれば何故あえてバラック小屋のOさん方に入ったのか。夫妻と娘2人が殺害されているのに、なぜ傍で寝ていた男の子3人は襲われなかったか。なぜ子どもたちや、薄い壁で隔てた隣家の人はこの凶行に気づかなかったのか。そして次男の見た若い男は誰なのか―――。

 1月、2月と時は流れ、捜査は行き詰まりを見せていた。その焦りからか、少しでも怪しい者、素行不良の者など300人以上の人間を容疑者として取り調べをしたという。この際、釈放となった人間が口を揃えて「ひどい取り調べを受けた」と漏らしていた。


【ある奇術師一家の少年】

 2月23日、警察は町内に住む奇術師一家の少年S(当時18歳)を窃盗罪で別件逮捕した。

 二俣には「大正座」という奇術の出し物をする劇場があった。経営者はジュリー・ベティーこと石井ジュリーである。この女性は初代フランス大使と日本人娘との間に生まれた子どもである。ジュリーは奇術師・松旭斉天一の弟子の結婚し、男の子を出産した。この男の子はSの父親で、Sからすればジュリーは祖母にあたる。
 
 Sは満州生まれ、家族は両親と弟3人がいる。二俣の小学校高等科を出たあと、叔父の経営していた興行師・松旭斎天一座に入り、小屋の電気係を務めて全国各地を巡業した。48年10月に脱退した後は祖母を頼って二俣に戻り、1年ほどゲタ工場に工員として働いていたが、父親が中華そばの屋台を始めてからはそれを手伝っていた。麻雀が好きで、小遣いに困るとコソ泥を働き、以前に背広やジャンパーを盗んで、警察の世話になったことがあった。異人の血が入り、芸人の子であることは、この小さな町に暮らす人々から白い眼で見られることになった。


 逮捕後、二俣署内の土蔵の中で行なわれた取り調べは過酷を極めたとされ、2月27日にSはついに「自分がやりました」と自白した。とられた供述調書の内容は大まかに以下のようなものだった。


自白調書


▽動機――麻雀のバクチが大好きで、のめり込むあまり金に困ってやった。

▽匕首の入手先――1月5日午後8時頃、買い物しに行こうと家を出たら、家の近くのゲタ工場の縁の下に25、6歳の白いマスクを掛け黒っぽい服を着ていた男が何かを隠して行ったのを見て、その場所に行くと、白い天竺の布の中に匕首があった。それを自分の家に持ち帰り、縁の下に隠しておいた。

▽手袋の入手先――1月6日午後6時半頃に、表に遊びに行って大正座のところまで来ると大正座あとの広い道路に面したところにあった丸太の上に落ちていた。

▽当日の行動――午後7時半頃、家で夕食をとった後、昨日拾った匕首を皆に見せようと思い、縁の下からこれを取り出し、ズボンのポケットに入れ、新町の方に歩いて遊びに行った。貸し本屋や電器店などいくつかの店を冷やかしていたら8時半になり、友達にも会えないのでうろうろしていたところ、なんとなくOさん宅であるバラックの前を通りかかった。人の声がしなかったため、裏口のガラスをそっと開けてみると鍵はかかっていなかったので侵入した、部屋内を物色した。

▽殺害時刻――午後9時頃


 自白調書によると、SがOさん宅に押し入り、殺害したのは午後9時ごろとなっていたが、Sは事件当夜の11時前後から、二俣の遊郭付近の路上で父親の屋台の手伝いをしており、麻雀店の女主人も11時頃にSが出前を持ってきたことが証言していた。
 このため遺体鑑定による午後11時前後殺害と、柱時計の件と矛盾するが、警察は「時計の針を動かして犯行時刻を偽装したのだろう。一体どこから思いついたのだ」と追及した。
 これはSが愛読していたという探偵小説の中に、江戸川乱歩著の「パレットナイフの殺人」があったからだった。この小説では犯人が殺した相手の腕時計の針を回して止め、アリバイを作るという偽装工作がでてくる。警察はこれを参考にしたのではないかと見たのである。

 3月17日、Sは殺人で起訴された。


【内部告発 〜真相究明者か、精神異常者か〜】

 4月12日からの第1回公判の前日、Sは「私の自白は警察の酷い取調べによるものであります。私は真犯人ではありません」という上申書を提出した。
 また審理に入り、判決が迫ったある日、読売新聞に殺人事件捜査に加わっていた二俣署の山崎兵八巡査の投書が掲載され、「Sは拷問によって自白させられたもので真犯人ではありません」と記されていた。

 山崎巡査は二俣署員だが、当初から国警主体の捜査に疑問を持っていた。現場の状態などから、「Sをクロとする事実は見当たらない」と紅林警部補に進言していたが、紅林警部補は耳を貸さず、山崎巡査は特捜班から外され、さらに刑事係から他の係へ移されることとなった。

 12月25日、山崎巡査は弁論で証言台に立つ。
 山崎巡査はS逮捕の前にも何十人かの容疑者に拷問があったことを明らかにした。その間、国警刑事、署の同僚などが敵意を込めた視線を彼に突きつけていた。

 その後、上司である小林署長の証言が始まる。
「事件発生当日の朝、山崎は二俣署の刑事室におったという事実はありません。また山崎は事件発生直後、私を自宅に自動車で迎えに来たのであります。彼は事件現場に足を踏み入れていないはずであります。山崎の勤務状態は異常であります。性格は変質的で、嫌いな客が来ると、お茶の中にツバやフケを入れて出す。上司が留守の晩などは、どこかに火事が起これば良いと神様に頼む始末であります」
 
 小林署長は、いや警察は山崎巡査を精神異常者であるかのように仕立てたのである。この後、山崎巡査は辞職を勧められ、これに従った。だがそれでも独自の調査は続けた。
 この事件を独自に調査している人物は他にもいた、小池(旧姓南部)清松元刑事である。民間有志という立場で捜査協力し、小池元刑事もまた、法廷でSをシロとする証言を行った。

 1950年12月27日、静岡地裁浜松支部はSに死刑を言い渡す。裁判所は山崎・小池証言を無視し、小林署長の証言を全面的に採用したのである。
 同じ日、山崎巡査は偽証罪で逮捕、免職となっている。
 
 浜松拘置所に入れられた山崎元巡査は精神鑑定を受けることになった。名古屋大学付属病院精神神経科医・乾憲男氏が鑑定を担当し、その結果「妄想性痴呆症」という結果が出た。
 山崎元巡査は起訴されなかったものの、再就職の口も閉ざされ、新聞配達とわずかな山仕事で生活する日々が続いた。さらに自宅が不審火により焼失するということがあり、裁判資料などもすべて燃えてしまい、再び二俣事件の証言台に立つことはできなかった。なお火事の直前には、山崎元巡査の家族が不審な長靴の男を目撃していたが、警察の捜査はうやむやとなった。


【弁護士への手紙】

 1951年9月、東京高裁で、控訴棄却。
 この頃、清瀬一郎弁護士のところにある手紙が届く。「二俣事件の犯人とされているS少年は、どうもほんとうの犯人とは思えないフシがあるから、あなたの力でぜひ弁護してやっていただきたい」という内容のもので、清瀬氏はすぐにSの主任弁護人となり、最高裁に上告した。

 1953年11月、最高裁は 原審を破棄、裁判のやりなおしを命じた。その根拠として、Sの足は24cmで、返り血が着衣に付着していなかった点、匕首入手の架空性を指摘した。

 1956年9月20日、静岡地裁・矢田部裁判長は無罪判決を言い渡す。窃盗の件は本人も認めたため有罪となったが、執行猶予となっている。

 1957年10月26日、東京高裁で控訴棄却。一家4人殺しの無罪が確定した。
 拘置所を出たSは、浜松駅で両親に抱きついて泣き、同じく出迎えた小池元刑事もこれに涙した。


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≪参考文献≫

岩波書店 「誤った裁判 ―八つの刑事事件―」 上田誠吉 後藤昌次郎
岩波書店 「法医学の話」 古畑種基
現代書館 「FOR BEGINNERS 死刑」 前坂俊之
講談社 「権力の犯罪 なぜ冤罪事件が起きるのか」 高杉晋吾
三一書房 「無実を叫ぶ死刑囚たち」 無実の死刑囚連絡会議編
社会思想社 「20世紀にっぽん殺人事典」 福田洋 
すずさわ書店 「無実は無実に 再審事件のすべて」 朝日新聞社編
中央公論社 「法医学秘話 今だから話そう」 古畑種基 
東京法経学院出版 「明治・大正・昭和・平成 事件犯罪大事典」 事件・犯罪研究会・編 
図書出版社 「冤罪の戦後史 つくられた証拠と自白」 佐藤友之 真壁ひろし 
図書出版会 「拷問 権力による犯罪」 森川哲郎
日本評論新社 「拷問捜査 幸浦・二俣の怪事件」 清瀬一郎 
日本評論社 「死刑 消えゆく最後の野蛮」 正木亮
批評社 「ドキュメント精神鑑定」 佐藤友之
毎日新聞社 「サンデー毎日特別号 犯人は誰だ?戦後迷宮事件特集」 
洋泉社 「実録この殺人はすごい!」 柳下毅一郎監修



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