バー・メッカ殺人事件





【事件概要】

 1953年7月27日午後9時前、新橋のバー「メッカ」で、株ブローカー(39歳)がメッタ打ちにされ殺害されているのが見つかった。同店ではボーイ(当時19歳)が事件後行方をくらませており、目撃証言から、このボーイと、正田昭(当時24歳)ら3人が指名手配される。
 10月12日、京都に潜伏していた正田が逮捕された。アプレ犯罪のひとつといわれる。

※アプレゲール・・・・「戦後」を意味するこの言葉は、第1次大変直後のフランスで生まれた。戦後、価値観が崩壊し、それに変わる価値観も確立されず混乱を続けたが、知識人たちはこれを逆手にとって新しい芸術の方向を模索した。ここから「ダダイズム」や「シュールレアリスム」という芸術も生まれている。日本では第2次大戦後、野間宏、中村真一郎、三島由紀夫らがこの言葉を小説などの名称に使い、自分たちの文学を示した。1950年、刹那的な充足感を求める青年たちの犯罪が相次ぐ。多くが中流階級の子弟の、世の中をまだ知らない若者の短絡的な動機による犯行だった。こうした犯罪は「アプレ犯罪」と呼ばれた。他に「鉱工品貿易公団横領事件」、「金閣寺放火事件」「日大ギャング事件」「『光クラブ』事件」など。


正田昭
近藤清
相川貞次郎



【バー「メッカ」】
 
 東京・新橋はサラリーマンの街として知られる。TV番組のクイズやアンケートに、酒に酔ったサラリーマンが答える場所と言えば、大抵この街である。新橋駅周辺には1953年当時でも安く飲める酒場がいくつもあった。こじんまりしながらもバンド席や踊り場のあるバー「メッカ」もそのひとつで、7月27日、ここを舞台に殺人事件が起こった。
 
 午後9時前、カウンター席でビールを飲んでいた男性客の肩口に、血がポトリポトリと落ちてきた。天井を見ると、どす黒い血のシミができている。
 メッカの裏に住んでいた職人が頼まれて中2階の押し入れを調べてみると、そこには血まみれの死体があった。死体は両足を電気コードで縛られており、鈍器で全身30ヶ所をメッタ打ちにされていた。他にも刃物による刺し傷、紐で首を絞められた後など、無惨な状況だった。店員によると、この男は店に時々来る客だとわかった。

 被害者は横浜市に住む証券会社のブローカー・博多周(39歳)。事件当日、証券を担保にして銀行から40万円を引き出していたが、この金は紛失していた。

 この事件後、メッカに住みこみで働いていたボーイ・近藤清(当時19歳)が1人、行方をくらませていた。さらに近藤が、昼間に同店で常連客だった正田昭(当時24歳)という若い男と一緒にいるのを見たという証言もあった。また被害者の勤め先には見習いで働いていた男が欠勤しており、この男の名前は「正田」と言った。まもなく近藤と正田、正田のマージャン仲間の3人が指名手配された。

 29日、神奈川県藤沢市にある正田の下宿先付近で、博多の腕時計をしていた男が逮捕される。この男は正田のマージャン友達の相川貞次郎(当時22歳)であることがわかった。彼は犯行に加わらず、口止め料として腕時計と現金2万円を受け取っていた。

 8月3日、近藤が静岡市警に自首。近藤は「新聞で見ると、正田はあんなにたくさんの金を手に入れたのに、俺には3万円しかよこさなかった」と愚痴を言っている。警察は引き続き、主犯格の正田を追った。


 10月1日、京都にある旅館で、1人の男の服毒自殺をした。顔が正田と似ており、警察が正田の実兄を呼んで確認してもらったところ、どうやら間違いがないらしかった。主犯の死亡により、事件解明は困難なものになると見られたが、この自殺者は別人とわかった。しかし、この報道が正田逮捕につながる。

 10月12日、麻雀仲間の通報により、京都・銀閣寺近くのアパートに潜伏していた正田が逮捕された。これだけ大々的に報道されたのにも関わらず、正田が70日間も逃げ続けられた理由はメガネにあった。正田は近視で、普段はメガネをかけていた。手配写真もメガネをかけたものだ。しかし正田はこの頃、当時としては珍しいコンタクトレンズを入れていたのである。余談だが、当時のコンタクトレンズは今の物ほど精巧ではなく、目に涙がたまって、水中で目をあけているような感じだったという。
 正田は京都から東海道線「明星」で東京に護送されたのだが、マスコミが徹夜の布陣を組んで、豊橋駅から同乗取材した。それほどまでに、バー・メッカ事件の報道は過熱していた。

 取り調べが始まる。
 当初は「ただナット・ギルティ(無実)を主張するだけです」と英語交じりに語っていた正田だったが、犯行を自供した。
 犯行の動機は「義理のある人(恋人の母親)から預かった株券を無断で売却処分してしまった。その金を返したい一心でやった」というものでだった。被害者の博多とは、以前務めていた証券会社の仕事で知り合ったという。事件当日、「借金がしたい」とメッカに博多を呼び出し、正田が首を電気コードで絞め、近藤が角棒でメッタ打ちにして殺害した。


【慶応、恋愛、麻雀】

 1929年、正田昭は大阪の弁護士の家庭に四男二女の末っ子として生まれた。しかし、正田がまだ生後5ヶ月の時に父親が亡くなり、日本女子大卒の母親が女学校などで体操教師をして6人の子どもを育て上げた。
 長兄は他人と協調できない性格で、家族に対して暴力を振るった。まだ幼かった正田はそれを目の辺りにして、心に「脅え」のようなものを背負うようになったという。自殺、家出も考え、「大人は信用ならない」と思うようになった。

 正田の兄3人は皆一流大学に進んでいる。正田も例外ではなく、一浪して48年に慶應大学経済学部に進学。49年には次兄の購入した辻堂(藤沢市)の家に母と姉と共に移り、正田の学費も次兄が出した。

 正田はスラっとした、なかなかハンサムな男で、どこかジェームス・ディーンを思わせる。捜査の過程で刑事たちが水商売の女性たちに彼について尋ねても、評判はえらく良かった。実際、正田は女には不自由していなかったが、49年7月に藤沢のダンスホールで出会った体操教師・A子(当時19歳)には夢中になった。
 「体操の先生」は母親と同じ職業である。この美男美女カップルはやがて肉体関係を持ち、結婚を約束する仲になっていた。しかし、この出会いにより、それまで地味だった彼の学生生活は乱れ始めた。正田の母親はA子に「あなたが昭を堕落させた」と言い、結婚に反対した。

 A子は魅力的な女性だったが、奔放な性格だったのか、10月頃、正田は「あいつは誰とでも寝る女だ」と友人から聞かされた。その友人自身もA子と関係を持ったという。これに正田はひどくショックを受ける。部屋に塞ぎこみ、自殺も考えた。
 A子とは11月頃に縁りを戻したのだが、彼女への疑いは残った。大学4年時にはA子が3度妊娠したが、自分の子だと確信が持てなかったため堕ろさせた。

 1953年春、慶大を卒業して、三栄証券に入社。ここは元々第1志望ではなかった。大手自動車会社から内定をもらっていたのだが、卒業間際に肺浸潤が見つかり取り消されていたのだ。不本意だったこの証券会社では、学生時代に覚えた賭け麻雀の癖が抜けず、入社2ヶ月で人の株券・預り金を使いこんで解雇された。


【裁判】

 56年12月15日、東京地裁、正田に死刑判決。共犯の近藤は懲役10年、相川は同5年の判決を受けていた。

当時、イタリアに留学していた正田の兄は、親交のあったパリ宣教会のカンドウ神父(東京大神学校長)に手紙を書いた。
「弟が殺人の罪をおかしました。極刑は覚悟せねばなりません。弟の魂をなんとか救っていただきたい」

 カンドウ神父はさっそく正田に面会に行き、正田はそれからカトリックと出会い、松沢病院でカンドウ神父から受洗した。
 その後の正田は模範囚だったという。拘置所ではカービン銃ギャング事件の大津健一と親しくし、また小松川女子校生殺人事件の李珍宇に対しては、所内では年少者ながら何かと他人を見下しがちだったので、態度を戒めるなどした。
 裁判については正木亮弁護士を全面的に信頼し、自らは小説や絵画などの創作活動に励んだ。63年には「サハラの水」という小説を書いて、「群像」の新人賞候補にもなっている。

 60年12月21日、東京高裁、控訴棄却。

 63年1月25日、最高裁は上告棄却。正田の死刑が確定。

 1969年12月19日、死刑執行。正田、享年40。
 その前夜、正田は正木弁護士宛てに次のような手紙を書いていた。



 先生、さようなら。いよいよお別れの時が参りました。つい先日、慈父のごとき愛にみちた御手紙をいただいたばかりですのに、もう先生のお言葉に接することができないとは、本当に悲しいですし、明日の死を前に、最後の面会に来てくれました母の心を思うと、ふかい悲しみにみたされ、今更のように親不孝なわが身が責められてなりません。

 しかし、今は母もゆるしてくれているでしょう。母は『天国に行って待っていてね。そしてお母さんがゆくときは迎えに来てね』と云いました。カンドウ神父さまをはじめ、多くの人を迎え入れた<かの国>へ私も明日参ります。
 
 先生、ながい間、本当にありがとうございました。御恩はあちらへ行っても忘れません。どうぞ母と私のためにお祈りください。
 
 これから、最後の夜を母のためにすごすつもりです。では先生、もういちど、さようなら。
                               

                                            正田昭 


 

 また生前の正田と親交のあった作家・加賀乙彦は彼を題材にした「宣告」という小説を書いた。


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≪参考文献≫

アスペクト 「実録 戦後殺人事件帳」
一声社 「昭和事件史」 加太こうじ 
鏡浦書房 「鑑識捜査」 遠藤徳貞
学習研究社 「歴史群像シリーズ81 戦後事件史 あの時何が起きたのか」
河出書房新社 「現代日本殺人史」 福田洋・著、石川保昌・編
河出書房新社 「常識として知っておきたい昭和の重大事件」 歴史の謎を探る会・編
現代評論社 「現代の眼 78年8月特大号 全特集・戦後犯罪史−怨恨と欲望の社会病理」
講談社 「戦後欲望史 混乱の四、五○年代篇」 赤塚行雄
弘文堂 「ある死刑囚との対話」 加賀乙彦
作品社 「犯罪の昭和史 2」 作品社・編
潮出版社 「犯罪ノート」 加賀乙彦
思想の科学社 「思想の科学 6月臨時増刊号 犯罪事典」
春秋社 「<物語>日本近代殺人史」 山崎哲 
人物往来社 「捜査課長メモ」 三宅修一
新人物往来社 「別冊歴史読本 殺人百科データファイル」
新人物往来社 「別冊歴史読本 新・殺人百科データファイル」
新人物往来社 「別冊歴史読本 戦後事件史データファイル」
新評社 「別冊新評・臨時増刊 戦後重大事件懇談会」 佐野洋 森本哲郎 熊井啓
青林工藝社 「日本の殺人者」 蜂巣敦 
綜合図書 「異常犯罪白書 恐怖の戦慄・凶悪20大事件」 島田清
大洋図書 「日本震撼事件 戦後殺人ファイル100」 日高恒太朗
宝島社 「別冊宝島 死刑囚 最後の1時間」
筑摩書房 「その時この人がいた もうひとつの昭和史」 井出孫六
筑摩書房 「犯罪紳士録」 小沢信男
中央公論社 「死刑囚の記録」 加賀乙彦
東京法経学院出版 「明治・大正・昭和・平成 事件犯罪大事典」 事件・犯罪研究会・編
徳間書店 「実録・大物死刑囚たち さらばわが友」 カービン銃ギャング事件主犯・元死刑囚=K・O
徳間書店 「殺人百科V」 佐木隆三
徳間書店 「人間臨終図鑑 上巻」 山田風太郎 
図書出版社 「増補版 事件百年史」 楳本捨三
毎日新聞社 「毎日グラフ別冊 サン写真新聞 ”戦後にっぽん”8 昭和28年=1953・癸巳
みすず書房 「日本の精神鑑定」 内村祐之・吉益脩夫監修 
みすず書房 「正田昭 黙想ノート」 正木亮・吉益脩夫編
ミリオン出版 「別冊ナックルズ 昭和三大事件」 
ワニマガジン社 「極悪人 世界悪漢列伝―脅威の悪人たち!」 


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