出歯亀事件




【事件概要】

 1908年(明治41年)3月22日夜、東京・大久保村西大久保(現・新宿区)の銭湯に行った婦人(27歳)が行方不明となり、銭湯近くの空き地で遺体となって発見された。この事件では付近でたびたび覗き行為をしていた植木職人・池田亀太郎(当時35歳)が逮捕され、まもなく犯行を自供。しかし亀太郎は公判で無実を訴えた。


池田亀太郎


【陰気な愉しみ】

 1908年(明治41年)3月22日、下谷電話交換局長Kさん(当時32歳)の妻E子さん(28歳)が、豊多摩郡大久保村西大久保(現新宿区)の銭湯「森山湯」に行ったまま1時間たっても帰宅しなかった。叔母(当時57歳)は心配になり、Kさんの弟(当時20歳)を森山湯に向かわせた。森山湯では「奥さんなら1時間前にお帰りなさいました」とのことだった.。

 家族や近所の人が心配して探し回ったところ、銭湯の近くの生け垣に囲まれた空き地の隅の青桐の木の下で他殺体となって発見された。遺体の口には銭湯で使ったばかりの彼女の手ぬぐいがかまされていた。この空き地の周囲は、北に民家、南に駄菓子などを売る平家があるが、この惨事に気づいた人は誰もいなかった。

「その時齢は二十七歳なりしが少しく小柄にして色白く黒目勝の眼は分明(ぱっちり)として水晶に点を打ちし如くなるより近所にても美人の聞え高かりき・・・・」
 E子さんは小柄で色白で近所でも評判の美人。埼玉県蕨の出身で、幼くして牛込区矢来町の大蔵省官吏Oさんの家に世話になり、裁縫や茶の湯をし、琴曲が得意だった。20歳の頃にOさんの同僚である官吏と結婚するが、酒と女遊びの好きな男だったため離縁した。事件の前年3月にKさんと結婚。妊娠5ヶ月だった。

 31日、新宿警察署は東大久保に住む植木職人兼鳶職・池田亀太郎(35歳)をこの殺人事件の容疑者として逮捕した。それは亀太郎がこれ以前にしばしば付近の女湯を覗き歩き、また湯帰りの婦女子を追尾していたずらしていたからである。
 亀太郎は母親(当時69歳)と妻(当時23歳)、妹(当時20歳)と暮らしているが、酒に溺れるうちに家賃や酒代が滞りがちになっていた。このため四度妻に逃げられ、当時は五人目の妻だった。普段はおとなしい人物なのだが、酒が入ると「覗き」をしたくなるという悪癖があった。

 4月4日、否認を続けていた亀太郎が犯行を自供。
 調書によると、事件当日、亀太郎は仕事が終わると、飲み屋に寄った。酔うと、いつものように女湯覗きがしたくなった。そこで森山湯に出かけ、塀の節穴から覗いていると、湯からあがった若い婦人がちょうど着物に着替えていた。亀太郎はこの婦人の後をつけ、12、3mほど行ったところ襲いかかって空き地に引きずり込んだ。婦人は大きな声を出したので、亀太郎は彼女の持っていた濡れ手拭いを奪ってそれで口を覆った。婦人はぐったりしたが、亀太郎はそのまま家に帰った。


【冤罪説】

 同年6月13日、東京地裁で第一回公判が開かれた。亀太郎は裁判長の尋問に対して時々涙ぐみながら陳述した。そして「警察で拷問を受けたので、嘘の申し立てをした」と自供を翻した。
 沢田薫弁護人も次のように述べている。
「私は池田と監獄で三度会った。前の二回では池田は予審の通りだと言っていたが、第三回目のとき、供述の前後の矛盾をつくと、池田は泣いて、実は自分がしたのではないと訴えた次第であるから、十分なる御審理を乞う」

 裁判所は合議して「風俗壊乱のおそれあり」という理由で、傍聴を禁止する措置をとった。

 公判はその後、6月17日、6月23日、7月17日とつづいた。
 その中で亀太郎は女湯覗きをして手淫する癖があること、仲間から「手淫の亀」と呼ばれていること、病床にある妻との性生活が少ないことなどを指摘され、それを認めている。
 亀太郎は「森山湯」の板塀に小さな穴が空いているのを以前から知っていたが、知っていると言えば疑われると思ったため「森山湯などどこにあるか知らない」という嘘をついた。この嘘が容易にバレたことで、警察の嫌疑を受けることとなった。そして節穴に気づいていたということは、当然覗きもしただろう、ということで、婦人殺人と結びつけられたのである。

 現場となった空き地で亀太郎はE子さんを襲ったという自供だが、最初現場に来た巡査の証言では、「どこかで殺されて、この空き地まで引きずられて来たという印象を持った」というものがある。
 自白においても、犯行の詳しい部分となるとはっきりしない。亀太郎が「酔っていてよくわからない」というのである。また自白を元にとられた調書には、亀太郎がE子さんを襲った時、婦人は「キャー」と叫び、その後亀太郎の股間を蹴ったというものがあるが、現場付近に住む人でこれに気づいた人はいない。E子さんの服装などについても、刑事がそうだろうと言うままに述べたものだったという。

 公判で弁護人は多数の証人と検証を申請したが、裁判所は証人として上記の現場を訪れた巡査とE子さんの夫を許しただけだった。その他、当日の亀太郎の足取りや、亀太郎のものとは違うとされる現場の足跡の検証などは却下されている。

 亀太郎は歯が出ているため仕事仲間から「出歯亀」と呼ばれていた。もちろん愛称ではなく、侮蔑を込めた呼び方である。あまり働く方ではないから、仕事仲間からの評判はえらく悪かった。逮捕されてすぐ仕事仲間の談話として「出歯亀」の名が出てからは、それがすっかり定着した。公判中も冤罪を信じる沢田弁護人が公判では「この出歯亀が〜」と連発したため、裁判官や検事を苦笑させた。
 なお出歯亀事件の弁護士として有名な沢田薫は前年に弁護士になったばかりだった。沢田弁護士は奇行が多く、面白いエピソードも豊富だが、その後早々と弁護士をやめ、40代の若さで亡くなっている。

 同年8月10日、東京地方裁判所・立石裁判長は亀太郎に無期懲役を言い渡した。亀太郎はこれを控訴。

「私は義を以って亀太郎の冤罪をはらさんとす」
 控訴審では高名な花井卓蔵弁護士が加わったが、翌年4月29日、東京控訴院でも同じ判決が下された。

 同年6月29日には大審院第一刑事部は上告を棄却した。上告審からは花井が離れ、弁護人は沢田、横山鉱太郎、柳本信俊というメンバーだった。


【出歯亀のその後】

 その後、亀太郎は何度か恩赦を受け、13年で出所。
 1933年(昭和8年)5月に女湯を覗いたとして早稲田署に逮捕された。しかし覗いてたのではなく、立ち小便していただけだということがわかり、釈放となっている。
 
 五寸釘の寅吉、花井お梅、昭和期には説教強盗妻木松吉、阿部定など、人々に愛された犯罪者が舞台に立つということがあったが、出獄直後の出歯亀も大正9年に上野・鈴本に出演したことがある。演芸場は大入り満員となったが、下谷署の命令で中止となった。(「明治九十九年 世相・事件」)
 
 出歯亀という言葉は「女湯などをのぞく行為などをする、変態性欲の男」という意味で、明治末年から大正にかけて流行り、それから後も使われるようになった。

 意外なかたちで名を残すことになった出歯亀こと池田亀太郎。亀太郎はその後、自分のために奔走してくれた沢田弁護士に感謝し続け、家族とともに神妙に暮らしたと記録には記されている。


リンク


≪参考文献≫

朝日新聞社 「朝日新聞一○○年の記事に見る(5)奇談珍談巷談 上」
オリオン社 「明治九十九年 世相・事件」 
ぎょうせい 「裁判からみた百大事件の結末」 真島一男
光栄 「近代日本殺人ファイル」 曾津信吾 長山靖生
三一書房 「誤った死刑」 前坂俊之
社会思想社 「20世紀にっぽん殺人事典」 福田洋 
春秋社 「<物語>日本近代殺人史」 山崎哲
勝利出版 「犯罪学入門 ちょっと怠屈している人のために」 野坂昭如監修 
新人物往来社 「別冊歴史読本 新・殺人百科データファイル」
日本評論社 「史談裁判」 森長英三郎 
日本文芸社 「現代読本 波乱怪奇!人と事件百年史 1月創刊号」 
扶桑社 「日本猟奇・残酷事件簿」 合田一道+犯罪史研究会 


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